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第十二節 ― 血の雫の洞窟

月封祠は、山の頂ではなく、山の腹にあった。


石段を上りきった先にあったのは、白い祠ではない。

岩壁に埋め込まれた、半ば崩れた門だった。


門の表面には、ムーミストの月紋が刻まれている。

白い石。

銀の線。

清めの祈祷句。


だが、その下から、古い黒い線が覗いていた。


蛇が巻く。

水が沈む。

黒い月が、蛇の口に抱かれている。


アレクは、その紋様を見た瞬間、胸元の黒曜石を握った。


一拍。


血が反応するより先に、自分の息を整える。


それでも、指先が冷たくなった。


ここは月神の祠ではない。


少なくとも、最初からそうだった場所ではない。


「開ける」


キルス神官長が言った。


彼の手首には、まだ昨夜の傷が残っている。白い包帯の下から、薄く赤い染みが広がっていた。


巫女の双子。

封印鍵に反応する血。

神殿が守ると言いながら、最も都合よく使ってきた血。


キルスは、その包帯をほどいた。


「神官長」


ザヴォラムが低く止めた。


「これ以上、血を使えば」


「わかっている」


キルスは短く答えた。


「だが、ここは私の血でしか開かない」


その言い方には、怒りも諦めも混じっていた。


自分の血が鍵であることを、彼は憎んでいる。

それでも、その鍵を使わなければ進めない。


アレクは、その矛盾を見ていた。


自分も同じ場所へ向かっているのかもしれない。


血を嫌いながら、血によって扉を開く場所へ。


キルスは門の中央に手を当てた。


包帯の下から滲んだ血が、白い月紋へ触れる。


瞬間、月紋が赤く光った。


銀ではない。

月光でもない。


血の色だった。


赤い線は、月紋の上を走り、その下に隠された黒い蛇紋へ流れ込んだ。白い祈祷句が一瞬だけ浮かび上がり、次に、削られていたはずの古い文字が岩肌の奥から滲むように現れる。


