第十六節 ― アレクサンドラの名
蛇殻は崩れた。
誰もが、そう思った。
北防壁の外に横たわる黒い土と岩の山。割れた鱗。流れ出した黄金の泥。月光障壁の残滓に焼かれ、地脈へ押し戻された巨大な怒り。
神官たちは息を吐いた。
兵士たちは膝をついた。
民衆の避難誘導に当たっていた者たちの間にも、安堵が広がり始めていた。
だが、アレクだけは動けなかった。
違う。
まだ終わっていない。
崩れた蛇殻の奥で、何かが脈打っている。
どくん。
二つの〈血の雫〉が、アレクの体内で同じ拍を刻んだ。
どくん。
蛇殻の残骸の中で、黒い鱗が盛り上がる。
どくん。
黄金を呑んだ腹の裂け目から、赤黒い光が漏れ出した。
「下がれ!」
キルス神官長の声が飛んだ。
次の瞬間、崩れた蛇殻が再び起き上がった。
完全な姿ではない。
頭は半ば砕け、胴は裂け、腹の黄金は泥のように流れている。それでも、蛇殻は動いた。まるで、死んだはずの神話が、まだ自分の終わりを認めていないかのように。
防壁の上で悲鳴が上がる。
蛇殻の残骸から伸びた黒い鱗の腕が、月光障壁の裂け目へ食い込む。障壁が軋み、白い光に黒い亀裂が走った。
アレクの胸が焼けた。
二つの〈血の雫〉が、もっと力を出せと叫んでいる。
押さえろ。
封じろ。
断て。
勝て。
その声は、神殿で聞かされてきた言葉とよく似ていた。
父のために勝て。
神官になるために勝て。
男として、後継として、ラーザァーとして勝て。
アレクは歯を食いしばった。
体の奥で、力が膨れ上がる。
月相陣が見える。
防壁の封印線が見える。
蛇殻の割れ目が見える。
そこを貫けば、砕ける。
今ならできる。
二つの〈血の雫〉を同時に燃やせば、この蛇殻を完全に焼き切ることができる。
「やれ、アレク!」
父の声が聞こえた。
「月神の血を示せ! お前こそが、メミスを救うラーザァーだ!」
その声に、アレクの血が反応した。
命令に慣れた体が、勝手に動こうとする。
父に認められるために。
神官団に役目を示すために。
アレクという名が正しかったと証明するために。
月光が、アレクの両手に集まる。
赤銀の光が刃の形を取った。
その刃は、美しかった。
けれど、アレクはその美しさの奥に、蛇殻と同じ怒りを見た。
奪われたから、奪い返す。
押さえつけられたから、押し潰す。
名を塗られたから、相手の名を消す。
それでは同じだ。
レザービトゥルドの怒りと、何も変わらない。
「アレク!」
シルハインドが叫んだ。
彼は防壁の瓦礫を越え、アレクの方へ走ってきた。神官たちが止めようとしたが、振り切った。
「そっちへ行くな!」
「来ないでください!」
アレクは叫び返した。
自分の周囲に、赤銀の光が暴れている。触れれば巻き込む。今のアレクは、近づく者を傷つける。
だが、シルハインドは止まらなかった。
「勝つために、自分を消すな!」
その声が、アレクの胸に刺さった。
「君は神殿の剣じゃない! 君の父親の後継でも、月神の器でもない!」
アレクの手が震えた。
光の刃が揺らぐ。
蛇殻が咆哮する。
防壁の障壁がさらに割れる。
「アレク!」
今度は、ザヴォラムの声だった。
彼は封印線の補修を続けながら、冷たい目でこちらを見ていた。
「お前は血ではない。名でもない。だが、血も名も捨てれば、お前自身が空になる」
アレクは息を呑んだ。
ザヴォラムは続ける。
「選べ。従うのではなく、捨てるのでもなく、お前が持つものとして選べ」
選べ。
その言葉が、母の声と重なる。
あなたは月神に選ばれたのではありません。
あなたの血を、月神のものだと呼んだ人たちがいるだけです。
そして、あの部屋で母が呼んだ名。
アレクサンドラ。
私の子。
月神の器ではなく、誰の所有物でもない、私の大切な子。
アレクの中で、封じられていた名が震えた。
アレク。
父に与えられた名。
神官候補としての名。
男として生きるために使われた名。
アレクサンドラ。
隠された名。
母が呼んだ名。
奪われたまま、胸の奥で息をしていた名。
どちらかを捨てれば楽になるのかもしれない。
アレクを捨てて、アレクサンドラに戻る。
あるいは、アレクサンドラを封じて、アレクとして勝つ。
だが、それではまた誰かが決めた形に従うだけだ。
父が決めた形。
神殿が決めた形。
反発するためだけに選ぶ形。
どちらも違う。
アレクは光の刃を握りしめた。
暴走する〈血の雫〉が、体を内側から裂こうとしている。
