表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/18

第七節 ― 湖底の蛇神

メミスの白い尖塔に鐘が鳴るころ、都の北にある湖では、風が止まっていた。


その湖に、名は多い。


巡礼者は月映湖と呼ぶ。

神官たちは浄月の水鏡と呼ぶ。

古い漁師たちは、もっと低い声で、黒底湖と呼ぶ。


昼であっても、その湖面は深い。

白い都を映し、月神殿の尖塔を映し、空に残る薄い月を映す。けれど、その下に何が沈んでいるのかを、決して見せようとはしない。


湖の上空を、黒い影が横切った。


怪鳥だった。


白い聖都を見下ろしていた、あの巨大な鳥である。


翼は夜を裂いた布のように黒く、羽の先には鈍い銀が混じっている。嘴は長く、目は赤く濡れていた。鳥というより、何か古い戦場から剥がれてきた凶兆の形だった。


怪鳥は湖面の上で一度旋回した。


そして、声を上げた。


人には聞こえない声だった。

風でも、水鳥の鳴き声でもない。

湖面の下に沈むものへだけ届く、裂けた笛のような声。


湖が応えた。


水面に波紋が広がる。


しかし、それは風による波ではなかった。

下から、何か巨大なものが身じろぎしたのだ。


怪鳥は翼を畳み、湖面へ落ちた。


水しぶきは上がらなかった。


黒い影は、湖に触れた瞬間、霧のようにほどけ、水の中へ沈んでいった。


湖底は、夜だった。


光はほとんど届かない。


それでも、完全な闇ではない。

湖の底には、青黒い光を帯びたものがいくつも沈んでいた。


古い神殿柱。

折れた祭壇。

水草に巻かれた石像。

名を削られた碑文。

そして、金属化した骨。


人の骨ではないものもある。

獣の骨でもない。

もっと巨大で、もっと古い、戦のあとに残されたもの。


それらの骨は、湖底の泥の中で鈍く光っていた。鉄でも銀でもない。祈りと呪いと長い時間が混じり、骨そのものが金属へ変じたような色だった。


沈んだ祭壇の中央には、黒い月紋が刻まれている。


月神殿で見られる清らかな銀の月ではない。


反転した月。

欠けた月。

光を飲み込む側の月。


その黒い月紋の上で、巨大な影がとぐろを巻いていた。


蛇だった。


いや、蛇というには大きすぎる。


湖底の神殿跡を、ひとつの身体が取り巻いている。柱と柱の間を胴が通り、折れた祭壇の上に鱗が重なり、沈んだ回廊の奥へ尾が消えている。頭だけでも、神殿の門ほどあった。


鱗は黒ではない。


深い青。

錆びた銀。

泥の底で腐らず残った古い金属。


角のような突起が額にあり、目は閉じていた。

だが、眠っているわけではない。


レ=ザービ=トゥルド。


今の時代、その名を正しく呼ぶ者はほとんどいない。


神官たちは、禁じられた水底の怪異と呼ぶ。

湖畔の民は、供物を食う蛇と恐れる。

都の記録では、討伐対象の古層魔獣と分類される。


だが、湖底に沈む柱は覚えていた。


かつてここに、人が降りてきたことを。


石段は今は泥に埋まっている。

祭壇は折れ、灯火台は水草に覆われている。


それでも昔、この場所には火が灯っていた。

水の底ではなく、湖の縁にあった神殿だった。

人々は月が黒く欠ける夜、ここへ来て、蛇神へ祈った。


洪水が来ないように。

飢えた冬が終わるように。

死者の魂が水に溶けきらず、次の季節へ渡れるように。


レザービトゥルドは、ただの怪物ではなかった。


かつては、祈られていた。


畏れられ、供物を受け、名を呼ばれていた。


その祈りの残り火が、湖底の黒い月紋の奥で、まだ消えずに燻っている。


怪鳥の影が、蛇神の前に降りた。


水中であるにもかかわらず、その翼は濡れていなかった。

影の鳥は、沈んだ祭壇の上に止まり、首を垂れる。


声なき報告が、湖底へ流れた。


白い神殿。

銀の月相陣。

エイースの濃い血。

黒い亀裂に反応した少年。

いや、少年として記された者。

月神のものと呼ばれた血。

そして、神殿へ持ち込まれた蒼い観測の目。


レザービトゥルドの閉じた目が、ゆっくり開いた。


湖底の水が震えた。


その瞳は、蛇のものではなかった。


水の底に沈んだ月をいくつも重ねたような瞳。