読めない。


けれど、アレクの血は意味を拾おうとする。


水。

眠り。

罪。

封じ。

返せ。


アレクは奥歯を噛みしめた。


見すぎてはいけない。


門が、低く鳴った。


山が呼吸するような音だった。


やがて、岩壁の中央に細い裂け目が入り、内側から冷たい空気が流れ出した。


水の匂い。

鉄の匂い。

そして、かすかに甘い血の匂い。


ノエルが口元を押さえる。


ダレンが顔をしかめる。


ミリアは祈りの句を唱えようとして、途中で声を止めた。


キルス=ルナティアだけが、剣の柄に手を置き、まっすぐ洞窟の奥を見ていた。


「進むぞ」


キルス神官長は言った。


「ここから先で見たものを、神殿の教本と同じだと思うな」


その言葉に、誰も返事をしなかった。


一行は洞窟へ入った。


中には月光が届かなかった。


入口の外には朝の光がある。

だが、一歩洞窟へ入るだけで、それは背後に閉ざされた。


神官が携えた月石灯も、奥へ進むにつれて光を弱めていく。白い光は岩壁に触れるたびに吸われ、まるでこの洞窟そのものが月光を拒んでいるようだった。


足元には、浅い水が流れている。


山の中なのに、湖底を歩いているようだった。


岩壁には、ところどころ古い柱の跡が埋もれていた。自然の洞窟ではない。かつては神殿だった場所が、山に飲み込まれたのだ。


折れた石柱。

水に沈んだ祭壇片。

金属化した骨の欠片。

黒い月紋。


アレクは、それらを見ながら進んだ。


ここは、ザルハルト山の内側であると同時に、黒底湖の底と繋がっている。


そんな感覚があった。


「……音がする」


シルハインドが呟いた。


アレクも聞いていた。


どくん。


深い音。


どくん。


水音ではない。

岩が軋む音でもない。


鼓動だった。


とてつもなく大きなものの心臓が、洞窟の奥でゆっくり打っている。


イーラは入口に残してきた。


もし連れてきていたら、この音を聞いた瞬間に暴れていたかもしれない。


アレクの胸の奥で、血が同じ拍に合わせて震え始めた。


どくん。


洞窟の奥の鼓動。


どくん。


アレクの血。


どくん。


何かが、呼応している。


「アレク」


シルハインドが隣に寄った。


「平気か」


「平気ではありません」


アレクは正直に答えた。


シルハインドは少し驚いた顔をしたあと、短く頷いた。


「なら、近くにいる」


「無茶はしないでください」


「君が倒れそうになったら、する」


「しないでください」


「それは約束できない」


いつもの軽口に似ていた。


だが、声は硬い。


シルハインドも怖いのだ。


それでも、そばにいる。


そのことが、アレクの心をかろうじて地上へ繋いでいた。


やがて、通路の先が開けた。


広い空洞だった。


天井は高く、闇の中へ溶けている。

中央には、自然石を削った円形の台座があった。


その台座の周囲に、六つの結晶が浮かんでいた。


赤い結晶。


六つ。


それぞれが、人の拳ほどの大きさだった。


宝石のように硬質な輝きではない。

もっと柔らかく、もっと生々しい光。


赤。

深い赤。

月光を浴びていないのに、内側から脈打つ赤。


それは美しかった。


けれど、美しさより先に、アレクは温度を感じた。


温かい。


離れているのにわかる。


六つの結晶は、血のように温かかった。


「〈血の雫〉……」


ミリアが息を呑んだ。


神官たちが膝をつく。


「月神ムーミストの祝福に」


ひとりが祈りの句を唱えようとした。


だが、キルス神官長が片手を上げて止めた。


「祈るな」


その声は、洞窟の中で低く響いた。


神官たちは困惑する。


「神官長、しかし、これは」


「祈るなと言った」


キルスの声が鋭くなる。


誰もそれ以上、唱えなかった。


六つの〈血の雫〉は、台座の周囲で静かに脈打っている。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


六つの鼓動が、それぞれ別々の拍で鳴っていた。


けれどアレクが一歩近づいた瞬間、その拍が変わった。


どくん。


六つのうち、ひとつが強く光る。


どくん。


続いて、もうひとつ。


二つの血晶が、アレクへ向いた。


まるで眠っていた獣が目を開けたように。


アレクの体が強張った。


黒曜石が冷たく震える。


一拍。


けれど、足りない。


二つの〈血の雫〉の呼び声が、アレクの血を引き寄せる。


「近づくな」


ザヴォラムが低く言った。


だが、アレクの足は動かなかった。


動かせなかった。


二つの血晶が、赤い光を強める。


