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第十五節 ― 蛇殻の顕現

最初に崩れたのは、鐘の音だった。


ラーザァー授与の儀が終わり、聖堂に残っていた祈りの余韻が、まだ白い柱のあいだを漂っていたころだった。


祝福の鐘が鳴る。


そのはずだった。


けれど、響いた音は鐘ではなかった。


ぎしり。


神殿の地下で、巨大な鎖が軋んだ。


ぎしり。


今度は、アレクだけではない。


聖堂にいた神官たちも、貴族たちも、ラーザァー候補たちも、その音を聞いた。


誰かが息を呑む。


巫女の薄絹が震える。


キルス神官長が、顔を上げた。


「封印が、動いた」


その声は静かだった。


だが、聖堂の空気は一瞬で凍りついた。


次の瞬間、メミスの北から、地鳴りが来た。


低く、重く、都全体の骨を揺らすような音だった。


白い聖堂の床が震える。

月相陣の銀線が乱れ、柱の月石灯が一斉に明滅する。


アレクは立っていられず、片膝をついた。


二つの〈血の雫〉が、体内で激しく脈打っている。


ひとつ。

ふたつ。


別々の拍だったはずの二つの血晶が、いま同じ鼓動へ引き寄せられている。


どくん。


どくん。


湖底の蛇の鼓動。


アレクの血が、それに応えてしまう。


「アレク!」


シルハインドが駆け寄ろうとした。


しかし、ザヴォラムが彼の肩を掴んだ。


「今触るな。血反応に巻き込まれる」


「でも!」


「近づくなら、反応が落ちてからだ」


ザヴォラムの声は冷静だった。


だが、その顔にも余裕はなかった。


聖堂の外から、悲鳴が上がる。


ひとつではない。


遠く、広場の方から。

さらに北門の方から。

そして、都の地下から。


神殿の大扉が開かれ、外の光が流れ込んだ。


夕月の下、メミスの北の空が黒く染まっていた。


雲ではない。


土煙だった。


ザルハルト山の方角から、地面が割れている。


白い巡礼道が裂け、石碑が倒れ、月神の旗が次々と泥に呑まれていく。その裂け目から、黒いものが這い出していた。


巨大な蛇。


けれど、それはレ=ザービ=トゥルドそのものではなかった。


アレクにはわかった。


あれは本体ではない。


封印から剥がれ落ちた、蛇殻。


古い鱗。

脱ぎ捨てられた神の外皮。

封印の隙間からこぼれ出した怒りと記憶が、地脈の土と岩をまとって形を取ったもの。


それでも、十分に巨大だった。


山腹から現れた蛇殻は、岩でできた胴をくねらせていた。

鱗の一枚一枚は黒い岩板のようで、隙間から赤い光が漏れている。腹のあたりだけが異様に膨れており、その内側には、溶けた黄金のようなものが鈍く輝いていた。


黄金を呑んだ腹。


それは財宝ではなかった。


かつて捧げられた供物。

湖底へ沈められた祭具。

神殿を覆うために溶かされた金属。

人々の祈りと欲と恐れが、地脈の中で腐らず残ったもの。


蛇殻は、それらを腹に抱えたまま、メミスへ向かっていた。


湖と山をつなぐ地脈が、怪物の身体になっている。


ザルハルト山の黒い蛇紋。

黒底湖の沈んだ祭壇。

メミス地下の封印鎖。


その三つが、ひとつの線で繋がってしまった。


「防壁へ!」


父の声が飛ぶ。


「月光障壁を展開しろ! 北門を閉じよ!」


神官たちが走り出す。


聖堂の外では、鐘が乱打されていた。

今度は祝福の鐘ではない。

警鐘だった。


都の人々が逃げ惑っている。


つい先ほどまでラーザァーを英雄として迎えていた広場に、恐怖が降りていた。白い花びらは踏み荒らされ、祈り布は泥に落ち、子どもたちの泣き声が防壁の内側へ響く。


蛇殻が咆哮した。


それは獣の声ではなかった。


岩が裂ける音。

湖が凍る音。

古い祭壇が沈む音。

そして、人々の祈りが一度に踏みにじられる音。


アレクの耳の奥に、別の響きが重なった。


返せ。


誰かの声だった。


返せ。


名を。

神域を。

祈りを。

黒い月を。


