第十三節 ― 偽りの聖都
メミスへ戻る道は、行きよりも白かった。
朝の光が巡礼道を照らし、石畳に刻まれた月紋を淡く輝かせている。山の木々には霜が降り、白い枝が空へ伸びていた。遠くから見れば、すべてが清められているようだった。
だが、アレクにはもうわかっていた。
白さは、清さの証ではない。
覆うための色でもある。
騎獣たちは、山を離れるにつれて少しずつ落ち着きを取り戻した。けれどイーラだけは、何度も後ろを振り返った。黒い翼を小さく震わせ、ザルハルト山の方角を警戒している。
山の腹にあった洞窟。
月光の届かない闇。
赤く脈打つ六つの〈血の雫〉。
洞窟の奥から聞こえた巨大な蛇の鼓動。
そのすべてが、まだアレクの体の中に残っている。
封箱は、護衛神官たちの中央で厳重に運ばれていた。
六つの〈血の雫〉は、その中に収められている。
だが、閉じ込められているようには感じなかった。
むしろ、静かに待っている。
次に誰の血へ触れるのか。
誰の名で使われるのか。
誰の身体を、器として選ばせられるのか。
アレクは、封箱から目を逸らした。
逸らしても、わかる。
二つの雫が、まだ自分を覚えている。
ひとつはアレクのために。
もうひとつは、セリオの空白のために。
そう神殿は言うだろう。
月神の導きだと。
殉じた候補者の遺志だと。
血の濃いアレクなら耐えられると。
美しい言葉が、もう用意されている気がした。
「顔色が悪い」
横から声がした。
シルハインドだった。
彼は灰色のバーホースを寄せ、アレクの隣を飛んでいた。腕の包帯が朝の光に白く見える。その下にある傷を思うと、アレクの胸が痛んだ。
「あなたもです」
「俺は寝不足だからな」
「私もです」
「君の場合、それだけじゃない」
シルハインドは、少しだけ封箱の方を見た。
「まだ呼ばれてるのか」
アレクは答えに迷った。
嘘をつく必要はない。
だが、口にすると、それが現実になる。
「……はい」
シルハインドの表情が険しくなる。
「二つとも?」
アレクは、小さく頷いた。
シルハインドは息を吐いた。
怒りを飲み込むような息だった。
「神殿は、きっとそれを名誉にする」
「そうでしょうね」
「セリオの分まで、とか言う」
「言うでしょうね」
「腹が立つな」
その言葉は、とてもまっすぐだった。
アレクは思わず彼を見る。
神殿では、怒りは抑えるものだ。
祈りに変え、沈黙に変え、記録に適した言葉へ整えるものだ。
だが、シルハインドは怒っていた。
セリオの死を、誰かの都合へ変えようとすることに。
アレクの血を、当然のように使おうとすることに。
その怒りが、アレクには少し眩しかった。
「私は、まだ受けるとは決めていません」
アレクが言うと、シルハインドは頷いた。
「それでいい」
「でも、拒めるかどうかは」
「拒める方法を探せばいい」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないから、一人で考えるな」
アレクは返事をしなかった。
けれど、その言葉は胸に残った。
一人で考えるな。
神殿に育てられたアレクにとって、それはひどく難しいことだった。
神殿では、弱さを見せれば記録される。
迷いを口にすれば、指導対象になる。
恐れを知られれば、儀礼不適合と呼ばれる。
だから、何もかも一人で飲み込む癖がついていた。
けれど、もう一人ではないのかもしれない。
シルハインド。
母。
ザヴォラム。
キルス神官長。
キルス=ルナティア。
ノエルたち候補者。
皆、完全な味方ではない。
誰もアレクを安全な場所へ連れ出してくれるわけではない。
それでも、同じ嘘の中で傷ついている者たちがいる。
一行がメミスへ近づくと、都から鐘の音が聞こえてきた。
祝福の鐘だった。
高く、明るく、澄んだ音。
聖戦へ赴くラーザァーを迎えるための鐘。
だが、アレクはその音を聞いた瞬間、胸の奥が軋んだ。
鐘の音の下に、別の音がある。
ぎしり。
金属の鎖が、地下深くで引かれる音。
ぎしり。
巨大なものを縛る鎖が、白い都の下で軋む音。
「……聞こえますか」
アレクは呟いた。
シルハインドが耳を澄ます。
「鐘なら」
「鐘ではありません」
