第八節 ― ラーザァー任命
会議の間は、月神殿の心臓にあった。
白い高殿の下。
月輪庭から伸びる螺旋階段を降り、二重の扉を抜けた先に、その広間は開いている。
天井は高く、半球状に丸められていた。そこには昼の月を模した銀板が嵌め込まれ、淡い光を放っている。壁には歴代のラーザァーの名が刻まれ、床には巨大な月相陣が描かれていた。
新月。
上弦。
満月。
下弦。
その四つの月を結ぶ線の中心に、黒い石の台座がある。
アレクは、その台座を見た瞬間、胸の奥が軋むのを感じた。
月神の神殿にあるには、あまりにも暗い石だった。
けれど、誰もそれを不吉だとは見ていない。
神官たちは整然と壁際に並び、貴族たちは絹と銀糸の礼装をまとい、静かに儀式の始まりを待っていた。
広間の最奥には、十三神官の席がある。
その中央に、父がいた。
神官長として。
アレクの父としてではない。
白い高位神官服をまとい、銀の月章を胸にかけ、冷たい顔で広間を見渡している。その視線がアレクに触れた瞬間、ほんのわずかに眉が動いた。
月輪庭から入ったことに気づいたのだろう。
だが、今ここで咎めることはしなかった。
この場では、すべてが儀式になる。
怒りも、疑念も、父子の感情さえも、神殿の白い形に押し込められる。
アレクは、広間の中央へ進んだ。
そこには、すでに五人が立っていた。
ラーザァー召集を受ける者たち。
ひとりは、キルス=ルナティア。
アレクと同じ年頃の少女だった。青みを帯びた銀髪を短く整え、白と深藍の礼装をまとっている。貴族家ルナティアの娘であり、月神殿の儀礼剣を扱う魔導剣士として知られていた。
彼女の立ち姿は美しい。
だが、表情は硬い。
誇りだけではない。
何かを押し殺している顔だった。
アレクと目が合う。
キルスは小さく頷いた。
親しいわけではない。けれど、同じ場所へ立たされた者として、互いに何かを察する程度の距離があった。
ほかの四人も、それぞれに選ばれた者たちだった。
神官家の少年。
貴族の次男。
巫女付きの魔導補佐。
月読術を学ぶ少女。
皆、若い。
若すぎるほどだった。
彼らの胸元には、まだラーザァーの証はない。
代わりに、候補者を示す白い紐が結ばれている。
アレクは六人目として、その列に加わった。
背後で、ザヴォラムが広間の端に立った。
彼は召集対象ではない。
神官見習いとして、あるいは補佐役として控える位置にいる。
だが、アレクにはわかった。
彼は見張っている。
神殿のためだけではない。
アレクが倒れる前に膝をつけるか、名を読まれる瞬間に何かが起きるか、そのすべてを見逃さないために。
そして広間のさらに奥、薄い帳の向こうに巫女がいた。
月巫女。
メミスにおいて、月神ムーミストの声を受ける者。
白い衣を重ね、顔の半分を薄絹で覆っている。年齢はわからない。若くも見え、ひどく年老いても見える。額には細い銀冠。その中央に、小さな月石が嵌められていた。
巫女は動かない。
だが、彼女がそこにいるだけで、広間の空気は変わった。
神官団が持つ権力とは違う。
貴族たちの視線とも違う。
もっと古く、もっと静かなもの。
アレクのエイースが、巫女の方へわずかに反応した。
胸元の黒曜石が、冷たくそれを押し返す。
一拍。
母のくれた猶予が、血の勝手な反応を遅らせた。
アレクは息を整えた。
父が立ち上がる。
広間のざわめきが止まった。
「月神ムーミストの御名のもとに」
父の声が響く。
「本日、四十年の時を経て、ラーザァー召集をここに告げる」
その言葉と同時に、床の月相陣が淡く光った。
貴族たちが頭を垂れる。
神官たちが右手を胸に当てる。
候補者たちも、それに倣う。
アレクも手を胸へ置いた。
月章の裏で、黒曜石が冷たく触れる。
「四十年に一度、黒底湖の底に眠る古き災厄は目覚める。水を濁し、月を欠き、都を脅かす地蛇レ=ザービ=トゥルド。その災厄に対し、月神は六つの祝福を地上へ授けられる」
広間の奥で、巫女付きの記録役が筆を走らせている。
父の言葉が、そのまま聖なる記録として残されていく。
「その祝福を受け、都を守る六人の魔導士。それがラーザァーである」
ラーザァー。
その名が広間に満ちる。
貴族たちの目が、候補者たちへ向いた。
期待。
畏敬。
興味。
値踏み。
アレクは、その視線を肌で感じた。
彼らは英雄を見る目をしている。
同時に、供物を見る目もしている。
本人たちに、その自覚はないのかもしれない。
「ラーザァーは名誉である」
父は続けた。
