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第十節 ― 神殿襲撃

夜の月神殿は、昼よりも白かった。


昼の白さは光によるものだった。

だが夜の白さは、祈りと沈黙によるものだった。


廊下の灯火は最小限に落とされ、壁に埋め込まれた月石だけが淡く光っている。神官たちは声を潜め、見習いたちは足音を殺す。昼間、貴族と神官たちで満ちていた会議の間も、今は閉ざされていた。


六人のラーザァー候補は、神殿東翼の控え区画に移された。


次の月の夜、〈血の雫〉を受けるまで、候補者たちは神殿内で清めの期間を過ごすことになっている。外部との接触は制限され、食事も祈祷食に変えられ、毎夜、月相陣の前で短い祈りを捧げる。


それは、神聖な準備と説明された。


だがアレクには、軟禁に近く感じられた。


薄い寝台。

白い壁。

小さな窓。

扉の外には見張りの神官。


胸元には月章。

その裏に、母から渡された黒曜石。


祈りではなく、猶予。


アレクは寝台に座り、黒曜石に指を触れていた。


冷たい。


昼間よりも、ずっと冷たい。


何かが近い。


そう感じた。


窓の外には、月神殿の内庭が見える。

白い砂利。

銀の水盤。

月桂樹。

その向こうに、会議の間へ続く回廊。


昼間は整って見えたそれらが、夜になると別の形を帯びる。


道は線になる。

水盤は節点になる。

白い砂利の敷き方さえ、月相陣の一部に見える。


都市だけではない。


神殿そのものも、巨大な封印の上に建っている。


アレクの血が、それを知ってしまった。


知りたくなくても、反応してしまう。


扉の外で、小さな物音がした。


アレクは顔を上げる。


神官の足音ではない。

もっと軽く、遠慮がちで、けれど妙に慣れた足音。


「アレク」


小声がした。


シルハインドだった。


アレクは慌てて扉へ近づいた。


「なぜここに」


扉の小窓の向こうで、シルハインドが困ったように笑っている。


「差し入れ」


「候補者区画は立ち入り禁止です」


「だから扉の外にいる」


「そういう問題ではありません」


「でも、顔色くらい見たかった」


アレクは言葉に詰まった。


叱るべきだ。

すぐに戻らせるべきだ。

ここにいれば、彼も巻き込まれる。


そう思うのに、彼の声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ緩んでしまった。


「大丈夫です」


「またそれか」


シルハインドは眉を寄せた。


「君の大丈夫は、信用しないことにした」


「では、少しだけ大丈夫です」


「余計に信用できない」


アレクは小さく笑いかけた。


その瞬間、シルハインドの革鞄の奥で、蒼い光が漏れた。


アレクの笑みが消える。


「それを、持ってきたのですか」


シルハインドも気づき、鞄を押さえた。


「いや、使うつもりはなかった。ただ、部屋に置いておくのも気味が悪くて」


蒼い観測魔導具。


ソーサイアの名を騙った、誰かの目。


布に包まれているはずなのに、光が漏れている。


アレクの胸が鋭く痛んだ。


黒曜石が冷たく震える。


一拍。


その一拍で、アレクは叫ばずに済んだ。


「離れてください」


「アレク?」


「今すぐ、その魔導具を持ってここから離れて」


シルハインドの顔が変わった。


彼は軽口を返さなかった。

すぐに鞄を肩から外そうとした。


だが、その前に。


神殿の奥で、低い音が鳴った。


鐘ではない。


封印が、内側から歪む音だった。


月石の灯が一斉に瞬いた。


廊下の白い光が、蒼く濁る。


シルハインドの鞄の中で、魔導具が強く光った。


そして、どこか遠くで扉が開いた。


本来、夜間には開くはずのない扉。


封月庫へ続く、内奥の扉。


「何だ……?」


シルハインドが振り返る。


次の瞬間、廊下の奥から悲鳴が上がった。


神官の声だった。


白い廊下の向こうで、何かが這う音がする。


濡れた鱗が石床を擦る音。

爪が壁を引っかく音。

羽ばたきにも似た、不気味な布擦れの音。


アレクは扉の内側から鍵を探った。


開かない。


候補者の部屋は、外から施錠されている。


「シルハインド、鍵を」


「今やってる!」


シルハインドが扉の外で鍵束を探す。

見張りの神官はどこにもいない。


倒れたのか。

逃げたのか。

あるいは、最初からいなかったのか。


廊下の奥に、影が現れた。


蛇だった。


だが、普通の蛇ではない。


胴は人の腰ほども太く、背には黒い翼の残骸のような膜がある。頭は一つではない。中央の蛇頭の左右に、未完成の顔が生えている。人の顔にも、鳥の顔にも見える。どれも目が赤く濡れていた。