ひとつは、最初からアレクへ用意されていたもの。

そしてもうひとつは、セリオを失ったことで行き場をなくしたもの。


それが、アレクの血へ反応している。


セリオの死が、まだ温かい記憶として胸に残っている。


その死の空白へ、自分が入れられようとしている。


アレクは吐き気を覚えた。


「嫌です」


小さく、声が漏れた。


誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


神殿へか。

〈血の雫〉へか。

父へか。

あるいは、自分の血へか。


シルハインドがアレクの腕を掴んだ。


「戻れ」


その手の温度で、アレクはようやく呼吸を思い出した。


一歩、後ろへ下がる。


すると二つの血晶の光が、少しだけ弱まった。


だが、完全には消えない。


まだ見ている。


アレクを。


「やはり、二つ反応している」


キルス神官長が言った。


その声には驚きはなかった。


怒りだけがあった。


「昨夜の襲撃の狙いは、これか」


ザヴォラムが言う。


キルスは頷いた。


「私の血を鍵に使い、封印を揺らした。〈血の雫〉がどの血に反応するかを見た。そして、候補者を一人欠けさせた」


「欠けた雫が、アレクへ寄るように」


シルハインドの声が低くなる。


「そんなことのために、セリオは」


誰も答えなかった。


洞窟の奥で、巨大な鼓動が鳴る。


どくん。


そのたびに、六つの赤い結晶が微かに震えた。


アレクは、そこで気づいた。


〈血の雫〉は月神の祝福として存在しているのではない。


何かを押さえている。


あるいは、何かから力を吸い上げている。


洞窟のさらに奥。


闇の底。


そこから聞こえる巨大な蛇の鼓動と、六つの結晶の脈は繋がっている。


「これは……」


アレクの声は震えていた。


「本当に、月神の血なのですか」


神官たちが息を呑む。


その問いは、口にしてはいけないものだった。


ムーミストの神殿に仕える者が、〈血の雫〉の神聖を疑う。


それだけで異端に近い。


だが、キルス神官長は咎めなかった。


彼は赤い結晶を見つめていた。


その横顔には、長い間飲み込んできた言葉の影があった。


「違う」


短い返答だった。


洞窟の空気が凍った。


神官たちのひとりが、震える声で言う。


「神官長……今、何と」


キルスは振り返らなかった。


「これは月神の血ではない」


その声は、静かだった。


だが、洞窟全体に響いた。


「月神の名で封じられた、この都の罪だ」


誰も動かなかった。


アレクの胸の奥で、何かが深く沈む。


月神の血ではない。


都の罪。


その言葉だけで、すべてが解けるわけではない。


むしろ、謎は深くなる。


民の祈り。

巫女の血。

神官団の術式。

都市封印陣。

封じられた古層神格の力。


それらが混ざり、四十年かけて赤い結晶になる。


祝福と呼ばれてきたもの。


聖戦のための力。


ラーザァーへ与えられる神血。


だが本当は、都が隠してきたものの結晶。


祈りと血と嘘を固めた、赤い罪。


「では、私たちは何のために戦うのですか」


キルス=ルナティアが尋ねた。


その声には怒りがあった。


「月神のためではないのですか。都を守るためではないのですか。レ=ザービ=トゥルドは災厄ではないのですか」


キルス神官長は、すぐには答えなかった。


洞窟の奥から、また鼓動が響く。


どくん。


その音が、問いそのものを飲み込むようだった。


「都を守る必要はある」


キルスは言った。


「レ=ザービ=トゥルドが危険であることも事実だ。目覚めれば、人は死ぬ。湖は溢れ、メミスは呑まれる」


「なら」


「だが、それだけではない」


キルスは六つの血晶を見た。


「聖戦という言葉で片づけられるほど、清い話ではない」


アレクは、赤い光を見つめた。


六つの〈血の雫〉。


そのうち二つが、まだ自分へ向いている。


ひとつは自分のものだと言われるだろう。

もうひとつは、セリオの代わりに受けろと言われるだろう。


神殿はきっと、名誉だと言う。

月神の選びだと言う。

濃いエイースを持つアレクだからこそできる役目だと言う。


でも、それは違う。


この結晶は、祝福ではない。


少なくとも、祝福だけではない。


アレクは、胸元の黒曜石を握った。


「なぜ、今まで隠していたのですか」


そう問うたのはノエルだった。


彼女の目は赤かった。


セリオを庇えなかったこと。

セリオに庇われたこと。

そして、その死が儀式の歯車にされたこと。


それらが、まだ彼女の中で血を流している。


