終節 ― 偽りの聖都はまだ立っている
翌朝、メミスは救われた都として目覚めた。
北防壁は大きく損傷し、巡礼道は裂け、ザルハルト山へ続く道には黒い泥が残っていた。けれど、白い聖都はまだ立っていた。
月神殿の鐘が鳴る。
今度の鐘は、勝利の鐘だった。
神官団はすばやく記録を整えた。
ラーザァー、蛇殻を撃退。
月神ムーミストの加護、聖都を守る。
アレク=アルフェラッツ、二つの〈血の雫〉を受け、偉大なる力を示す。
失われしセリオ=マクレインの祈りもまた、勝利へ結ばれた。
美しい言葉だった。
あまりにも美しすぎて、アレクは吐き気がした。
セリオの死も。
ノエルの叫びも。
蛇殻の哀しみも。
レザービトゥルドがかつて神だったことも。
〈血の雫〉が都の罪であることも。
すべて、月神の勝利という白い布で覆われようとしている。
広場では、民衆が祈っていた。
彼らの祈りは本物だった。
瓦礫の中で家族を抱きしめる者。
ラーザァーへ花を捧げる子ども。
防壁で戦った兵士へ水を運ぶ女たち。
その光景を、アレクは否定できなかった。
メミスは救われた。
それは事実だ。
けれど、正しかったから救われたのではない。
嘘を抱えたまま、まだ崩れなかっただけだ。
アレクは神殿の回廊に立ち、広場を見下ろしていた。
胸元には、砕けた月章のかわりに簡素な白紐が結ばれている。体内の二つの〈血の雫〉は、まだ静かに脈打っていた。
力は残っている。
けれど、その力を神殿に預けるつもりはなかった。
背後で、足音がした。
キルス神官長だった。
包帯を巻いた手首。
夜青の長衣。
疲れた目。
彼はアレクの隣に立った。
しばらく、二人は広場を見下ろしていた。
「英雄になったな」
キルスが言った。
アレクは首を振った。
「神殿の記録では、そうなるのでしょう」
「不満か」
「怖いです」
アレクは正直に答えた。
「英雄という名も、器という名と同じくらい、人を縛れる」
キルスはわずかに目を細めた。
「それがわかっているなら、まだ飲まれてはいない」
広場で、また鐘が鳴った。
アレクは耳を澄ませた。
勝利の鐘の下に、まだ微かな鎖の音がある。
ぎしり。
昨日よりは遠い。
けれど、消えていない。
キルスも聞いているのだろう。表情は変えないが、視線が神殿の地下へ向いた。
「この都は、いずれ沈黙に食われる」
彼は言った。
「沈黙に?」
「嘘を重ねすぎた都は、最後には本当の声を失う。祈りも、名も、記録も、自分で何を隠したのかさえ忘れる」
アレクは黙っていた。
「その時、おまえは神官になるのか」
キルスは続けた。
「それとも、記されなかった名の側に立つのか」
問いは、刃のようだった。
アレクはすぐには答えられなかった。
神官になる道は、まだ消えていない。
父はきっと、今回の勝利を理由にアレクをさらに神殿へ縛ろうとする。二つの〈血の雫〉を受けた特別なラーザァーとして、月神の後継として、家の名誉として。
けれど、アレクの中にはもう、別の名がある。
アレクサンドラ。
隠されたまま泣いていた名ではない。
自分で受け入れた名。
「まだ、わかりません」
アレクは言った。
「でも、どちらを選ぶとしても、誰かに決めさせるつもりはありません」
キルスは少しだけ笑った。
「それでいい」
その時、回廊の向こうからシルハインドが顔を出した。
「アレク、医療室に戻れってノエルが怒ってるぞ。ザヴォラムも怒ってる。たぶん別々の理由で」
アレクは小さく笑った。
「あなたも怒っているのでは?」
「俺は心配してる」
「同じでは?」
「違う」
そのやり取りを、キルスは黙って見ていた。
そして低く言った。
「名を呼ぶ者は選べ。呼ばせる者も選べ」
アレクは頷いた。
「はい」
回廊の外では、白い花びらが風に舞っていた。
偽りの聖都は、まだ立っている。
けれどアレクは、もうその白さを信じきることはできない。
だからこそ、見なければならない。
白い石の下に何が埋まっているのか。
月神の名で何が隠されたのか。
そして、自分の名がこれから何を変えていくのか。
その頃。
北防壁の外、蛇殻が崩れた戦場跡に、ひとりの男が立っていた。
黒いローブ。
兵士たちが撤収したあと、誰も近づかない黒い泥の上を、彼は音もなく歩いていた。
足元には、砕けた鱗が散っている。
その多くは、すでに土へ戻りかけていた。
だが、ひとつだけ形を保った黒い鱗があった。
蛇殻の額にあった黒い月紋の欠片。
男はそれを拾い上げた。
鱗の裏には、小さな骨片のような白いものが付着している。岩でも金属でもない。古い神話の骨が、かろうじて形を残したようなものだった。
ローブの男は、それを掌の上で眺めた。
「完全ではない」
彼は呟いた。
「だが、世界を巻く蛇の夢は、まだ死んでいない」
遠くで、メミスの勝利の鐘が鳴る。
男は笑った。
その笑みは、喜びではない。
計画がまだ始まったばかりであることを知る者の笑みだった。
黒い鱗が、彼の掌の中でかすかに脈打つ。
どくん。
一度だけ。
湖底の遠い闇で、何かがそれに応えた。
そして風が吹き、戦場跡の黒い泥を静かに撫でていった。




