第九節 ― 神官長キルス
祈りの声が終わっても、広間の空気は解けなかった。
六つの小箱は、黒い石の台座の周囲に置かれたままだった。
蓋は閉じている。
それでも、その内側から滲む気配は、アレクの血の奥に残っていた。
〈血の雫〉。
月神の祝福として語られたもの。
四十年の祈りが結んだ、神聖なる血晶。
けれどアレクには、あれが純粋なものとは思えなかった。
民の祈り。
巫女の血。
神官団の術式。
都市封印陣。
そして、言葉にされなかった何か。
白い言葉で覆われた、その下にある黒いもの。
アレクは片膝をついた姿勢から立ち上がった。
身体が少し揺れる。
すぐ近くにいた月読候補の少女が、心配そうにこちらを見た。だが声はかけない。ここでは、候補者同士の不用意な私語も記録される。
父は十三神官の席へ戻っていた。
その横顔には、式が滞りなく進んだことへの満足と、アレクの儀礼句がわずかに外れたことへの不快が、冷たく重なっている。
召集を受けます、ではなく。
召集を聞き届けます。
たった一語の違い。
けれど、その一語だけが、アレクを完全な供物にしなかった。
「六名は、控えの間へ」
記録役が告げた。
候補者たちが動き出す。
キルス=ルナティアは、最初に歩き出した。背筋は伸び、足取りは揺らがない。誰が見ても、ラーザァーにふさわしい誇り高い候補者に見えただろう。
けれどアレクは、その横顔を見て、彼女の唇がわずかに白くなっていることに気づいた。
彼女も、恐れている。
恐れを見せないように訓練されているだけだ。
その姿に、アレクは自分と似たものを感じた。
だが、その感覚はすぐに別の気配に遮られた。
広間の奥。
巫女の帳の前に、ひとりの男が立っていた。
キルス。
月神殿の神官長。
白い高位神官服ではなく、深い夜青の長衣をまとっている。袖口と襟には銀糸で月相紋が刺繍され、胸元には神官長の月章が下がっていた。ただし、その月章は父のものとは形が違う。
父の月章が権威を示すものなら、キルスの月章は鎖に見えた。
細く、美しく、壊れにくい鎖。
彼は若く見えた。
だが、その目は若くなかった。
顔立ちは巫女に似ている。
薄絹の奥にいた巫女の目元と、ほとんど同じ形。
同じ血。
同じ輪郭。
双子。
そう知っていても、二人の印象はまるで違った。
巫女は月の水面のように静かだった。
キルスは、その水面の下に沈められた刃のようだった。
彼は広間を見渡した。
神官団。
貴族たち。
候補者たち。
六つの小箱。
黒い台座。
そのすべてを、ひどく冷めた目で見ている。
信仰の中心に立つ者の目ではなかった。
むしろ、信仰の機械が今日も正しく人を噛み砕く様子を見届ける者の目だった。
「アレク=アルフェラッツ」
名を呼ばれた。
アレクは足を止めた。
候補者たちが振り返る。
父の視線もこちらへ向く。
キルスは静かに言った。
「君は残れ」
広間がわずかにざわめいた。
父が立ち上がる。
「キルス神官長。召集候補者は、これより控えの間で儀礼説明を受ける手筈です」
キルスは父を見た。
「知っている」
短い返事だった。
それだけで、父の言葉は止まった。
不思議だった。
父は神殿で強い権限を持っている。
十三神官の中でも発言力があり、ラーザァー召集を進めた中心人物だ。
だが、キルスの前では一歩引く。
それは敬意というより、制度上の序列だった。
キルスは、神官長。
ただの管理者ではない。
巫女の双子として、月神殿の血統と儀礼を維持するために置かれた、特別な役職。
巫女が月神の声を受けるなら、キルスはその声を神殿の制度へ変換する者。
そして同時に、巫女を守るための壁。
あるいは、巫女を神殿につなぎ止めるための杭。
彼自身もまた、役割として生かされている。
アレクは、なぜかそう感じた。
候補者たちは控えの間へ向かった。
キルス=ルナティアがすれ違いざま、アレクにだけ聞こえるほど小さく言った。
「気をつけて」
それだけだった。
だが、その声には、候補者としてではなく、同じ制度の中に置かれた者としての硬い連帯があった。
アレクは小さく頷いた。
やがて広間から人が減っていく。
貴族たちも、神官たちも、記録役も、順に退出した。
父だけは最後まで残ろうとしたが、キルスが視線だけで退けた。
「この子と話す」
「ですが」
「神官長命令だ」
父の顔が強張る。