蛇殻の怒りが、月相陣を通じて流れ込んでくる。
返せ。
返せ。
名を。
月を。
祈りを。
アレクは、その怒りを聞いた。
そして、自分の中にある怒りも聞いた。
返せ。
私の名を。
私の身体を。
私の選ぶ権利を。
同じだった。
だからこそ、同じ終わり方をしてはいけない。
アレクは顔を上げた。
父が見ている。
神官団が見ている。
キルス神官長が見ている。
シルハインドが見ている。
ザヴォラムが見ている。
そして、蛇殻の奥で、奪われた神の残響が見ている。
アレクは、はっきりと言った。
「私は、アレク」
光が止まった。
月相陣の銀線が、アレクの足元に集まる。
「そして、アレクサンドラ」
赤い光が胸の奥から広がった。
神殿の記録線が揺れる。
父の顔が強張る。
記録役の筆が震え、何かを書こうとして止まる。
アレクは続けた。
「どちらの名も、誰かに奪わせはしない」
その瞬間、二つの〈血の雫〉がぶつかるのをやめた。
一つは月の封印として。
一つは失われたものの記憶として。
二つの力が、アレクの中で初めて同じ方向を向いた。
アレクは光の刃を振り上げなかった。
かわりに、両手を開いた。
「あなたを消すために戦わない」
蛇殻へ向けて、アレクは言った。
「でも、あなたにこの都を呑ませもしない」
足元の月相陣が変わる。
銀の線が黒い蛇紋を押し潰すのではなく、その縁をなぞった。赤い光が、二つの線の間へ入り込む。
名を統合する。
アレクとアレクサンドラ。
月神の血と、都の罪。
封印と記憶。
守ることと、隠さないこと。
そのすべてを、片方だけにしない。
アレクは、蛇殻の残骸に向かって歩いた。
シルハインドが息を呑む。
父が叫ぶ。
「止まれ! 近づくな!」
だが、アレクは止まらなかった。
蛇殻の額に、黒い月紋が浮かんでいる。
その上には、月神殿が刻んだ銀の封印線。
下には、古い蛇神の祈り。
アレクは、その重なった紋へ手を伸ばした。
触れた瞬間、膨大な怒りが流れ込んだ。
沈む神殿。
削られる名。
黒い月を奪われる夜。
祈る者を失った湖。
怪物と呼ばれ続けた長い眠り。
アレクは叫びそうになった。
けれど、逃げなかった。
自分の名を奪われた痛みが、その怒りに飲み込まれないための錨になった。
「あなたは、怪物だけではない」
アレクは言った。
「でも、今ここで人を殺すなら、私は止める」
蛇殻の黒い月紋が震えた。
アレクは、自分の名を術式へ流し込んだ。
アレク。
役割として与えられた名。
アレクサンドラ。
封じられていた名。
二つをひとつにするのではない。
どちらかへ戻すのでもない。
二つとも、自分のものとして立たせる。
その名の統合が、蛇殻の中心へ届いた。
蛇殻を動かしていたものは、怒りだけではなかった。
剥がれた神の名。
奪われた神域。
断たれた祈り。
それらが絡まり、ひとつの暴走になっていた。
アレクの術式は、それを斬った。
滅ぼすのではなく、ほどくように。
黒い鱗が割れる。
黄金の腹が砕ける。
蛇殻の頭部に走っていた銀の封印線と黒い蛇紋が、同時に光を放ち、次の瞬間、音もなく断ち切られた。
蛇殻が、最後の咆哮を上げた。
それは怒りの声ではなかった。
深く、遠く、沈んだ祭壇から響くような声。
アレクには、それが言葉になる直前の祈りに聞こえた。
やがて、巨大な蛇殻は崩れた。
今度こそ。
岩は土へ戻り、黄金は黒い砂となり、鱗は風に削られて砕けていく。
黒い月紋だけが一瞬、夕月の下に浮かび上がった。
そして消えた。
北防壁の上に、沈黙が降りた。
アレクは立っていた。
体は限界だった。
二つの〈血の雫〉はまだ熱い。
足は震え、視界は霞んでいる。
それでも、倒れなかった。
シルハインドが駆け寄り、今度は誰も止めなかった。
「アレク!」
彼が支えた瞬間、アレクの体から力が抜けた。
「……アレク、です」
アレクはかすれた声で言った。
「そして、アレクサンドラです」
シルハインドは、一瞬だけ泣きそうな顔をした。
それから、静かに頷いた。
「うん。どっちも、君だ」
その言葉を聞いた瞬間、アレクはようやく息を吐いた。
防壁の外では、蛇殻の残骸が風に崩れている。
奪われた神の本体は、まだ湖底にいる。
けれど、今ここに顕れた怒りの殻は断たれた。
アレクは、砕けた黒い鱗の向こうに、ほんの一瞬だけ巨大な蛇の影を見た。
それは憎しみだけでなく、深い疲れを宿していた。
そして、湖底へ沈むように消えていった。