「ラーザァーは献身である。メミスの民の祈りを背負い、月神の血を受け、レ=ザービ=トゥルドを退ける聖なる役目である」
聖なる役目。
アレクは、その言葉を聞きながら、湖底の黒いものを思った。
今朝、訓練場で見た亀裂。
街の上空から見えた巨大な封印陣。
白い月相紋の下にある黒い線。
聖なる、という言葉は、あまりにも白すぎる。
「これより、〈血の雫〉を奉じる」
父がそう言うと、広間の奥から六人の下級神官が現れた。
それぞれが銀の小箱を捧げ持っている。
小箱はひとつずつ、黒い石の台座の周囲へ置かれた。
蓋はまだ閉じている。
だが、アレクの胸が強く反応した。
痛い。
思わず息が詰まる。
黒曜石が冷たく震え、反応を一拍遅らせる。
その一拍がなければ、膝をついていたかもしれない。
キルスが横目でアレクを見る。
彼女も何かを感じているのか、唇を固く結んでいた。
父は六つの箱を見下ろした。
「〈血の雫〉。これは月神ムーミストが四十年の祈りの果てに生み出す、純粋なる祝福である」
神官たちが一斉に頭を垂れる。
貴族たちの間に、感嘆の気配が広がった。
「四十年のあいだ、メミスの民は月へ祈りを捧げる。巫女はその祈りを受け、神官団は術式を整え、都市の月相陣は祈りを集める。そうして結晶した六つの神血こそが、ラーザァーに授けられる〈血の雫〉である」
言葉は、神聖だった。
父の声は滑らかで、疑う余地を与えない。
民の祈り。
巫女の血。
神官団の術式。
都市封印陣。
それらすべてが月神のもとに清められ、祝福として結晶する。
そう語られている。
広間にいる者たちは、その説明を疑わない。
だが、アレクには違って聞こえた。
民の祈り。
巫女の血。
神官団の術式。
都市封印陣。
そして、封印された古いものの力。
父は最後のひとつを言わなかった。
言葉の中から、そこだけが抜かれている。
けれど、抜かれたものほど、胸の奥で大きく響く。
〈血の雫〉は、純粋な祝福ではない。
まだ確信ではない。
だが、血がそう告げている。
六つの小箱の中には、月神だけではない何かがある。
祈りと血と術式と封印。
美しく重ねられた白い名の下に、黒いものが混じっている。
「これを受けし者は、月神の代理として地蛇へ立ち向かう」
父の声が続く。
「六人のラーザァーは、互いに血を結び、祈りを合わせ、四十年に一度の聖戦へ赴く」
聖戦。
その言葉に、貴族たちの目が輝いた。
彼らにとって、それは歴史の一場面なのだろう。
家名を高める機会。
都を守る物語。
神殿と貴族が手を取り合う美しい儀式。
だが、候補者たちの列には、違う空気が流れていた。
神官家の少年は青ざめている。
貴族の次男は誇らしげに立とうとしているが、指先が震えている。
巫女付きの補佐は目を伏せ、祈りの句を小さく繰り返している。
月読の少女は、唇を噛んで台座を見ていた。
キルスだけは、まっすぐ前を見ていた。
だが、その横顔にも緊張があった。
アレクは、自分だけではないのだと気づいた。
ここに立つ六人は、皆、選ばれた者として扱われている。
けれど本当は、皆、差し出される者でもある。
巫女が立ち上がった。
帳の向こうで、白い衣が揺れる。
広間の空気がさらに静まった。
巫女は、ゆっくりと台座へ歩み寄る。彼女の足取りは軽い。石床に触れているのに、音がしない。
六つの小箱の前で、巫女は手を掲げた。
「月は欠け、月は満ちる」
その声は、父の声とは違った。
低く、細く、けれど広間の隅々まで届く。
「血は巡り、祈りは沈み、四十年の夜を越えて、雫は結ぶ」
神官たちが唱和する。
「雫は結ぶ」
貴族たちも続く。
「雫は結ぶ」
アレクも口を動かした。
だが、声は出なかった。
巫女の白い指が、小箱の上をなぞる。
箱の蓋に刻まれた月紋が、ひとつずつ光った。
銀ではない。
白に近い赤。
血の色を、月光で薄めたような色。
アレクの胸が大きく跳ねた。
黒曜石が冷たく震える。
一拍。
もう一拍。
それでも反応を抑えきれない。
〈血の雫〉が近い。
箱の中から、こちらを呼んでいる。
月神の祝福としてではなく、もっと古い何かの底から。
見つけた。
今朝の声が、また耳の奥で響いた。
アレクは膝をつきそうになった。
その瞬間、広間の端にいるザヴォラムが見えた。
倒れる前に膝をつけ。
彼の言葉を思い出す。
アレクは身体をわずかに沈めた。
倒れるのではなく、儀礼の姿勢に見えるように、片膝をつく一歩手前で体勢を整える。
父の目がこちらを見た。
だが、神託反応とは記録できない。
アレクは立っている。
少なくとも、まだ。
ザヴォラムの表情は変わらない。
