第十四節 ― 月神の血を呑む者
ラーザァー授与の儀は、夕月の刻に行われた。
昼と夜の境目。
空にまだ青さが残り、けれど月だけが白く浮かぶ時間。メミスではその刻を、月神ムーミストが最も人の声を聞きやすい時と呼ぶ。
神殿の大聖堂には、白い灯がともされていた。
火ではない。
月石の灯だ。
柱のひとつひとつに淡い光が宿り、床に刻まれた月相陣が銀色に浮かび上がっている。神官団は左右に並び、貴族たちは奥の席に座り、巫女は最奥の帳の前に立っていた。
美しい光景だった。
あまりにも美しいから、アレクは息苦しかった。
白い聖堂。
銀の祈り。
花の香。
澄んだ鐘の音。
その下で、蛇の鎖が軋んでいる。
ぎしり。
祝福の鐘が鳴るたびに、神殿地下の奥から、金属の軋むような音が返ってくる。
もう、アレクには聞き間違いだと思えなかった。
月神の祝福と呼ばれるものは、何かを縛っている。
あるいは、何かを押さえつけるために鳴らされている。
聖堂中央には、五人のラーザァー候補が並んでいた。
キルス=ルナティア。
ミリア=オルフェ。
ダレン=ヴァルク。
ノエル=ラザリカ。
そして、アレク=アルフェラッツ。
本来なら、そこには六人が立つはずだった。
セリオ=マクレインの位置には、白い布が置かれている。
布の上には、彼が身につけていた候補者の白紐が畳まれていた。血は洗われている。黒い毒の痕も、見えないように処理されていた。
神殿は、死者さえ整える。
傷を消し、名を整え、祈りに変える。
けれどアレクには見えていた。
白い布の下に、まだセリオの最後の呼吸が残っているような気がした。
ぼく、ちゃんと、できませんでした。
違う。
あなたは守った。
アレクは、そう胸の中で繰り返した。
最奥で、父が立ち上がる。
白い高位神官服。
銀の月章。
整えられた声。
そこにいるのは、アレクの父ではない。
神殿の意思を人の形にしたものだった。
「月神ムーミストの御名のもとに」
父の声が聖堂に響く。
「四十年に一度の聖戦へ赴くラーザァーへ、〈血の雫〉を授ける」
神官たちが一斉に頭を垂れた。
貴族たちも続く。
民衆はいない。
これは神殿内の秘儀だからだ。
だが、聖堂の外には人々の祈りが集まっている。広場には白い旗が掲げられ、ラーザァー授与の成功を待つ群衆がいるはずだった。
その祈りは本物だ。
だからこそ、この儀式は重い。
本物の祈りが、偽りの器へ注がれていく。
父の合図で、六つの封箱が運ばれてきた。
ザルハルト山の洞窟から持ち帰ったものだ。
黒い箱。
銀の封印布。
月神の祈祷句。
その内側で、六つの〈血の雫〉が眠っている。
いや、眠ってはいない。
アレクが聖堂に入った時から、二つの雫はすでにこちらを見ていた。
胸元の黒曜石が冷たく震える。
一拍。
母のくれた猶予。
だが、今日はその一拍があまりにも短い。
「第一雫。キルス=ルナティア」
封箱のひとつが開かれた。
赤い光が聖堂に漏れる。
月神の血と呼ばれる赤。
だがアレクには、それがただの祝福には見えない。
祈りと血と術式と封印と罪。
それらがひとつに固まった、生きた結晶。
ルナティアが前へ出た。
彼女は白い盃を受け取り、その中へ落とされた〈血の雫〉を見つめる。血晶は盃の底で溶け、赤い液体になった。
ルナティアは一瞬だけ目を閉じた。
そして、飲んだ。
彼女の体が小さく震える。
足元に銀の月相紋が広がり、儀礼剣の鞘が淡く光った。貴族席から抑えた感嘆の声が上がる。
「第二雫。ミリア=オルフェ」
ミリアは震えながらも、祈りの句を唱えて飲んだ。
彼女の髪がふわりと浮き、周囲に小さな月光の粒が舞う。
「第三雫。ダレン=ヴァルク」
ダレンは誇らしげに盃を掲げたが、飲んだ瞬間に顔を歪めた。膝が崩れかけ、護衛神官が支える。それでも神官団はそれを「強い祝福反応」と記録した。
「第四雫。ノエル=ラザリカ」
ノエルは、白い布の上の候補者紐を見た。
セリオの不在を見てから、盃を受け取った。
彼女は泣かなかった。
けれど、飲み干したあと、唇を強く噛んだ。血が滲んだのを、アレクだけが見た。
そして、父の声がアレクへ向いた。