アレクは息を呑んだ。


「……怒っている」


「何が?」


シルハインドがようやく近づき、アレクの腕を支えた。


「蛇殻が」


「怪物が怒っているなら、当然だろ」


「違います」


アレクは、北の土煙を見た。


「ただ壊したいだけじゃない。何かを、奪われたと思っている」


シルハインドは言葉を失った。


その間にも、蛇殻は北防壁へ迫っていた。


メミスの防壁は白く、美しい。


月神の加護を受けた聖壁だと教えられている。だが、蛇殻の巨体が触れた瞬間、その白い石に黒い亀裂が走った。


防壁の上で、神官たちが月光障壁を展開する。


銀の幕が空へ広がった。


月の光を集めた巨大な半透明の盾。


都を守るための術式。


それが、蛇殻の頭突きを受け止めた。


衝撃。


空気が裂けた。


銀の障壁に、黒いひびが入る。


「ラーザァーを前へ!」


父が叫んだ。


その言葉に、アレクの体が強張る。


もう、使う気なのだ。


授与されたばかりの〈血の雫〉を。

まだ力に慣れていない候補者たちを。

セリオの死も、アレクの暴走も、何も終わっていないのに。


キルス神官長が父を睨んだ。


「早すぎる」


「今使わずに、いつ使うのです」


父は言った。


「聖戦は始まったのです、神官長」


聖戦。


また、その言葉。


キルス神官長の表情が冷たくなる。


「これは聖戦ではない。封印事故だ」


父の顔が歪んだ。


だが、反論している時間はなかった。


蛇殻の尾が地面を打ち、北門の塔が傾いた。


悲鳴が上がる。


キルス神官長は舌打ちし、ラーザァーたちへ向き直った。


「死ぬな。勝とうとするな。押し返せ」


その言葉は、神官らしい鼓舞ではなかった。


けれど、アレクには一番信じられた。


キルス=ルナティアが儀礼剣を抜いた。


「了解」


ミリアは震える手で月読陣を展開する。


ダレンは顔を青くしながらも、両手に光を集めた。


ノエルは白い布の方を一度だけ見たあと、唇を噛み、前へ出た。


「セリオの分まで、なんて言わせない」


彼女は小さく言った。


「でも、守ることはやめない」


アレクはその言葉を聞き、胸の中で何かが定まるのを感じた。


そうだ。


セリオの死を神殿に利用させない。


けれど、彼が誰かを守ろうとしたことまで否定しない。


「行きます」


アレクは立ち上がった。


シルハインドが腕を掴む。


「その体で?」


「行かなければ、もっと人が死にます」


「君が壊れても意味がない」


「壊れません」


そう言い切ったが、自信はなかった。


二つの〈血の雫〉は、まだ体内で暴れている。少し気を抜けば、月神の術式にも、蛇神の鼓動にも、どちらにも引き込まれそうだった。


それでも、行くしかない。


ザヴォラムが、アレクの前に小さな護符を差し出した。


「持て」


「これは?」


「血反応を一瞬だけ外へ逃がす札だ。長くは保たない」


「あなたが作ったのですか」


「質問している時間はない」


ザヴォラムはいつも通り冷たい。


だが、その手は少し震えていた。


アレクは護符を受け取った。


「ありがとうございます」


「礼を言うなら、生きて戻れ」


その言葉を背に、アレクは聖堂を出た。


ラーザァーたちは北防壁へ向かった。


騎獣は使えなかった。


都の上空はすでに乱れている。蛇殻の地脈反応が空気を歪ませ、風の流れを狂わせていた。イーラでさえ、飛べば巻き込まれる危険があった。


白い街路を走る。


民衆は避難している。


つい先ほどまで祝福の旗が揺れていた道に、割れた水瓶や踏みつぶされた花が散っていた。


アレクは走りながら、足元の街路を見る。


月相陣の線が光っている。


都そのものが、蛇殻の接近に反応していた。


だが、その光は防御だけではない。


封じ込め。


押さえつけ。


上書き。


メミスの街路は、いまもなお蛇神の古い地脈を月神の名で押さえようとしている。


その圧力に、蛇殻が怒っている。