だが、逆らえない。
「承知しました」
父はアレクを一瞥した。
その視線には、あとで問いただす、という冷たい約束があった。
扉が閉まる。
会議の間に残ったのは、アレクとキルス、そして帳の向こうの巫女だけだった。
広間は急に広くなった。
六つの小箱はすでに下げられている。
だが黒い台座だけは残っていた。
その周囲の月相陣が、まだ淡く光っている。
キルスは台座の近くまで歩き、そこで足を止めた。
「変わった返答をしたな」
アレクは姿勢を正した。
「儀礼句を誤りました」
「誤ったのか」
キルスの声は静かだった。
責めているようには聞こえない。
「それとも、わざと外したのか」
アレクは答えなかった。
沈黙は、肯定にも否定にもなる。
神殿では危険な沈黙だ。
けれど今は、言葉を選ぶ時間が必要だった。
キルスは薄く笑った。
「君の父なら、その沈黙にも名をつけるだろう。反抗傾向。血の動揺。儀礼不適合。好きな言葉で記録する」
アレクは顔を上げた。
「神官長が、そのようなことをおっしゃるのですか」
「神官長だから言う」
キルスは台座に手を置いた。
黒い石に触れても、彼は眉ひとつ動かさない。
「この神殿は、名をつけることで人を飼う。祝福、召集、献身、聖戦、血統。美しい言葉を与えれば、鎖は鎖に見えなくなる」
その言葉に、アレクは胸を衝かれた。
「あなたは……神官長なのに」
「神官長だから、嫌というほど知っている」
キルスは帳の向こうを見た。
巫女は動かない。
白い衣の輪郭だけが、薄い月光の中で静かに揺れている。
「あれは、私の妹だ」
アレクは黙っていた。
「同じ日に生まれた。同じ血を持っていた。同じ月を見て泣いた。だが、彼女は巫女になり、私は神官長になった」
キルスの声には、懐かしさはなかった。
ただ、長く削られた石のような響きがあった。
「巫女は月神の声を受ける器。神官長は、その器を守る盾。そう教えられる」
「違うのですか」
キルスは笑った。
短い、乾いた笑いだった。
「半分は本当だ。私は確かに彼女を守るためにいる」
彼は続けた。
「だが、もう半分は違う。私は彼女を神殿へ繋ぎ止めるためにいる。彼女が逃げないように。彼女の血が途切れないように。巫女制度が四十年後も、八十年後も続くように」
アレクの喉が渇いた。
「血統維持……」
「そうだ」
キルスはあっさり認めた。
「美しい言葉を剥がせば、そうなる。巫女の血を守る。神官長の血を整える。必要なら婚姻も、養子も、後継の名も、すべて神殿が決める」
アレクは、母の言葉を思い出した。
あなたの血を、月神のものだと呼んだ人たちがいるだけです。
ここにも同じものがある。
月神のためと言いながら、人の血を制度の部品にする仕組み。
「あなたも、選べなかったのですか」
思わず尋ねていた。
キルスの目が、アレクを見る。
鋭い目。
だが怒りはなかった。
「君は、選べたのか」
アレクは答えられなかった。
アレクとして生きること。
アレクサンドラを隠すこと。
神官職を継ぐこと。
エイースの血を差し出すこと。
どれも、完全には選んでいない。
けれど、まったく自分ではないとも言い切れない。
その曖昧さが、苦しかった。
キルスは静かに言った。
「君のことは知っている」
アレクの体が強張った。
「何を、ですか」
「アルフェラッツ家の台帳には、修正痕がある」
心臓が跳ねた。
「修正痕……」
「出生記録。性別欄。命名欄。初期登録名。神殿の古い台帳は、消したつもりでも痕が残る」
アレクは、息を止めた。
アレクサンドラ。
その名を、彼は知っている。
キルスは声に出さなかった。
それが、かえって重かった。
「安心しろ」
キルスは言った。
「その名をここで呼ぶつもりはない」
「なぜ」
「呼べば、神殿はそれを新しい鎖にする」
アレクは言葉を失った。
シルハインドは、忘れないためにその名を呼んだ。
母は、愛する子としてその名を呼んだ。
キルスは、呼ばないことで守ろうとしている。
まったく違う形の守り方だった。
「君は父の家を継がせるために、性別と名を整えられた」
キルスは言った。
「私は巫女制度を維持するために、生まれた日から役割を割られた。違う形だが、同じだ」
アレクは、ゆっくりと彼を見る。
同じ。
その言葉が、胸の奥で響いた。
キルスは神官長だ。
強い立場にいる。
皆が彼に頭を下げる。