怒りと飢えだけではない。

記憶があった。


長く、古く、削られた記憶。


『……血が、近づくか』


声は、水そのものを震わせた。


言葉というより、湖底の泥が発した地鳴りに近い。

だが、その中には確かな意味がある。


怪鳥は、首を垂れたまま翼をすぼめた。


『月の名を着せられた血。

 だが、月だけではない。

 あれは、深く触れる』


レザービトゥルドの胴が、ゆっくりと動いた。


沈んだ柱が軋む。

泥の中に眠っていた小さな骨が浮き上がる。

黒い月紋の上に、鈍い光が走った。


『また、人は名を塗る』


蛇神は呟いた。


『水を月と呼び、血を祝福と呼び、鎖を祈りと呼ぶ』


その声には、怒りがあった。


だが、単純な憎悪ではない。


長く祈られ、長く恐れられ、長く忘れられたものの声だった。


人々は彼を神と呼んだ。

やがて、怪物と呼んだ。

都が白く塗り替えられるころ、彼の神殿は沈められた。

黒い月紋は、月神殿の銀の紋様の下に隠された。


名は削られた。


だが、消えなかった。


湖底で、蛇神はまだ覚えている。


供物の温度を。

祈る者の震える手を。

黒い月の夜、水際で歌われた古い歌を。


そして、自分を封じた者たちの名を。


水の向こうに、人影が現れた。


湖底に立つはずのない人影だった。


黒いローブをまとった男。


水中であるにもかかわらず、裾は揺れない。顔は深いフードに隠れ、声だけが滑るように湖底へ届く。


「目覚めは近いようだな、レ=ザービ=トゥルド」


怪鳥が低く唸った。


レザービトゥルドの瞳が、男へ向く。


『また来たか、名を隠す者』


「名を隠しているのではない。まだ明かす時ではないだけだ」


『人は、そう言って嘘を飾る』


「神も同じだろう」


男は静かに笑った。


その笑いは、水底にいるものとは思えないほど乾いていた。


「お前もかつて、自分の名を飾っていた。湖の守り手。黒月の渡し神。死者の水路を巻くもの。祈りを受ける大蛇。いくつも名を持っていたはずだ」


蛇神の鱗が逆立つように震えた。


湖底に沈んだ祭壇から、黒い泡が立ちのぼる。


『その名を、お前が語るな』


「怒るな。懐かしませているだけだ」


『挑発にしては、下手だ』


「なら、これはどうだ」


ローブの男は、一歩進んだ。


水底の泥に足跡は残らない。


「世界を巻く蛇の夢を、まだ覚えているか?」


湖底が沈黙した。


それまで微かに揺れていた水草も、骨も、柱に絡む藻も、すべてが止まったように見えた。


レザービトゥルドの瞳の奥で、古い光が揺れる。


怒りではない。


恐れでもない。


もっと遠いもの。


眠りの底から、忘れていた巨大な夢が浮かび上がるような光だった。


『……その夢は、私のものではない』


「本当に?」


男の声は甘かった。


「湖の底で丸くなり、失われた祭壇に縛られ、メミスの白い嘘を眺めているだけの小さな蛇。それがお前のすべてか?」


『黙れ』


「かつて、お前は水路を巻くだけの神ではなかった」


レザービトゥルドの胴が、強く動いた。


沈んだ柱が一本、音もなく折れる。

水底に黒い泥が舞い上がり、古い碑文を覆った。


『私は、私だ』


「ならば、なぜ震える?」


男はさらに言った。


「なぜ、あの血に反応した? なぜ、月神殿の底にあるものを求める? なぜ、人間たちが〈血の雫〉と呼ぶものが、お前の眠りを揺らす?」


〈血の雫〉。


その名が水底に落ちると、黒い月紋が微かに光った。


レザービトゥルドの頭が、ゆっくりと持ち上がる。


『あれは、私のものではない』


「そうだな。完全には違う」


男は認めた。


「だが、お前と無関係でもない。月神のものと呼ばれているが、月神だけのものではない。あれは封じだ。血の形をした鍵だ。祈りの名を着せられた鎖だ」


蛇神の喉の奥から、低い音が響いた。


水が震える。

怪鳥が羽を伏せる。


『人間どもは、何をしている』


「お前を封じている」


男はさらりと言った。


「そして、お前だけではないものを封じている」


レザービトゥルドの瞳が細くなる。


『何を望む』


「望む?」


「お前は、願いなく湖底へ来る者ではない」