キルスは目を伏せた。


「隠されていたからだ」


「神官長なのに?」


「神官長でも、すべてを知らされるわけではない」


キルスの声は苦かった。


「知った者は、制度の内側で沈黙するよう作られる。妹を守るために。都を壊さないために。次の四十年を繋ぐために」


アレクは、その言葉を聞いて、彼の孤独を思った。


神殿制度を嫌悪しながら、その内側で巫女を守り続ける男。

知ってしまった真実を、完全には語れない男。

壊したいのに、壊せば大切な者が死ぬ場所に立たされている男。


キルスは、すべてを語らなかった。


語れないのだろう。


あるいは、ここで語れば、誰かが耐えられなくなる。


それでも十分だった。


聖戦の真実は、神殿が教えたものとは違う。


そのことだけは、もう疑いようがなかった。


洞窟の奥から、風が吹いた。


風ではない。


巨大な何かが、息を吐いた。


六つの血晶が一斉に震える。


赤い光が、空洞の壁へ広がった。


その赤に照らされて、岩壁に刻まれた古い紋様が浮かび上がる。


蛇。

黒い月。

水底の祭壇。

膝をつき、祈る人々。

そして、その上から白い月紋を重ねる神官たち。


上書きの図。


歴史そのものが、岩に刻まれていた。


アレクは息を呑んだ。


「これは……」


「見るな」


ザヴォラムが鋭く言った。


「深く読めば、向こうもこちらを読む」


だが、遅かった。


洞窟の奥の闇に、巨大な目が開いた気がした。


実際に姿があるわけではない。


けれど、確かに見られている。


湖底の蛇神。


レ=ザービ=トゥルド。


その鼓動が、アレクの血へ触れた。


『月の名を着せられた血』


声ではない。


だが、意味が届いた。


アレクはふらついた。


シルハインドが支える。


「アレク!」


「聞こえた……」


「何が」


「蛇が」


その言葉に、神官たちが青ざめた。


キルス神官長の表情が険しくなる。


「どこまで聞こえた」


「月の名を着せられた血、と」


洞窟が沈黙した。


その沈黙の奥で、巨大な鼓動だけが続いている。


どくん。


どくん。


キルスは低く言った。


「もう十分だ。雫を封箱へ移す」


「持ち帰るのですか」


アレクが問う。


「持ち帰らなければ、神殿はもっと危険な手段を取る」


「これを使うのですか」


キルスは答えなかった。


答えないまま、封印箱を開けるよう神官に命じた。


六つの赤い結晶が、ひとつずつ箱へ収められていく。


だが、アレクに反応していた二つは、最後まで抵抗するように光を強めていた。


ひとつ目が箱に収められる。


アレクの胸が痛む。


二つ目が収められる。


今度は、痛みではなく、誰かの死の温度が伝わった。


セリオ。


アレクは目を閉じた。


この雫は、彼が受けるはずだったのか。


それとも、最初から誰かが欠けることを見越して、アレクへ寄るよう仕組まれていたのか。


わからない。


だが、いずれ神殿は言うだろう。


君なら二つ受けられる。

月神がそう望んだ。

セリオの遺志を継げ。


美しい言葉で、また鎖をかけるだろう。


アレクは心の中で、その言葉に答えた。


違う。


まだ、受けるとは決めていない。


血が反応しても。

雫が呼んでも。

神殿が記録しても。


決めるのは、自分だ。


すべての〈血の雫〉が封箱に収められると、洞窟の赤い光は消えた。


月光も届かない闇が戻る。


ただ、奥の鼓動だけが残っていた。


どくん。


どくん。


まるで山の内側に、まだ生きた罪が眠っているように。


一行が洞窟を出る直前、アレクは振り返った。


闇の奥に、何も見えない。


けれど、誰かがそこにいる。


神ではないのかもしれない。

怪物だけでもないのかもしれない。


祈られ、封じられ、奪われ、怒りだけで目を開けようとしている古い存在。


レ=ザービ=トゥルド。


アレクは、その名を声には出さなかった。


ただ、胸元の黒曜石を握りしめる。


一拍の猶予。


その一拍の中で、彼は思った。


この戦いは、月神と蛇神の戦いではない。


もっと深い。


人が神の名で何を隠し、何を奪い、何を祝福と呼んできたのか。


その罪の上に、自分たちは立たされている。


洞窟の外へ出ると、朝の光が眩しかった。


白い巡礼道。

月神の石碑。

神聖な山の空気。


けれどアレクには、もうその白さが以前と同じには見えなかった。


封箱の中で、六つの〈血の雫〉が静かに脈打っている。


そのうち二つは、まだアレクの血を覚えていた。

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