「第五雫。アレク=アルフェラッツ」
聖堂の空気が変わった。
アレクは一歩前へ出た。
足元の月相陣が、待ち構えていたように光る。
封箱が開かれる。
赤い結晶が浮かび上がった。
それは、ほかの雫よりも強く脈打っていた。
どくん。
アレクの胸が痛む。
どくん。
洞窟の奥で聞いた巨大な蛇の鼓動が、耳の奥で蘇る。
どくん。
血が応える。
父は白い盃を差し出した。
「飲みなさい」
命令だった。
祝福の形をした命令。
アレクは盃を受け取った。
中で赤い雫が溶けていく。
温かい。
手のひら越しにわかる。
血の温度だ。
アレクは、最奥の帳を見た。
巫女が微笑んでいる。
美しい微笑み。
けれど、その目は空虚だった。
その横に立つキルス神官長は、表情を動かさない。だが、包帯を巻いた手がわずかに握られていた。
止められないのだ。
この場では。
アレクは盃に口をつけた。
赤い液体が舌に触れる。
甘い。
その直後に、鉄の味が来る。
血の味。
そして、その下から、冷たい水底の味がせり上がってきた。
アレクは飲み込んだ。
瞬間、聖堂の白い光が砕けた。
音が消える。
人々の姿が遠ざかる。
代わりに、無数の線が見えた。
聖堂の床に刻まれた月相陣。
柱に隠された封印句。
神殿地下へ伸びる鎖。
メミス全体に広がる巨大な月の紋様。
その下に絡みつく黒い蛇紋。
すべてが重なって見える。
アレクは膝をついた。
倒れたのではない。
倒れないために、自分で膝をついた。
ザヴォラムの声が、遠くから聞こえる。
「呼吸しろ!」
シルハインドがどこかで名を呼んでいる。
「アレク!」
だが、アレクにはもう、自分の名が遠かった。
アレク。
その名が、白い文字として聖堂の上に浮かんでいる。
神殿の台帳に記された名。
父が与えた名。
男の後継として整えられた名。
ラーザァー候補として読み上げられた名。
その文字の下に、もうひとつの名が眠っている。
深い場所で。
長いあいだ、蓋をされて。
呼ばれないように。
記録されないように。
見つからないように。
アレクサンドラ。
その名が、赤い血晶の光に触れた。
どくん。
アレクの中で、何かが目を開けた。
母の声が聞こえる。
アレクサンドラ。
私の子。
月神の器ではなく、誰の所有物でもない、私の大切な子。
シルハインドの声が続く。
忘れない。
でも、奪わない。
そして、キルス神官長の声。
呼べば、神殿はそれを新しい鎖にする。
アレクは震えた。
違う。
この名を封じていたのは、父だけではない。
父は確かに、アレクという名を与えた。
神官職を継がせるために、アレクサンドラを隠した。
けれど、それを可能にしたのは神殿だった。
台帳があった。
性別欄があった。
命名欄があった。
血統記録があった。
後継制度があった。
男の神官を求める家と、血を求める神殿があった。
父ひとりの罪ではない。
もっと大きな仕組みが、自分の名を奪った。
アレクサンドラという名を隠さなければ生きられないようにしたのは、神官制度そのものだった。
赤い光が、アレクの胸の奥で爆ぜた。
「反応が強すぎる!」
誰かが叫ぶ。
聖堂の床に、銀と黒の線が同時に広がった。
月神の月相陣。
蛇神の黒い紋。
二つの構文が、アレクの血を通して重なろうとしている。
父の声が鋭く飛ぶ。
「抑えろ! 月相陣を固定しろ!」
神官たちが術式を展開する。
だが、アレクの足元の光は固定されない。
むしろ、神官団の術式を飲み込むように広がっていく。
白い聖堂の壁に、赤い光が走った。
祝福の鐘が鳴る。
ぎしり。
地下の鎖が激しく軋む。
巫女の微笑みが消えた。
薄絹の奥の目が、初めて恐怖に揺れる。
キルス神官長が低く言った。
「止めろ。これ以上は――」
だが、父は止めなかった。
彼の目には恐れもあった。
けれど、それ以上に別の光があった。
期待。
アレクはそれを見てしまった。
自分の苦しみを見ながら、父は力を見ている。
制御できれば、これほど強いラーザァーはいない。
二つ目の雫も受けられる。
聖戦に勝てる。
神殿の権威を守れる。
父の目はそう語っていた。