アレクはメミスを見下ろした。
白い防壁。
月相に沿って広がる街路。
神殿へ向かう巡礼路。
祈りの旗。
人々の歓声。
その下から、蛇の鎖が軋んでいる。
祝福の鐘が鳴るたびに、封じられた何かが目を覚ますように。
ぎしり。
ぎしり。
胸元の黒曜石が冷たく震える。
一拍。
アレクは息を整えた。
見すぎてはいけない。
けれど、もう聞こえないふりはできなかった。
メミスの南門には、民衆が集まっていた。
白い花びらが撒かれ、月神の旗が掲げられている。子どもたちは手に小さな銀の輪を持ち、女たちは祈り布を振り、老人たちは頭を垂れていた。
彼らは何も知らない。
昨夜、神殿の内部に怪物が侵入したこと。
封印線が内側から切られていたこと。
セリオが死んだこと。
〈血の雫〉が月神の純粋な祝福ではなかったこと。
この土地が、かつて蛇神の神域だったこと。
何も知らないまま、心から祈っている。
その祈りが嘘だとは、アレクには思えなかった。
民の祈りは本物だ。
だからこそ、苦しい。
本物の祈りが、神殿の嘘を支えている。
「ラーザァー候補の皆様だ!」
誰かが叫んだ。
歓声が上がる。
五人の候補者が騎獣から降りる。
セリオはいない。
その不在に気づいた者もいただろう。
だが、神官たちはすでに言葉を用意していた。
門前の広場に立った記録神官が、よく通る声で告げる。
「セリオ=マクレイン候補は、昨夜、月神の深き召しを受け、聖戦に先立つ祈りへ入りました。その名はすでに月神のもとへ届けられ、残る候補者たちと共に都を守る力となります」
広場が静まる。
次の瞬間、すすり泣く声と祈りの声が広がった。
「月神のもとへ」
「若き候補者に祝福を」
「ラーザァーに栄光を」
アレクは、手綱を握る指に力を込めた。
違う。
セリオは、月神の深き召しを受けたのではない。
怪物に殺された。
ノエルを庇って倒れた。
白い廊下で、謝りながら死んだ。
それを、こんなにも滑らかな言葉で包むのか。
シルハインドの顔が強張っている。
ノエルは唇を噛み、今にも泣き出しそうだった。
キルス=ルナティアは目を伏せている。
ミリアは祈りの姿勢を取りながら、指先を震わせていた。
ダレンは顔を青くしながらも、貴族たちの視線を受けて背筋を伸ばしている。
皆、何かが違うとわかっている。
けれど、この場で声を上げれば、祈る民衆を傷つけることになる。
そして神殿は、その混乱さえ異端として記録するだろう。
祝福の鐘が、また鳴った。
ぎしり。
地下で鎖が軋む。
アレクは耳を塞ぎたくなった。
門から神殿までの道は、花と祈りで埋められていた。
白い聖都メミス。
月神に守られた都。
ラーザァーを英雄として迎える都。
人々は、アレクたちへ花を投げた。
「月神の血に祝福を!」
「ラーザァーよ、都をお守りください!」
「レ=ザービ=トゥルドを退けてください!」
その名が民衆の口から出た瞬間、アレクの血が震えた。
彼らにとって、その名は災厄の名だ。
湖を濁す怪物。
四十年に一度目覚める蛇。
月神の敵。
そう教えられてきたから。
アレクも、昨日まではそう思っていた。
けれど今、ザルハルト山の石碑が脳裏に浮かぶ。
蛇が黒い月を咥える古い印。
水と死者を渡す神域。
かつて祈られていた蛇神。
怪物と呼ばれる前の名。
この都の人々は、レザービトゥルドを恐れている。
だが、その恐怖もまた、神殿が整えた物語の中にある。
何が真実なのか。
まだわからない。
だが、神殿の語る真実だけを信じることはできない。
神殿の大階段には、巫女が立っていた。
白い衣を幾重にも重ね、薄絹で顔を覆い、銀冠を戴いている。朝の光を受けた彼女は、まるで月そのものが人の姿を取ったように美しかった。
民衆は一斉に膝をつく。
巫女は微笑んだ。
その微笑みは、あまりにも静かで、あまりにも美しかった。
だが、アレクはその目を見てしまった。
薄絹の奥の瞳。
そこには、光がなかった。
空虚。
祈りを受ける者の目ではない。
祈りを受けすぎて、自分の声を失った者の目だった。
キルス神官長が、巫女の横に立っている。
夜青の外套。
包帯を巻いた手首。
民衆の歓声を受けても、彼の表情は動かない。
