第十三話 二十七秒前
「一週間」
口に出した数字が、テーブルの上に落ちた。
カリンは伏せていたスマホを持ち上げ、事務所から届いた企画書を開く。
新人覚醒企画。
師弟共闘。
より高難度の区画へ挑戦。
昨日、死にかけた人間たちへ渡す内容ではなかった。
「昨日の配信、まだ見られますか」
「アーカイブなら残ってます」
「ゴーレムが出る前から確認したいです」
カリンが画面を操作する。
向かい側からでは、流れるコメントまでは読めない。スマホを借りようと手を伸ばしかけると、カリンは鞄を抱えて立ち上がった。
「そっちへ行ってもいいですか。二人で見た方が早いので」
「あ、はい。どうぞ」
声が裏返らなかった。
それだけで、今日の俺はかなり頑張っている。
カリンが隣へ腰を下ろした。
背もたれの高いボックス席が、急に狭くなる。帽子からこぼれた髪が、こちらの肩のすぐ横で揺れた。
昨日の撮影中より近い。
病室で話した時よりも近い。
推しが自分から隣へ来て、一台のスマホを覗き込んでいる。
俺は肘の置き場を失い、意味もなく水のグラスを数センチ向こうへ動かした。
「相原さん?」
「見てます」
「まだ再生してませんけど」
「これから見る準備をしています」
自分でも何の準備なのか分からない。
カリンはマスクの上で目を細めた。
笑っている。
口元が隠れているせいで、余計にそこへ意識が向いた。
「ここからでいいですか」
「お願いします」
再生が始まる。
画面の中では、ミアが回復薬をカリンへ差し出していた。コメント欄には、二人のやり取りを喜ぶ言葉が次々に流れていく。
昨日の俺も、たぶんそこしか見ていなかった。
『じゃ、次いこうか』
久世の声が入る。
「少し戻してください」
十秒戻す。
映像が同じ場面を繰り返した。
「もう一度」
二十秒戻す。
三度目で、出演者の後ろを横切る影が目に入った。
「止めてください」
画面の端を指す。
メインカメラとは別のカメラマンが、通路の入口側へ下がっていた。
出演者たちは奥へ進もうとしている。
その流れに逆らうように、カメラだけが距離を取っている。
「出演者を追ってないですね」
「何を撮ろうとしてるんでしょう」
「この位置なら、通路全体が入ります」
カリンが映像を止め、別のファイルを開いた。
配信前に撮られた宣伝用の映像らしい。スタッフがケースや照明を運び、床へケーブルを這わせている。
荷台が横切ったところで、カリンの指が止まった。
荷台の端から、黒い拘束具が覗いている。
三本の溝が刻まれていた。
俺の鞄の中に入っている金属片と、同じ並びだった。
「本番中も、裏側を撮っていたカメラがあったはずです」
「映像は残ってますか」
「全部ではないですけど、広報から共有されたものが少し」
カリンがフォルダを開く。
短い動画が、時刻順に並んでいた。
配信開始後のものを選ぶと、メインカメラの後方から通路全体を撮った映像が始まる。
ミアがモンスターを倒し、カリンたちと合流する。
スタッフが機材を動かし、久世が台本を片手に声を上げる。
『じゃ、次いこうか』
「ここです」
二台目のカメラマンが、入口へ向かって二歩下がった。
続いて、照明スタッフがライトの角度を変える。ミアたちではなく、その先にある暗い通路まで光が届いた。
まだ、ゴーレムは映っていない。
誰も悲鳴を上げていない。
出演者も奥を警戒していなかった。
「ゴーレムが出るまで、何秒ですか」
カリンが再生位置の数字を確認する。
「二十七秒です」
画面へ顔を寄せたカリンの肩が、俺の腕に触れた。
再生中の映像が止まる。
「相原さん」
「はい」
「止まってます」
いつの間にか、俺の指が一時停止を押していた。
「カメラを見てました」
嘘ではない。
何割かが映像のカメラでなかっただけだ。
再生を続ける。
通路の奥から、ゴーレムが姿を現した。
音声担当が後ずさり、足元のケーブルを踏む。補助スタッフの腕から機材箱が滑り落ち、鈍い音が響いた。カメラマンも一度レンズを下げている。
誰もが、そこで初めて異変に気づいていた。
久世だけが動かない。
画面の外へ逃げるスタッフを見送り、手元の台本を一枚めくった。
「止めてください」
今度はカリンが映像を止める。
「この台本、私たちが渡されたものと違います」
「紙だけで分かるんですか」
「私たちの台本は、端まで白でした」
久世の持つ紙には、端にだけ薄い黄色が見える。
付箋かもしれない。
別の資料が挟まっているだけかもしれない。
ただ、あの場で久世だけが別の紙を持っていた。
「この動画、送ってもらえますか」
「公開配信の方も必要ですか」
「保存できるものは全部お願いします」
カリンが共有画面を開き、俺のスマホへ動画を送る。
操作するたびに髪が近づき、微かに甘い匂いがした。
昨日まで画面の中にいた人が、俺の隣で証拠になりそうな映像を選んでいる。
状況が現実的なのか非現実的なのか、もうよく分からなかった。
「送りました」
「ありがとうございます」
顔を上げたカリンと目が合う。
「相原さん、少し赤くないですか」
「店が暑いんだと思います」
即答した。
カリンが店内を見回す。
近くの客は、上着を着たまま湯気の立つコーヒーを飲んでいた。
「暑いですか?」
「俺には暑いんです」
「それなら仕方ないですね」
カリンはそれ以上追及せず、鞄を持って向かいの席へ戻った。
広くなった隣の席を見て、一瞬だけ残念に思った自分は無視する。
スマホには、受け取った動画が並んでいた。
カメラが下がる。
照明が奥を向く。
それから二十七秒後に、ゴーレムが現れる。
画面の中の時刻だけが、事故より二十七秒先を走っていた。