ザッハーク。


その名が、アレクの血の奥に浮かんだ。


誰かから聞いたわけではない。


魔導具の蒼い光と、廊下を這う怪物の黒い気配が触れた瞬間、血がその名を拾った。


ザッハークの眷属。


蛇であり、鳥であり、人の悪夢であり、神話の残骸。


怪物は、シルハインドを見た。


いや、正確には、彼の鞄の中にある蒼い目を見た。


それから、扉の向こうのアレクを見た。


赤い目が細くなる。


「開いた!」


シルハインドが叫び、扉が開く。


アレクはすぐに外へ出た。


その瞬間、怪物が飛びかかった。


黒い膜の翼が広がり、廊下の月石灯を覆う。

赤い口が三つ、同時に開く。


シルハインドがアレクの前に出た。


「下がれ!」


彼は護身用の短剣を抜き、怪物の首へ斬りつけた。


刃は鱗に弾かれた。


だが、攻撃の軌道は逸れた。

怪物の牙はアレクではなく、廊下の柱に突き刺さる。


石が砕けた。


「シルハインド!」


「走れ!」


アレクは走らなかった。


右手を上げる。


月神殿の廊下には、封印線が刻まれている。

その線を使えば、簡易の拘束陣を作れる。


だが、魔導を使えば血が反応する。

怪物も、蒼い観測具も、神殿の封印陣も、すべてがアレクのエイースを引きずり出そうとしている。


胸元の黒曜石に触れる。


一拍。


アレクは自分の意思で構文を選んだ。


「月は欠け、名はほどけず――」


銀の線が床から立ち上がる。


だが、その下に黒い線が混じる。


見てはいけない。


深く触れれば、今朝の亀裂と同じものに繋がる。


アレクは銀の線だけを掴み、怪物の脚へ巻きつけた。


怪物が吠える。


その声は、蛇の声ではなかった。


人の祈りを潰したような声だった。


廊下の反対側から、ザヴォラムが現れた。


白衣の上に夜用の外套を羽織り、手には短い銀杖を持っている。表情は冷静だった。まるで、こうなることを半分は予測していたかのように。


「候補者区画を離れろ!」


彼は叫んだ。


その声に、ほかの部屋の扉が開く。


キルス=ルナティア。

ミリア。

ダレン。

ノエル。

セリオ=マクレイン。


六人の候補者たちが、混乱しながら廊下へ出てくる。


「何が――」


セリオが言いかけた。


その瞬間、廊下の天井から黒い影が落ちた。


二体目。


いや、怪物は一体ではなかった。


月石灯の隙間。

換気孔。

封印線の切れ目。


そこから、細い蛇影がいくつも侵入している。


外から破ったのではない。


内側から、道を開けられている。


神殿の封印線が、ところどころ切られていた。

正確に。

儀式を知る者にしかできない位置で。


内通者がいる。


アレクがそう理解したとき、ザヴォラムも同じ場所を見ていた。


彼は一瞬だけ、床の切れた銀線へ視線を落とす。


そして、その破断面に刻まれた小さな印を見つける。


見覚えがあるのだろう。


だが、彼は何も言わなかった。


銀杖を振る。


「灯を落とせ! 月石を全点灯させるな、反応が広がる!」


近くの見習い神官が怯えながらも走る。


ザヴォラムは冷静だった。

あまりにも冷静だった。


アレクはそれを不自然に感じた。


彼はただ対処しているのではない。

何かを隠しながら、被害を最小限に抑えようとしている。


「アレク!」


シルハインドの声がした。


怪物の尾が、アレクの足元を薙ぐ。

シルハインドが飛び込み、アレクを押し倒した。


二人は廊下の床に転がる。


怪物の尾が壁を砕き、白い石片が飛んだ。


「怪我は?」


シルハインドが尋ねる。


「あなたこそ!」


彼の腕に血が滲んでいた。


浅くはない。


それでもシルハインドは笑おうとした。


「少しだけ大丈夫だ」


「真似しないでください!」


