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第十一節 ― ザルハルト山へ

夜明け前、月神殿の騎獣舎には、まだ血の匂いが残っていた。


セリオ=マクレインの死は、まだ正式には葬られていない。


神殿の記録役たちは、彼を「ラーザァー候補として殉じた者」と書こうとしていた。

けれど、その言葉はまだ乾いていない。

廊下の血も、完全には拭い切れていない。

白い石床の隙間に、黒ずんだ赤が残っている。


アレクは、その色を忘れられなかった。


月神に召された。


父は、そう言った。


だがアレクには、そうは思えなかった。


セリオは召されたのではない。

襲われた。

神殿の内側へ招き入れられた怪物に殺された。

そして、その死はすでに次の儀式の都合へ組み込まれようとしている。


六つある〈血の雫〉。

失われた候補者。

残された五人。

そして、二つの血晶に反応したアレクの血。


そのすべてが、まだ声に出されていないだけで、神殿の思惑として動き始めている。


「出発する」


神官長キルスの声が、騎獣舎に響いた。


彼は夜青の外套をまとい、手首には白い包帯を巻いていた。昨夜、怪物に裂かれた傷である。包帯の下には封じの術式が重ねられているはずだが、それでも彼の血の気配は消えていない。


アレクのエイースは、その血にも反応する。


巫女の双子。

封印鍵と結びつく血。

神殿に守られ、同時に利用される血。


キルスは、それを知っている。


だからこそ、痛みを表に出さない。


「ザルハルト山の月封祠へ向かう」


彼は続けた。


「封月庫の鍵が昨夜の襲撃で乱された。〈血の雫〉は神殿内に置いたままでは危険だ。山の封印で再調整を行う」


周囲の神官たちは、静かに頷いた。


だが、その顔には不安があった。


ザルハルト山。


メミスの北にそびえる聖山。

月神ムーミストが最初に都へ光を降ろした場所だと伝えられている。山頂には月封祠があり、古い封印術式が残されている。


神殿の記録では、そこは月神の守護が最も強い場所とされていた。


だが、アレクはその名を聞いた瞬間、胸の奥に小さな黒い痛みを感じた。


月神の守護。


その言葉が、もう素直に信じられない。


出発する者は多くなかった。


神官長キルス。

アレク。

キルス=ルナティア。

ミリア=オルフェ。

ダレン=ヴァルク。

ノエル=ラザリカ。

ザヴォラム。

護衛神官数名。


そして、シルハインド。


本来、彼は同行を許される立場ではない。


だが、昨夜の観測魔導具を持ち込んだ本人として、そして襲撃の証人として、キルスが同行を命じた。表向きは監視。実際には、神殿に置いておく方が危険だと判断したのだろう。