男は笑った。


「そうだな。では、願いを言おう」


彼は沈んだ祭壇の黒い月紋へ視線を落とした。


「目覚めろ。怒れ。あの白い都が、お前の上にどれだけ美しく嘘を重ねたかを思い出せ」


『私を暴れさせたいのか』


「暴れるだけなら、怪物でもできる」


男の声が少し低くなる。


「私は、神に戻れと言っている」


湖底の水が重くなった。


神に戻れ。


その言葉は、レザービトゥルドの古い傷に触れた。


怪物と呼ばれたもの。

禁忌とされたもの。

討伐対象として記録されたもの。


だが、その前にあった。


祈り。

供物。

黒い月の祭壇。

水辺で額を伏せる人々。


神であった記憶。


『戻れるものか』


蛇神は言った。


その声には、先ほどまでの怒りとは違うものが混じっていた。


疲れ。


長く沈められたものの疲れだった。


『祈りは失われた。神殿は沈んだ。名は削られた。いま地上にいるのは、私を怪物としてしか知らぬ者たちだ』


「なら、新しい祈りを作ればいい」


『祈りは作るものではない』


「人間はいつも作っている」


男は言った。


「神話も、聖都も、月神の血も。必要ならば作り、都合が悪ければ塗り替える。お前だけが律儀に古い祈りの形を守る必要があるのか?」


レザービトゥルドは答えなかった。


湖底の黒い月紋が、ゆっくり脈打つ。


怪鳥が再び低い声で鳴いた。


報告の続きを伝える。


ラーザァー召集。

エイース保持者。

月神殿の会議。

アレクという名で呼ばれる血。

その奥に隠された、もうひとつの名。


ローブの男が、わずかに笑う。


「いい器だ。神殿は月のものと思っている。だが、血は月だけに従わない」


『その子を使うつもりか』


「神殿も使うつもりだ」


男は言った。


「なら、早い者勝ちだろう?」


レザービトゥルドの目に、暗い光が宿った。


『人の子を、鍵にするな』


その言葉は、意外なほど静かだった。


ローブの男は、少し首を傾げた。


「怪物らしくないことを言う」


『私は怪物ではない』


湖底に、重い声が響いた。


『人がそう記しただけだ』


一瞬、男の笑みが深くなった。


「そうだ。その怒りを忘れるな」


彼はゆっくりと後ろへ下がる。


「お前は怪物ではない。だが、地上の者たちはそう呼ぶ。月神殿はお前の神殿を沈め、お前の月を奪い、お前の名を裂いた。さて、蛇神よ」


男の姿が水の中で薄れていく。


「それでも、眠ったままでいるのか?」


レザービトゥルドは動かなかった。


だが、湖底全体が震えていた。


沈んだ柱の影が長く伸びる。

金属化した骨が鳴る。

黒い月紋の奥から、深い光が滲み出す。


怪鳥は祭壇の上で翼を広げた。


レザービトゥルドの巨大な頭が、ゆっくりと上を向く。


湖面のはるか上。

白い都メミス。

月神殿の尖塔。

その中で、ラーザァー召集が始まろうとしている。


蛇神の瞳に、白い神殿の影が映った。


『月の名を騙る者たちよ』


その声は、誰にも届かない。

少なくとも、地上の人間には。


だが、湖底の古い祭壇は震えた。


『私の黒い月を、いつまで踏んでいられると思う』


水底の泥が巻き上がる。


沈んだ神殿柱のあいだから、黒い泡が立ちのぼる。泡は月紋の形を取り、すぐに崩れた。


ローブの男の姿は、もうない。


けれど、その声だけが最後に残った。


「思い出せ、レ=ザービ=トゥルド。お前が見ていたのは、湖だけではない」


その声は水へ溶けた。


怪鳥が飛び立つ。

湖底から、影のまま上昇していく。


レザービトゥルドは、再びとぐろを巻いた。


だが、もう眠ってはいなかった。


巨大な蛇神の瞳は開いたまま、湖面の向こうにある白い聖都を見上げている。


美しい都。

清らかな都。

月神に守られたと語られる都。


その下に、沈められた黒い月がある。


かつて祈られた蛇神がいる。


そして今、月神のものと呼ばれた血が、神殿の中心へ近づいている。


湖底で、古い祭壇が低く鳴った。


それは怒りの音でもあり、祈りの残響でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