アレクは叫んだ。


その声に、ほんの一瞬だけ恐怖が混じった。


シルハインドはそれを聞き、目を細める。


「じゃあ、ちゃんと大丈夫でいられるようにする」


彼は鞄を外した。


中の蒼い魔導具が、布を焼くように光っている。


「これが呼んでるんだな」


「捨ててください!」


「捨てるだけで止まるか?」


わからない。


アレクは答えられなかった。


シルハインドは魔導具を掴んだ。


その瞬間、蒼い光が彼の手を焼いた。


「っ……!」


「シルハインド!」


「大丈夫じゃないな、これは」


彼は歯を食いしばりながら、魔導具を床に叩きつけた。


石は割れなかった。


むしろ、床の月相陣と共鳴し、蒼い線を走らせる。


廊下の奥。

封月庫の方角で、何かが開いた。


アレクの血が強く反応する。


〈血の雫〉。


封印鍵。


そして、神官長キルスの血。


「狙いはここではない……」


アレクは呟いた。


怪物たちは候補者を殺しに来たのではない。


少なくとも、それだけではない。


廊下の奥から、神官長キルスが現れた。


夜青の長衣。

手には護符剣。

その背後には、薄絹をまとった巫女の影がある。


キルスは妹を庇うように立っていた。


「封月庫へ下がれ」


彼が命じる。


「いいえ」


巫女の声が小さく響いた。


「封月庫が、呼ばれています」


その言葉と同時に、三体目の怪物が天井を裂いて落ちた。


それは他の眷属より大きかった。


蛇の胴。

鳥の翼。

人間の腕が二本、胸のあたりから生えている。

その手には、黒い短杭が握られていた。


怪物は、キルスへ向かって突進した。


殺すためではない。


アレクには、なぜかわかった。


狙いは心臓ではない。

喉でもない。

血だ。


キルスの血。


巫女の双子として、封月庫の鍵と反応する血。


「キルス神官長!」


アレクは魔導を展開した。


銀の線が怪物の前に壁を作る。


だが、黒い短杭がそれを貫いた。


銀の壁が砕ける。


キルスは護符剣で受けた。

刃と杭がぶつかり、黒い火花が散る。


その隙に、怪物のもう一本の腕が伸びた。


爪がキルスの手首を裂いた。


深くはない。


だが、十分だった。


血が落ちる。


赤い血。


神官長キルスの血。


その一滴が、床の月相陣へ落ちた瞬間、封月庫の方角から強い光が漏れた。


六つの〈血の雫〉が、反応した。


黒い石の台座の奥で、封印鍵が目覚める。


アレクの胸が焼けるように痛んだ。


黒曜石が必死に反応を遅らせる。

だが、足りない。


一拍。

もう一拍。

それでも、血が引かれる。


〈血の雫〉のうち、ひとつではない。


二つ。


二つの気配が、アレクへ向いた。


「だめだ……」


アレクは呟いた。


これは、神官長を殺す襲撃ではない。


キルスの血を封印鍵へ触れさせ、〈血の雫〉がどの血に反応するかを見るための襲撃。


誰が器になるか。

どの雫が誰へ寄るか。

アレクの血が、いくつ受け止められるか。


それを測っている。


ローブの男の気配が、月石灯の蒼い反射の中に浮かんだ。


姿はない。


だが、声だけが廊下の奥から聞こえた気がした。


「よく反応する」


アレクは振り返った。


誰もいない。


けれど、蒼い魔導具の割れない石面に、黒いローブの影が映っていた。


シルハインドも見た。


顔が青ざめる。


「俺が……持ち込んだせいか」


「違います!」


アレクは即座に言った。


「あなたは悪くない!」


だが、その言葉が終わる前に、悲鳴が上がった。


セリオ=マクレインだった。


小さな蛇影が、彼の背後から飛びかかっていた。


セリオは逃げ遅れたノエルを庇うように前へ出ていた。神官家の少年は震えていた。それでも、ラーザァー候補として、誰かを守ろうとした。