シルハインドは、騎獣用の外套を羽織りながら、どこかいつもの軽さを失っていた。


彼の鞄は、昨夜よりも軽い。


蒼い魔導具は、キルスの護符布に包まれたまま、封印箱へ入れられている。

だが、完全には沈黙していない。


アレクにはわかった。


封印箱の内側で、まだ熱を持っている。


誰かの目が、閉じられたまま夢を見ているように。


「アレク」


シルハインドが近づいてきた。


腕には包帯が巻かれている。昨夜、アレクを庇ったときの傷だった。


「本当に行くのか」


「行くしかありません」


「そう言うと思った」


シルハインドは苦く笑った。


「でも、もし途中で逃げるなら、俺は手綱くらい取るぞ」


アレクは彼を見た。


冗談の形をしている。


けれど、冗談ではない。


「あなたまで巻き込めません」


「もう巻き込まれてる」


シルハインドは、昨夜より少し低い声で言った。


「それに、巻き込まれたまま何もしないほど、俺は大人しくない」


アレクは返事に迷った。


あなたは悪くない。


そう言いたかった。


だが、それだけでは足りない気がした。


シルハインドは悪くない。

けれど、彼はすでにこの事件の中にいる。

蒼い魔導具を持ち込まされ、アレクを守り、血を流し、自分を責めている。


彼を外へ追い出せば守れる、という段階は過ぎてしまったのかもしれない。


「無茶はしないでください」


アレクが言うと、シルハインドは少しだけ笑った。


「それは君にも返す」


その言葉に、アレクは何も言えなかった。


騎獣舎の奥で、イーラが低く鳴いた。


黒翼のバーホースは、昨夜から落ち着かない様子だった。普段ならアレクが近づくと鼻を寄せてくるのに、今日はしきりに北の方角を気にしている。


ザルハルト山の方角。


アレクが手を伸ばすと、イーラはその手を受け入れた。

だが、首筋の筋肉は硬い。


「怖いの?」


アレクが囁くと、イーラは鼻を鳴らした。


否定ではなかった。


バーホースは風を読む。


人間より先に、空の乱れを知る。

神殿の術式や祈りの言葉よりも、もっと原始的な感覚で、土地の気配を感じる。


そのイーラが、怯えている。


アレクは、胸元の黒曜石を握った。


やはり、何かがある。


出発は、夜明けと同時だった。


月神殿の飛翔台から、騎獣たちが次々と飛び立つ。


黒翼のイーラを先頭に、白羽の騎獣、灰色のバーホース、護衛用の小型飛竜が続く。空はまだ薄暗く、東の地平だけが淡く光り始めていた。


メミスの都は、朝霧の中に沈んでいる。


白い防壁。

月相に沿って組まれた街路。

丘の上の神殿。

農地と羊の群れ。


上空から見れば、やはり美しい。


だが、アレクはもう、その美しさをただの美しさとして見ることができなかった。


街路は封印線に見える。

広場は術式の節点に見える。

神殿は祈りの中心であると同時に、何かを押さえつける杭に見える。


その封印陣の北端から、ザルハルト山へ向かう古い道が伸びていた。


白い巡礼道。


月神の守護があるはずの道。


だが、その道は空から見ると、どこか不自然だった。


まっすぐではない。

山へ向かっているのに、蛇のように曲がりくねっている。

しかも、その曲線は地形に従ったものではない。


水の流れでも、崖を避けた道でもない。


何か巨大なものが地面に身を横たえ、その形を避けるように後から白い石を敷いた。


そんなふうに見えた。


「アレク」


シルハインドの声が横から届く。


彼は灰色のバーホースに乗り、少し後ろを飛んでいた。


「顔色が悪いぞ」


「道が」


「道?」


「曲がり方が変です」


シルハインドは眼下を見た。


「山道なら、あんなものじゃないのか」


普通なら、そう見えるのだろう。


アレクには違って見える。


血が、道の下にある古い形を拾ってしまう。


白い巡礼道の下。

月神の名で覆われた石畳のさらに下。


黒い蛇紋がある。


「下がる」


前方から、キルスの声がした。


一行は高度を落とした。


ザルハルト山の麓に近づくと、風が変わった。


冷たい。


ただの山風ではない。


湖底の水を含んだような、湿った冷たさだった。


イーラが大きく翼を震わせる。


「大丈夫」


アレクは首筋を撫でた。


だが、イーラは鳴き続けた。


恐怖というより、拒絶だった。


この道に入りたくない。

この山に近づきたくない。


そう訴えている。


着地したのは、麓の古い巡礼門だった。


白い石で作られた門。

月神ムーミストの紋章が刻まれている。


表向きには、清らかな巡礼道の始まり。