だが、その立場そのものが牢なのだ。
アレクがアレクという名に閉じ込められているように、キルスは神官長という役割に閉じ込められている。
「あなたは、この制度を憎んでいるのですか」
アレクが尋ねると、キルスはすぐに答えなかった。
帳の向こうで、巫女の薄絹がわずかに揺れた。
彼女は聞いている。
キルスは、妹に聞こえるように、あるいは聞こえないふりをさせるように、静かに言った。
「憎んでいる」
その一言は、広間の中で妙に澄んで響いた。
「だが、壊せば妹が死ぬ。神殿は、そういう形に作られている。制度を嫌う者ほど、制度を支えなければならない場所へ置かれる」
アレクは胸が苦しくなった。
「では、どうすれば」
「簡単な答えはない」
キルスは言った。
「君が今日、この場で召集を拒めば、神殿は君を異常反応として隔離しただろう。受け入れれば、〈血の雫〉へ近づけられる。逃げれば、母親と兄弟弟子が巻き込まれる」
アレクの顔色が変わる。
「シルハインドのことも?」
「彼は余計なものを持ち込んだ」
アレクは息を呑んだ。
「やはり、気づいているのですね」
「神殿の目は節穴ではない。もっとも、あれが本当に誰の目なのか、神殿の者たちが理解しているとは限らない」
「ソーサイアの魔導具ではありませんね」
キルスは頷いた。
「違う。ソーサイアの名を借りた観測具だ。誰かがメミスの内側を覗いている」
「誰が」
「まだ断定できない」
キルスは、台座から手を離した。
「だが、君の血を見た。〈血の雫〉の位置を探った。そして、おそらく巫女の気配も」
帳の向こうの巫女が、ほんの少し動いた。
キルスの目が鋭くなる。
その瞬間、アレクには見えた。
彼が神官長としてではなく、兄として立っていることが。
巫女を守るための器。
それは、嘘ではなかった。
たとえ神殿がその役割を利用しているとしても、彼自身の中には本物の意思がある。
「私は、どうすればいいのですか」
アレクは尋ねた。
今度の問いは、父に従う子の問いではなかった。
制度の中で同じように名を歪められた者へ向けた問いだった。
キルスは、すぐには答えなかった。
「君は、自分の血を月神のものだと信じているか」
「……以前は」
「今は?」
アレクは胸元に手を当てた。
黒曜石が冷たい。
「わかりません。ただ、月神だけではないものに反応していることは、わかります」
「なら、その感覚を捨てるな」
「感覚を?」
「神官団は説明する。父は命じる。貴族は讃える。記録役は書く。どれも、君が感じたものを上書きしようとする」
キルスの声が低くなる。
「だが、君の血が嫌がったなら、それは理由がある」
アレクは、六つの小箱を思い出した。
白く赤く、底に黒く濁った光。
「〈血の雫〉は、本当に祝福なのですか」
キルスは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「この時点で、私がそれを否定すれば、君も私も終わる」
「では」
「だから、言い方を変える」
彼はアレクを見た。
「祝福と呼ばれているものが、常に清いとは限らない」
アレクの背筋が冷える。
それは、母の言葉と同じ方向を向いていた。
「巫女の血は本物だ。民の祈りも本物だ。神官団の術式も機能している。都市封印陣も、四十年かけて祈りを集める」
キルスは続ける。
「だが、それらが混ざる場所に、封じられたものの力も流れ込む。誰かがそれを止めているのか、利用しているのか、あるいは気づかないふりをしているのかは、まだわからない」
「汚れている、ということですか」
アレクの声は小さかった。
キルスは答えなかった。
だが、その沈黙は否定ではなかった。
「次の月の夜まで、君には時間がある」
キルスは言った。
「その間に、選べ」
「何を」
「受けるのか。拒むのか。逃げるのか。あるいは、内側から壊すのか」
アレクは息を呑んだ。
「壊す……」
「言葉を間違えるな。神殿を焼けと言っているわけではない」
キルスの声は冷静だった。
「だが、制度の記録に従うだけでは、君はいずれ器にされる。自分の名を、血を、何に使わせるのか。それを決めるのは、神殿ではなく君だ」
アレクは、シルハインドの言葉を思い出した。
君は、名前より先にいる。
ザヴォラムの言葉も。
お前は血ではない。名でもない。
母の言葉も。