北防壁へ着いたとき、月光障壁はすでにひびだらけだった。


蛇殻の頭部が、障壁の向こうでうねっている。


巨大な岩の蛇。

その額には、黒い月紋が浮かんでいた。

けれど紋様は欠けている。月神の銀線によって上から裂かれたように、歪んでいる。


腹の黄金が、どろりと光る。


その光の中に、アレクは見た。


古い祭り。


湖辺に集う人々。

黒い月の夜、蛇神へ供物を捧げる姿。

恐れながらも祈る声。

洪水を鎮め、死者を水へ渡し、冬を越えるために願う人々。


次に見えたのは、白い神官たちだった。


祭壇を壊し、黒い月を削り、蛇紋の上へ銀の月紋を刻む。

古い祈りを禁じ、蛇神の名を怪物の名へ変える。


そして、湖底へ沈む神殿。


アレクは息が止まった。


これは蛇殻の記憶だ。


あるいは、レザービトゥルドの剥がれた外皮に残った痛み。


「見るな!」


キルス神官長の声が響いた。


彼も防壁へ来ていた。


「同情で近づけば、飲まれる!」


アレクは歯を食いしばった。


わかっている。


あれは哀れなだけの存在ではない。


蛇殻が尾を振るう。


防壁の上の見張り台が砕け、石片が降る。逃げ遅れた兵士が悲鳴を上げた。


キルス=ルナティアが飛び出す。


儀礼剣に月光を宿し、落ちる石片を斬り払った。


「退避を!」


彼女の声に、兵士たちが下がる。


ミリアは月読陣を広げ、避難路へ光の道を作った。

ノエルは治癒と防護を重ね、怪我人を守る。

ダレンは震えながらも火ではなく月光弾を放ち、蛇殻の目を逸らした。


ラーザァーたちは、戦っていた。


まだ未熟だ。

怖れている。

完全な英雄ではない。


それでも、都を守ろうとしていた。


アレクは、防壁の中央へ立った。


二つの〈血の雫〉が、蛇殻に反応する。


蛇殻もまた、アレクを見る。


巨大な目。


岩と泥でできた外皮の奥に、赤黒い光がある。


殺意がある。


怒りがある。


だが、その奥に、途方もない孤独があった。


祈られたことを覚えているのに、祈る者はもういない。

神だったことを覚えているのに、呼ばれる名は怪物の名だけ。

奪われたものを返せと叫んでも、返ってくるのは剣と封印だけ。


アレクの胸が痛んだ。


「あなたを、許すことはできません」


アレクは呟いた。


蛇殻に届いたかはわからない。


「でも、ただの怪物としては、見ません」


アレクは両手を広げた。


月神の構文を開く。


同時に、蛇神の黒い線を避けない。


避けずに見る。

けれど、飲まれない。


神殿が教えた月相陣だけでは、蛇殻を押し返せない。

それはただ上から押さえつけるだけで、怒りをさらに強くする。


必要なのは、封じることではなく、流れを変えること。


ザルハルト山から黒底湖へ。

黒底湖からメミス地下へ。

詰まり、歪み、怒りとして噴き出した地脈を、いったん逃がす。


アレクには、それがなぜかわかった。


二つの〈血の雫〉が、体内で別々の役目を持とうとしている。


ひとつは月の封印。

もうひとつは、失われた蛇の記憶。


セリオの雫。


アレクは目を閉じた。


「借ります」


誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


セリオへか。

月神へか。

蛇神へか。

それとも、自分の中で目覚めたアレクサンドラへか。


足元の月相陣が赤銀に光る。


黒い蛇紋が、その隙間から浮かび上がる。


父が遠くで叫んだ。


「何をしている! 蛇紋を使うな!」


アレクは聞かなかった。


神殿のやり方だけでは足りない。


白い嘘だけでは、もうこの都は守れない。


「道を開きます」


アレクは言った。


「呑み込むためではなく、戻すために」


蛇殻が咆哮する。


アレクの術式が防壁を越え、地面へ走った。


月相陣の銀線が、黒い蛇紋を押しつぶすのではなく、沿うように重なる。まるで二本の川が一瞬だけ同じ谷を流れるように。


蛇殻の腹の黄金が激しく光った。