けれど、その目が一瞬だけ細くなった。
よくやった、と言われたような気がした。
「これより、六名の名を読み上げる」
父が言った。
アレクの心臓が強く打った。
名を読まれる。
その瞬間、召集は正式な記録になる。
父の手に、銀の巻物が渡された。
記録役が立ち上がり、筆を構える。
広間全体が、名を待つ。
父は巻物を開いた。
「第一候補。キルス=ルナティア」
キルスが一歩前へ出る。
彼女は膝をつき、右手を胸に当てた。
「月神の御名のもとに」
声は震えていない。
「召集を受けます」
貴族席の一角から、満足げな気配が広がる。ルナティア家の者たちだろう。
父は次の名を読む。
「第二候補。セリオ=マクレイン」
神官家の少年が前へ出る。
「第三候補。ミリア=オルフェ」
月読の少女が進む。
「第四候補。ダレン=ヴァルク」
貴族の次男が誇らしげに胸を張る。
「第五候補。ノエル=ラザリカ」
巫女付きの補佐が、顔を伏せたまま膝をつく。
そして。
父の視線が、アレクへ向いた。
広間の空気が、ほんの少し変わった。
「第六候補」
アレクは胸元の黒曜石を握った。
一拍。
まだ、自分の意思で聞くために。
父の声が響く。
「アレク=アルフェラッツ」
その名が、広間に置かれた。
アレク。
神殿の台帳にある名。
父が与えた名。
男の後継として扱うための名。
ラーザァー候補として記録される名。
アレクサンドラではない。
胸の奥で、もうひとつの名が小さく息をした。
母の声。
シルハインドの声。
自分だけが知っている奥の場所。
アレクは一歩前へ出た。
広間中の視線が集まる。
父の目。
十三神官の目。
貴族たちの目。
巫女の薄絹越しの目。
キルスの横顔。
ザヴォラムの冷たい視線。
そして、どこか遠くから、蒼い観測の目がこちらを見ているような感覚。
アレクは膝をついた。
完全に屈するためではない。
倒れないために。
自分で選んだ姿勢として。
「月神の御名のもとに」
声が出る。
驚くほど静かな声だった。
「召集を――」
言葉が止まりかける。
受けます。
そう言えば、記録になる。
拒めば、その場で父に押さえ込まれるかもしれない。
逃げれば、母もシルハインドも巻き込まれる。
ならば。
今は、受ける。
ただし、血も名も渡さない。
アレクは続けた。
「召集を聞き届けます」
広間に、かすかなざわめきが走った。
受けます、ではない。
聞き届けます。
儀礼句としては、わずかに外れている。
神官団の何人かが眉をひそめた。
父の目が冷たく細まる。
だが、明確な拒否ではない。
記録役の筆が一瞬止まる。
巫女が、薄絹の奥でアレクを見た。
その視線には、責める色はなかった。
むしろ、何かを確かめるような静けさがあった。
父は、ほんの短い沈黙のあと言った。
「召集は聞き届けられた」
記録役が筆を動かす。
言葉は、書き換えられた。
アレクは胸の奥で息を吐いた。
完全に逃れたわけではない。
だが、完全には渡さなかった。
父は小箱へ手を向けた。
「六名は、ここにラーザァー候補として正式に記録される。次なる月の夜、〈血の雫〉を授かり、ラーザァーとして任命される」
アレクは顔を上げた。
まだ今日ではない。
〈血の雫〉を受けるのは、次の月の夜。
猶予がある。
ほんのわずかだが、ある。
母の黒曜石が、胸元で冷たく光る。
神官たちは祈りの句を唱え始めた。
貴族たちは、六人の若者たちを祝福するように手を胸に当てる。
広間の中心では、六つの小箱が静かに並んでいる。
その中にある〈血の雫〉は、今はまだ神聖な祝福として語られている。
民の祈り。
巫女の血。
神官団の術式。
都市封印陣が集めた月の恵み。
美しい言葉で飾られた、六つの血晶。
だがアレクには、箱の隙間から滲む光が、ほんの一瞬だけ濁って見えた。
白く、赤く、そして底の方に黒い。
まるで清らかな水に、誰にも見えない血が一滴落ちているように。
アレクはそれを見つめた。
祝福だと語られるもの。
けれど、いつか必ず、別の名で呼ばれるもの。
今はまだ誰も知らない。
この聖なる雫が、どれほど多くの祈りと血と嘘を混ぜて結ばれたものなのか。
そして、その汚れに最初に気づくのが、自分の血であることを。
祈りの声が広間に満ちる。
月神殿は、六人のラーザァー候補を祝福した。
アレクは、片膝をついたまま、その祝福を受けていた。
けれど胸の奥では、もうひとつの名が静かに目を開けている。
アレクサンドラ。
誰にも読み上げられなかった名。
その名だけが、いまのアレクを、神殿の記録からほんの少しだけ守っていた。