あなたの血を、月神のものだと呼んだ人たちがいるだけ。
そして今、キルスの言葉が重なる。
自分の名を、血を、何に使わせるのか。
それを決めるのは、自分。
「あなたは、なぜ私にそこまで話すのですか」
アレクは尋ねた。
「私は、あなたにとって危険ではありませんか」
「危険だ」
キルスは即答した。
「君の血は、神殿にとっても、外にいる者にとっても、危険な鍵になる」
「なら」
「だからこそ、誰かが君に本当のことを少しは言わなければならない」
その言葉に、アレクは胸の奥が熱くなるのを感じた。
キルスは優しくはない。
シルハインドのように心をほどくわけではない。
母のように抱きしめてくれるわけでもない。
ザヴォラムのように不器用な警告を投げるわけでもない。
彼はもっと冷たい。
けれど、その冷たさは真実を切り出す刃だった。
「私と君は似ている」
キルスは言った。
「望んだ名ではなく、必要とされた役割を与えられた。神殿の都合で形を整えられ、血の価値で測られた」
アレクは目を伏せた。
「似ているなら、あなたはどうやって耐えているのですか」
「耐えていない」
意外な答えだった。
「耐えているように見せているだけだ」
キルスは帳の向こうを見た。
「私は妹が生きている限り、この制度の内側にいる。だが、好きで支えているわけではない。いつか壊せる場所を探している」
巫女が、帳の向こうで静かに息をした。
その音はとても小さかった。
けれど、アレクには聞こえた気がした。
「アレク=アルフェラッツ」
キルスは、改めて名を呼んだ。
今度は、儀式のための名ではなかった。
「君も探せ。自分が壊される前に、どこを断てばいいのかを」
アレクはゆっくり頷いた。
「はい」
「それから」
キルスは少しだけ声を落とした。
「君のもうひとつの名を、安易に誰にも渡すな」
アレクの心臓が跳ねた。
キルスはそれ以上言わなかった。
呼ばない。
けれど、知っている。
その名がアレクにとって、ただの秘密ではなく、最後の避難場所であることを。
「名は、隠せば守れるとは限らない」
キルスは言った。
「だが、差し出せば必ず使われる。神殿とはそういう場所だ」
アレクは、胸元の黒曜石を握った。
「覚えておきます」
「覚えるだけでは足りない。疑え」
「疑う?」
「父を。私を。神殿を。月神を。祝福を。血を。君自身の反応すら、疑え」
キルスの目が鋭く光る。
「疑って、それでも残るものだけを信じろ」
その言葉は、祈りよりも重かった。
アレクは深く頭を下げた。
キルスはそれ以上、何も言わなかった。
退出を許すように、片手をわずかに動かす。
アレクは広間の扉へ向かった。
背中に、巫女の視線を感じる。
ふと振り返ると、帳の隙間から、巫女の目が見えた。
キルスと同じ目。
けれど、その奥にはもっと深い疲れと、言葉にならない祈りがあった。
彼女は何も言わなかった。
ただ、アレクへ小さく頷いた。
それだけで、アレクには十分だった。
扉を開ける。
白い廊下の光が差し込む。
その向こうに、ザヴォラムが立っていた。
「長かったな」
「待っていたのですか」
「偶然だ」
アレクは、少しだけ笑った。
ザヴォラムは不快そうに眉を寄せる。
「何を笑う」
「いいえ」
アレクは首を振った。
「神殿の中にも、完全に敵ではない人がいるのだと思って」
ザヴォラムは黙った。
「思い上がるな。完全な味方もいない」
「はい」
アレクは頷いた。
「それも、覚えておきます」
廊下の奥では、候補者たちの控えの間へ続く灯が揺れている。
次の月の夜まで、猶予はわずか。
〈血の雫〉を受ける儀式は迫っている。
けれどアレクは、少しだけ変わっていた。
ラーザァーとして任命される前に。
血を祝福と呼ばれる前に。
名前を神殿へ渡す前に。
彼は、疑うことを知った。
そして、同じように制度の内側で息を殺している者がいることを知った。
神官長キルス。
巫女の双子。
制度の守り手。
血統維持の器。
そして、神殿そのものを憎みながら、その内側で壊せる場所を探している男。
アレクは、白い廊下を歩きながら思った。
自分はひとりではない。
けれど、誰も完全には助けてくれない。
だからこそ、自分で選ばなければならない。
胸元の黒曜石が、冷たく光った。
一拍の猶予。
その一拍を、アレクはもう無駄にはしないと決めた。