蛇影の牙が、彼の胸に届く。


アレクは手を伸ばした。


間に合わない。


ザヴォラムが銀杖を投げる。

シルハインドが走る。

キルスが叫ぶ。


だが、牙は刺さった。


セリオの体が大きく震える。


白い候補者紐が、黒く染まった。


蛇影はすぐにザヴォラムの術で焼かれた。

けれど、セリオは倒れた。


ノエルが彼の名前を叫ぶ。


「セリオ!」


アレクは駆け寄った。


セリオは目を開いていた。


だが、その瞳にはすでに光が薄い。


胸元の傷から流れる血は、普通の赤ではなかった。黒い筋が混じり、月石の光に触れるたびに煙を上げている。


ザッハークの毒。


血を壊す毒。


エイースを焼き切る毒。


「治癒術を!」


アレクが叫ぶ。


ザヴォラムはすでに膝をついていた。

冷静な顔のまま、治癒陣を展開している。


だが、彼の指が一瞬止まった。


それだけで、アレクは理解してしまった。


助からない。


少なくとも、ラーザァー候補としては戻れない。


セリオの血は、〈血の雫〉を受けられる状態ではなくなった。


「……すみません」


セリオが小さく言った。


誰に謝っているのかわからなかった。


ノエルへか。

神殿へか。

ラーザァーの役目へか。

それとも、逃げられなかった自分へか。


アレクは彼の手を握った。


「謝らないでください」


セリオの指先が冷たい。


「ぼく……ちゃんと、できませんでした」


「違います」


アレクの声が震えた。


「あなたは、ノエルを守りました」


セリオの目が、ほんの少しだけ動いた。


それで十分だったのかもしれない。


彼の呼吸が細くなる。


ザヴォラムが治癒陣を閉じなかった。

閉じれば終わるからだ。


だが、終わりはすでに来ていた。


セリオ=マクレインは、月神殿の白い廊下で、静かに息を止めた。


神殿の鐘が鳴った。


誰かが鳴らしたのではない。


封印陣が、候補者の一人の喪失を検知して鳴ったのだ。


冷たい仕組みだった。


人の死さえ、儀礼の異常として数える。


その鐘の音に合わせるように、怪物たちの動きが止まった。


目的は果たされた。


キルスの血は封印鍵に反応した。

〈血の雫〉は目覚めた。

候補者の一人は失われた。

そしてアレクの血が、二つの雫に反応することが確認された。


怪物たちは、黒い泥のように崩れ始めた。


ザヴォラムが即座に命じる。


「残骸に触れるな! 月石灯を落とせ! 廊下の封印線を切り替えろ!」


神官たちが慌ただしく動く。


キルスは傷ついた手首を押さえ、巫女を背後に庇ったまま、廊下の奥を睨んでいる。


彼の顔には怒りがあった。


だが、それ以上に、屈辱があった。


殺されかけたからではない。


自分の血を、鍵として使われたからだ。


「内側にいる」


キルスが低く言った。


「この神殿の術式を知る者が、道を開けた」


父を含む高位神官たちが駆けつける。


父の目は、最初にアレクへ向いた。

次に、倒れたセリオへ。

そしてキルスの血へ。


悲しみより先に、計算が浮かんだ。


アレクはそれを見てしまった。


セリオが死んだ。

候補者が一人欠けた。

〈血の雫〉は六つある。

ならば、誰が欠けた雫を受けるのか。


父の視線が、アレクの胸元で止まる。


アレクは吐き気を覚えた。


セリオの体はまだ温かい。

ノエルは泣いている。

シルハインドは自分の手を血と火傷で震わせている。

キルスは利用された血に怒りを滲ませている。


それなのに神殿はもう、次の器を考えている。


「記録役を呼べ」


父が言った。


「襲撃の全容を記録する。セリオ=マクレインは、ラーザァー候補として殉じた。月神に召されたものとする」


アレクは耳を疑った。