けれど、門の基部には古い石碑が半ば埋もれていた。


苔と霜に覆われ、ほとんど読めない。

神官たちはそれを気にしない。おそらく、古い境界標としか見ていないのだろう。


だがアレクは、足を止めた。


石碑の下半分に、細い線が刻まれている。


月紋ではない。


蛇紋。


身を巻く蛇。

その口に、黒い月を咥えた古い印。


ムーミストの銀月ではない。


湖底に沈んでいたであろう、黒い月。


アレクの胸が痛む。


黒曜石が冷たく反応を遅らせる。


一拍。


アレクは呼吸を整えた。


「どうした」


ザヴォラムが近づく。


アレクは石碑を指差した。


「これを」


ザヴォラムはしゃがみ込み、苔を少しだけ払った。


その瞬間、彼の表情が変わった。


本当に一瞬だけ。


すぐに元の冷たい顔へ戻したが、アレクは見逃さなかった。


「知っているのですか」


「古い印だ」


「ムーミストのものではありません」


「見ればわかる」


「では、誰の」


ザヴォラムは答えなかった。


代わりに、周囲を見た。


護衛神官たちは騎獣の手綱を整えている。

キルスは少し離れた場所で山道を見上げている。

キルス=ルナティアたち候補者は、不安げに互いの顔を見ていた。


ザヴォラムは低く言った。


「声に出すな」


「なぜ」


「神殿では、古い名ほど耳が多い」


その答えは、説明になっていない。


だが、警告としては十分だった。


アレクは石碑から手を引いた。


そのとき、封印箱を運んでいた護衛神官がうめいた。


「熱い……!」


彼が持っていた箱から、蒼い光が漏れていた。


シルハインドの魔導具。


護符布に包まれ、箱に封じられているはずのそれが、熱を持っている。


箱の表面に、蒼い線が走る。


眼の形。


まるで、閉じられていた瞼が開こうとしているようだった。


シルハインドが顔色を変える。


「またか」


キルスがすぐに近づいた。


「箱を置け。手を離せ」


護衛神官が箱を地面に置く。


キルスは包帯の巻かれた手首を庇いながら、もう片方の手で封じの印を切った。


「ここで反応するのか」


彼の声は低い。


驚きよりも、確認に近かった。


アレクはその声に引っかかった。


「キルス神官長」


彼をそう呼ぶと、キルスは目だけでこちらを見た。


「あなたは、何を知っているのですか」


周囲の空気が少し張った。


ザヴォラムが視線を鋭くする。

シルハインドも、アレクとキルスを見比べる。


キルスはしばらく黙っていた。


そして、山道の先を見た。


白い巡礼道は、針葉樹の森へ入っていく。

その奥に、ザルハルト山の斜面が見える。

雪をかぶった岩肌は、朝の光を受けて白く輝いていた。


月神の聖山。


そう呼ばれる場所。


「この山は、月神殿が建てられる前から聖地だった」


キルスは言った。


神官たちの一部が、驚いたように顔を上げる。


「神官長、それは」


「黙れ」


キルスの一言で、神官は口を閉ざした。


彼は続ける。


「メミスの民は、ここを月神が最初に光を降ろした山と教えられている。間違いではない。だが、最初から月神だけの山だったわけではない」


アレクの胸が重くなる。


やはり。


「では、何の神域だったのですか」


キルスはすぐには答えなかった。


山から風が下りてくる。


その風の中に、湿った水の匂いが混じっていた。


湖の匂い。


「水を巻くもの」


キルスは言った。


「黒い月の下で、死者を渡すもの。洪水と冬を鎮めるために祈られた、古い蛇神」


その言葉に、キルス=ルナティアが息を呑んだ。


「蛇神……レ=ザービ=トゥルドのことですか」


名前が出た瞬間、イーラが激しく鳴いた。


他の騎獣たちも一斉に身じろぎする。


山道の奥で、風が止まった。


アレクの血が、強く反応した。


黒曜石が冷たく震える。


一拍。

一拍。

それでも足りない。


石碑の蛇紋が、ほんのわずかに光ったように見えた。


キルスは低く言った。


「その名を、ここでは軽く呼ぶな」


ルナティアは唇を押さえた。


「すみません」


「だが、知っておくべきだ」


キルスは、候補者たちを見渡した。


「我々が聖戦と呼んできたものは、単に外から来る怪物を退ける戦いではない。もともとこの土地にあった神域を、月神殿が封じ、上書きし続けてきた歴史の上にある」


その言葉は重かった。


神官長が言うには、あまりにも危険な言葉だった。


護衛神官たちは困惑している。

ザヴォラムは黙っている。

シルハインドは蒼い封印箱を睨んでいる。