アレクは、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。
「続ける」
父が言った。
聖堂がざわめく。
キルス神官長の顔が険しくなる。
「今の状態で二つ目を与えれば、血が裂ける」
「月神が選ばれたのです」
父は言った。
「セリオ=マクレインの雫が、アレクへ反応した。これは神意です」
神意。
まただ。
都合のよいことを、神の名で呼ぶ。
アレクは膝をついたまま、息を荒げていた。
身体の中が熱い。
血管の一本一本に、月光と赤い毒が流れているようだった。
それでも、耳は父の言葉を聞いている。
「セリオ候補の遺志を継ぎ、アレク=アルフェラッツは二つ目の〈血の雫〉を受ける」
ノエルが顔を上げた。
「待ってください」
小さな声だった。
けれど、確かに聞こえた。
「セリオの遺志を、勝手に使わないでください」
聖堂が凍った。
父の目がノエルへ向く。
「ラザリカ候補。今は儀式中です」
「セリオは、アレクに飲んでほしくて死んだわけではありません」
ノエルの声は震えていた。
それでも、彼女は言った。
「私を庇って死にました。誰かの雫になるためではありません」
アレクはノエルを見た。
その言葉が、赤い光の中でまっすぐ届いた。
セリオの死を、神殿の言葉に奪わせない声だった。
父の顔が冷たくなる。
「記録役」
キルス神官長が、父の声を遮った。
「この場で候補者の発言を罰する必要はない」
「しかし」
「私が不要と言った」
キルスの声は低かった。
父は一瞬、黙った。
だが、儀式そのものは止まらない。
封箱の最後のひとつが開かれた。
セリオのために用意されていた〈血の雫〉。
その結晶は、箱から出た瞬間、迷わずアレクへ向いた。
赤い光が、一本の線のようにアレクの胸へ伸びる。
逃げられない。
そう思った。
神殿の中央。
父の前。
巫女の前。
神官団と貴族たちの視線の中。
ここで拒めば、異常として押さえ込まれる。
ノエルたちにも危険が及ぶ。
シルハインドも、母も、ザヴォラムも、キルスも、皆、巻き込まれる。
だが、受ければ。
自分の血は、もう戻れない。
アレクは盃を見た。
二つ目の赤。
セリオの空白。
月神の血と呼ばれる、都の罪。
自分はこれを呑むのか。
神殿のために?
違う。
父のために?
違う。
月神のために?
それも、まだわからない。
なら、何のために。
アレクは、ノエルを見た。
彼女は泣きながらも、こちらを見ていた。
次に、シルハインドを見た。
彼は今にも飛び出しそうな顔をしていた。
けれど、ザヴォラムが肩を掴んで止めている。
ザヴォラムは冷静な顔をしている。
だが、その手には力がこもっていた。
キルス神官長は、何も言わない。
止めたい。
だが止められない。
その痛みが、彼の沈黙にあった。
アレクは、最後に白い布を見た。
セリオの白紐。
彼の死を、神殿の物語に渡したくない。
ならば。
アレクは震える手で盃を受け取った。
父の目が満足げに細まる。
その顔を見た瞬間、アレクは静かに言った。
「これは、月神のためではありません」
聖堂がざわめく。
父の表情が固まる。
「何を」
「セリオの死を、あなたたちの言葉だけで記録させないためです」
アレクは盃を見た。
「この雫が誰のものだったのか、私は忘れません」
それだけ言って、飲んだ。
二つ目の〈血の雫〉が、喉を通った。
一つ目とは違った。
熱い。
焼ける。
血が沸騰するようだった。
アレクは声にならない悲鳴を上げた。
聖堂の月相陣が一斉に光る。
銀の光。
赤い光。
黒い線。
三つが絡み合い、アレクの体を中心に渦を巻く。
髪が浮き上がる。
胸元の月章が砕けた。
その裏に隠していた黒曜石が露わになり、強い光を放つ。
一拍。
一拍では足りない。
けれど、その一拍が、アレクを完全に飲まれることから守った。
体の中で、アレクという名が白く燃える。
その下から、アレクサンドラという名が赤く浮かび上がる。
二つの名がぶつかる。
違う。
ぶつかるのではない。
重なる。
アレクでもある。
アレクサンドラでもある。
どちらかを消す必要はない。