月神に召された。


そんな言葉で、今の死を包むのか。


ザヴォラムが立ち上がった。


「まだ早い」


父を見る声は冷たい。


「死因も、術式痕も、内通経路も確定していません。神聖な言葉で覆う前に、汚れた床を見た方がいい」


父の目が細くなる。


二人の間に、冷たい火花が散った。


アレクは気づいた。


ザヴォラムは、先ほど床の破断印を拾っていた。


今、その小さな銀片は、彼の袖の中に隠されている。


彼は何かを知っている。


あるいは、誰が内通したのかに近づいている。


だが、まだ言わない。


言えば、証拠ごと潰されるからか。

それとも、彼自身にも隠す理由があるのか。


アレクにはわからない。


シルハインドが、蒼い魔導具を見下ろしていた。


床に落ちたそれは、ひびひとつ入っていない。


ただ、光だけが消えている。


彼はそれを蹴り壊そうとした。


アレクが止めた。


「触らないで」


「でも、これが」


「今触れたら、また見られるかもしれません」


シルハインドの顔が歪む。


「俺が、ここへ持ってきた」


「あなたは騙されました」


「それでも、持ってきたのは俺だ」


アレクは言葉を失った。


彼は悪くない。


本当に悪くない。


けれど、悪くないことと、巻き込まれないことは違う。


ザヴォラムの言葉が、胸に刺さる。


キルスが近づき、蒼い魔導具を護符布で包んだ。


「これは封じる。誰にも渡すな」


父が言った。


「神殿で解析する必要があります」


「神殿の内側に内通者がいると言ったばかりだ」


キルスの声は低かった。


「これを神殿へ預けるほど、私は神殿を信じていない」


広間ではない。

だがその場にいた全員が、息を止めた。


神官長が、神殿を信じていないと言った。


父の顔が険しくなる。


しかし、キルスは退かなかった。


その手首から、まだ血が滲んでいる。


封印鍵に使われた血。


利用された血。


アレクは、その傷を見つめた。


キルスも、自分と同じだ。


血を勝手に意味づけられ、役割にされ、鍵にされる者。


その怒りが、今ならわかった。


廊下の奥で、封月庫の光がゆっくりと収まっていく。


けれど完全には消えなかった。


六つの〈血の雫〉のうち、ひとつは受け手を失った。


そして、その失われた雫の気配が、まだアレクを見ている。


もうひとつの雫とともに。


二つの血晶が、アレクの血に反応している。


その事実を、今この場で知る者は少ない。


だが、父は気づいている。

キルスも気づいている。

ザヴォラムも、おそらく。


そして、遠くで見ている者も。


ローブの男。


ザッハークの影。


湖底の蛇神。


あるいは、そのさらに奥にいる何か。


アレクは、セリオの冷たくなりつつある手を握ったまま、白い廊下を見つめた。


夜の神殿は、まだ白い。


けれど、その白さはもう清らかには見えなかった。


白い石床には、血が落ちている。


セリオの血。

キルスの血。

シルハインドの血。


そして、これから奪われようとしている自分の血。


アレクは胸元の黒曜石を握った。


一拍の猶予。


それでも足りない。


足りないなら、自分で作るしかない。


神殿がセリオの死を月神の言葉で覆う前に。

シルハインドが罪を背負わされる前に。

キルスの血が再び鍵として使われる前に。

そして、自分が二つの〈血の雫〉を受ける器にされる前に。


アレクは、初めてはっきりと思った。


この神殿の記録を、そのまま信じてはいけない。


この白い聖都の内側に、敵がいる。


そしてその敵は、外から襲ってくる怪物よりもずっと深く、神殿の祈りの中に潜んでいる。

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