アレクは、胸の奥で何かが崩れていくのを感じていた。


メミスは月神の聖都。


そう教えられてきた。


けれどその下には、蛇神の神域がある。


月神殿は、そこへ白い石を敷いた。

月相陣を描いた。

民の祈りを集めた。

〈血の雫〉を結んだ。


それは守護だったのか。

封印だったのか。

侵略だったのか。


まだわからない。


だが、白い聖都が最初から白かったわけではないことだけは、もう見えてしまった。


「では、レザービトゥルドは本当に怪物なのですか」


アレクは尋ねた。


誰もすぐに答えなかった。


山の木々が静かに揺れる。


キルスは、包帯を巻いた手首を見た。


昨夜、その血は封印鍵として使われた。

彼自身もまた、神殿にとっての道具だった。


だからこそ、彼は嘘を簡単には口にできないのだろう。


「今の彼は、危険だ」


キルスは言った。


「それは間違いない。人を殺し、都を呑み込む力がある」


「今の彼は、ですか」


「かつて何であったかは、神殿の記録だけではわからない」


アレクは石碑を見た。


蛇が黒い月を咥えている。


その姿は恐ろしい。


けれど、ただ邪悪な印には見えなかった。


古い祈りの形だった。


失われたもの。

上書きされたもの。

怪物と呼ばれる前に、神として祈られていたもの。


「進むぞ」


キルスは言った。


「月封祠へ着く前に、さらに封印痕を確認する」


「まだあるのですか」


シルハインドが尋ねた。


「山道全体にある」


キルスは答えた。


「月神の道として整えられる前の痕が」


一行は、騎獣を引いて山道へ入った。


この先は木々が深く、翼を広げて飛ぶには狭すぎる。

騎獣たちは徒歩で進むしかない。


イーラは何度も足を止めた。


アレクが宥めるたびに、少しずつ進む。


道の左右には、白い石灯籠が並んでいる。どれもムーミストの月紋を刻んでいた。

だが、そのうちいくつかは、基部に別の線を隠していた。


蛇が巻く。

水が渦を描く。

黒い月が沈む。


アレクは、それらを見つけるたびに胸が痛んだ。


まるで、白く塗られた壁の下から、古い血の跡を見つけてしまうようだった。


シルハインドの封印箱は、進むほどに熱を増している。


護衛神官が持てなくなり、今はザヴォラムが自ら運んでいた。彼は顔色ひとつ変えないが、袖口の下で指が赤くなっている。


「持ちましょうか」


アレクが言うと、ザヴォラムは即座に断った。


「触るな」


「でも」


「お前が触れば、向こうが喜ぶ」


向こう。


その言い方が、妙に具体的だった。


「誰のことですか」


ザヴォラムは答えない。


また、何かを隠している。


アレクはそれを責めようとして、やめた。


今はまだ、彼の沈黙にも理由がある。


けれど、いつか聞かなければならない。


白い巡礼道は、やがて森を抜けた。


目の前に、古い石段が現れる。


山肌に刻まれた長い階段。

その上に、月封祠がある。


本来なら、そこは月神の清らかな力に満ちているはずだった。


だがアレクには、石段の奥から別のものが昇ってくるのがわかった。


水の匂い。

錆びた金属の匂い。

古い骨の気配。

沈んだ祭壇の記憶。


ここは山なのに、湖底のようだった。


イーラが完全に足を止めた。


黒い翼を震わせ、前へ進もうとしない。


アレクはその首に手を当てた。


「無理しなくていい」


イーラは琥珀色の目でアレクを見た。


行くな。


そう言っているようだった。


だが、アレクは進まなければならない。


この山の上に、何があるのか。

月神の守護と呼ばれてきた封印が、何を覆っているのか。

〈血の雫〉が、なぜ自分へ二つも反応したのか。


それを知らないまま、神殿へ戻ることはできない。


アレクはイーラから手を離した。


「待っていて」


イーラが低く鳴く。


シルハインドが横に並んだ。


「俺も行く」


「危険です」


「危険じゃない場所が、もうどこにもない」


その言葉に、アレクは返せなかった。


キルスが石段の前に立つ。


「ここから先は、月神の封印内だと記録されている」


彼はそう言った。


「だが、見えるものだけを信じるな」


アレクは頷いた。


胸元の黒曜石に触れる。


一拍の猶予。


その一拍を頼りに、彼は石段へ足をかけた。


白い石の下で、黒い蛇紋がひそかに光った。


まるで、長い眠りの底から、誰かが目を開けたように。

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