アレクたちが階段の下へ着くと、巫女は両手を広げた。
「月神ムーミストの御名のもとに、ラーザァー候補の帰還を祝福します」
その声に、広場が沸いた。
神官団は整然と祈りを唱え、貴族たちは誇らしげに候補者たちを見ている。
父もそこにいた。
彼はアレクを見た。
その視線は、民衆の前では柔らかく整えられている。
誇らしい父の顔。
息子をラーザァーへ送り出す神官長の顔。
だが、アレクにはわかった。
その奥で、父はもう計算している。
二つの〈血の雫〉。
セリオの欠員。
アレクの異常な反応。
聖戦を成立させるための次の手順。
父にとって、これは悲劇ではない。
修正すべき儀式の歪みだ。
アレクは、父の目から視線を外した。
祝福の鐘が鳴る。
ぎしり。
地下の鎖が軋む。
今度は、はっきり聞こえた。
メミスの地下深く。
神殿の下。
都市封印陣のさらに下。
蛇がいる。
あるいは、蛇を縛る鎖がある。
その鎖は祝福のたびに強まるのか。
それとも、祝福のたびに限界へ近づいているのか。
アレクにはわからない。
だが、もうこの都をただ聖なる場所とは思えなかった。
式典が終わり、民衆から隔てられた神殿内の回廊に入ったところで、キルス神官長が足を止めた。
周囲には、アレクとシルハインド、ザヴォラムだけがいた。
ほかの候補者たちは、それぞれ控えの間へ案内されている。
白い回廊の窓からは、広場でまだ祈る民衆が見えた。
花びらが風に舞い、月神の旗が揺れている。
キルスはそれを見下ろしながら、低く呟いた。
「この都は、聖なる嘘でできている」
アレクは息を止めた。
その言葉は、あまりにも正確だった。
聖なる嘘。
民の祈りは本物。
巫女の微笑みは美しい。
神殿の白さは清らかに見える。
ラーザァーは英雄として讃えられる。
〈血の雫〉は祝福と呼ばれる。
けれど、そのすべての下に嘘がある。
蛇神の神域を月神の土地と呼んだ嘘。
封印を守護と呼んだ嘘。
血の結晶を祝福と呼んだ嘘。
死を召しと呼んだ嘘。
道具にすることを選定と呼んだ嘘。
そして、アレクという名もまた、その嘘の一部なのかもしれない。
父の家を継がせるために与えられた名。
神官職を継ぐために整えられた性。
月神のものと呼ばれた血。
けれど、アレクは思った。
すべてが嘘なら、何も残らないわけではない。
嘘の下にも、本物はある。
母の声。
シルハインドの怒り。
ザヴォラムの不器用な警告。
キルスの憎悪。
ノエルの涙。
セリオが最後に誰かを庇った手。
そして、アレクサンドラという、まだ誰にも渡していない名。
「神官長」
アレクは言った。
キルスがこちらを見る。
「嘘でできているなら、壊せばよいのですか」
キルスはすぐには答えなかった。
広場の歓声が、白い壁越しに遠く響いている。
「壊すだけなら、蛇でもできる」
彼は言った。
「では」
「嘘の中から、本物を見つけろ」
その言葉に、アレクは胸元の黒曜石を握った。
一拍の猶予。
その一拍の中で、彼は考える。
この都は偽りの聖都だ。
けれど、そこに生きる人々の祈りまで偽りにしてはいけない。
月神の名で覆われた罪を暴くこと。
蛇神をただの怪物として切り捨てないこと。
セリオの死を美しい言葉で奪わせないこと。
自分の血を、誰かの都合で祝福と呼ばせないこと。
それらをすべて同時に抱えるには、アレクはまだあまりにも若かった。
それでも、知らないままではいられない。
祝福の鐘が、最後にもう一度鳴った。
ぎしり。
地下の鎖が、深く軋む。
今度は、アレクだけではなかった。
シルハインドも顔を上げた。
ザヴォラムも眉をひそめた。
キルス神官長は目を閉じ、痛みを飲み込むように息を吐いた。
聞こえ始めている。
嘘の下にある音が。
聖都メミスの白い石壁の奥で、封じられたものが少しずつ目を覚ましている。
アレクは窓の外を見た。
民衆はまだ祈っている。
白い花びらが舞う。
その向こうに、神殿の影が長く伸びていた。
美しい都。
清らかな都。
月神の名に守られた都。
だが、アレクはもう知っている。
ここは、偽りの聖都だ。
そして、その偽りの中で、彼は自分の名を、自分の血を、これから何に使わせるのかを選ばなければならない。