どちらかだけを神殿に差し出す必要もない。
アレクは、名より先にいる。
その瞬間、アレクの中で封じられていた名が、はっきりと目を開けた。
アレクサンドラ。
声に出した者はいない。
けれど、聖堂の月相陣がその名に反応した。
床の記録線が揺らぐ。
父が驚愕の表情を浮かべる。
記録役の筆が勝手に動きかけ、紙の上に見知らぬ曲線を描く。
神殿が、隠された名を拾おうとしている。
「書くな!」
キルス神官長が叫んだ。
ザヴォラムが即座に記録役の筆を叩き落とす。
紙が裂けた。
その一瞬の隙に、アレクは自分の胸を押さえた。
これは、神殿に渡さない。
アレクサンドラという名は、記録されるために目覚めたのではない。
奪われていた自分を、自分の中へ戻すために目覚めたのだ。
アレクの周囲に、赤銀の光が広がった。
月神の術式が従う。
封印陣の線が読める。
神殿地下の鎖の位置がわかる。
〈血の雫〉の力が、体の中で暴れている。
強い。
恐ろしいほどに。
ほんの少し手を伸ばせば、聖堂の月相陣をすべて動かせる気がした。
地下の鎖にも触れられる。
ザルハルト山の洞窟にも、黒底湖の底にも、意識が届いてしまいそうだった。
そして、その奥で、巨大な蛇が目を開けている。
『月の名を着せられた血』
声が届く。
今度は、はっきりと。
『いや――二つ名を奪われし子よ』
アレクは歯を食いしばった。
「私は……」
声が震える。
だが、消えない。
「私は、あなたのものでもありません」
蛇の鼓動が、遠くで笑ったように響いた。
それが嘲笑なのか、感嘆なのかはわからない。
聖堂の光が、少しずつ収まっていく。
アレクは片膝をついたまま、荒く息をしていた。
身体は熱い。
血はまだ暴れている。
けれど、意識はある。
飲まれなかった。
二つの〈血の雫〉を呑んでも、完全には壊れなかった。
聖堂の誰もが、アレクを見ていた。
恐れ。
驚き。
畏敬。
計算。
期待。
父の目には、特に強い光があった。
「素晴らしい……」
彼が呟いた。
アレクは、その声を聞いて、胸の奥が冷えた。
素晴らしい。
そう言うのか。
この痛みを。
この暴走を。
自分の名が裂かれかけたことを。
セリオの雫を呑まされたことを。
素晴らしい力として見るのか。
その瞬間、アレクは完全に理解した。
父は自分を見ていない。
だが、それは父だけではない。
神殿も見ていない。
神官団も、記録も、制度も、アレクという人間を見てはいない。
彼らが見ているのは、血だ。
使える血。
継がせられる名。
儀式を成立させる器。
聖戦に勝つための道具。
アレクサンドラという名を奪っていたものは、父の意志だけではなかった。
この白い神殿全体だった。
この制度だった。
この都を支える、聖なる嘘そのものだった。
アレクはゆっくり立ち上がった。
足は震えていた。
だが、立った。
シルハインドが駆け寄ろうとする。
ザヴォラムが止めない。
キルス神官長も止めなかった。
アレクは父を見た。
「私は、器ではありません」
聖堂に、その声が響いた。
父の顔が強張る。
「アレク」
「その名で呼ぶなら」
アレクは息を吸った。
胸の奥で、もうひとつの名が静かに光っている。
「私がその名を選ぶ時だけにしてください」
聖堂が凍りついた。
誰も意味を完全には理解していない。
だが、何かが変わったことだけはわかっていた。
月神の血を呑む者。
そう記録されるはずだった存在は、いま、神殿の記録からわずかに外れた。
アレクでもあり。
アレクサンドラでもあり。
そのどちらかに閉じ込められる前の、ひとりの人間として。
二つの〈血の雫〉は、アレクの中でまだ脈打っている。
強大な力。
危険な力。
月神の祝福と呼ばれた、都の罪。
だが、それを何に使うかは、まだ神殿のものではない。
アレクは、胸元の砕けた月章を見下ろした。
白い聖堂の床に、銀の破片が落ちている。
その下で、地下の鎖がもう一度軋んだ。
ぎしり。
今度は、恐怖だけではなかった。
どこか遠く、湖底の闇で、巨大な蛇神がこちらを見ている。
そしてアレクの中では、封じられていた名が、静かに呼吸を始めていた。