その膨れた腹から、供物の残響が溢れる。


金属化した骨。

沈んだ祭具。

古い祈りの欠片。


それらが黒い泥のように噴き出し、防壁へぶつかろうとする。


キルス=ルナティアが叫ぶ。


「今です!」


彼女の儀礼剣が月光を裂いた。


ミリアが光の結界を展開する。

ダレンが黄金の泥を焼き止める。

ノエルが防壁上の兵士たちを覆う。

ザヴォラムが封印線の破断を補修する。

シルハインドは神官ではないのに、倒れた兵士を引きずって安全な場所へ運んでいた。


皆が、アレクの開いた一瞬の道に合わせた。


蛇殻の怒りが、防壁へ向かうのではなく、地脈へ落ちる。


ザルハルト山へ。

黒底湖へ。

封印の奥へ。


だが、それは完全な解決ではなかった。


蛇殻は消えない。


むしろ最後の抵抗として、巨大な頭を持ち上げた。


その目が、アレクを見た。


『返せ』


声が届いた。


今度は、はっきりと。


『名を。月を。祈りを』


アレクは叫び返した。


「奪ったのは私ではありません!」


蛇殻の目が細まる。


アレクは続けた。


「でも、奪われたことをなかったことにはしません!」


その言葉が、術式に乗った。


赤銀の光が、黒い蛇紋へ触れる。


一瞬、蛇殻の姿が揺らいだ。


岩の怪物の奥に、別の姿が見えた。


湖辺に祈る人々の前で、とぐろを巻く大蛇。

恐ろしく、巨大で、けれど供物を受ける神。

黒い月の下、水と死者を守っていた古い存在。


レザービトゥルド。


怪物ではなく、神だったもの。


その面影は、一瞬で消えた。


次の瞬間、蛇殻の胴がひび割れた。


岩の鱗が崩れ、黄金の腹が裂ける。中から黒い水が噴き出し、地面へ吸い込まれていく。


蛇殻は咆哮した。


怒りと痛みと、遠い哀しみが混じった声。


それは都を呑む叫びではなかった。


誰にも届かなかった祈りの残響だった。


やがて、巨大な頭が崩れ落ちる。


岩が砕け、泥が散り、黄金の光が消える。


北防壁の前に、黒い土の山が残った。


蛇殻は、倒れた。


けれど、倒したという実感はなかった。


アレクは防壁の上で膝をついた。


体中が熱い。


二つの〈血の雫〉が、今度は痛みとして脈打っている。


シルハインドが駆け寄り、肩を支えた。


「アレク!」


「大丈夫……では、ありません」


「だろうな」


シルハインドの声が震えていた。


アレクは北の大地を見た。


崩れた蛇殻の向こう、遠く黒底湖の方角に、まだ深い闇がある。


今のは、本体ではない。


封印から剥がれた蛇殻にすぎない。


レザービトゥルドは、まだ湖底にいる。


そして、完全には眠っていない。


キルス神官長が防壁の端に立ち、崩れた蛇殻を見下ろしていた。


「押し返しただけだ」


彼は言った。


「勝ったわけではない」


父は少し離れた場所で、神官たちに指示を出している。


その声には、すでに勝利の記録を整えようとする響きがあった。


ラーザァー初陣。

蛇殻撃退。

月神の祝福。

アレク=アルフェラッツの偉業。


きっとそう書かれる。


アレクは、ゆっくり首を振った。


違う。


これは勝利ではない。


これは、この都が隠してきた罪が、ほんの少しだけ地上に顔を出しただけだ。


そして自分たちは、それを再び押し戻した。


守るために。


生きている人々を守るために。


でも、押し戻しただけでは終わらない。


奪われた神の怒りは、まだ消えていない。


アレクは、崩れた蛇殻に向かって小さく息を吐いた。


祈りではない。


謝罪でもない。


けれど、ただの敵として踏みにじらないための、短い沈黙だった。


その沈黙の中で、アレクの中のアレクサンドラという名が、静かに脈打っていた。


奪われた名を知る者だけが、奪われた神の痛みに触れてしまう。


そのことを、アレクは初めて恐ろしいと思った。

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