第七節 ― 湖底の蛇神
メミスの白い尖塔に鐘が鳴るころ、都の北にある湖では、風が止まっていた。
その湖に、名は多い。
巡礼者は月映湖と呼ぶ。
神官たちは浄月の水鏡と呼ぶ。
古い漁師たちは、もっと低い声で、黒底湖と呼ぶ。
昼であっても、その湖面は深い。
白い都を映し、月神殿の尖塔を映し、空に残る薄い月を映す。けれど、その下に何が沈んでいるのかを、決して見せようとはしない。
湖の上空を、黒い影が横切った。
怪鳥だった。
白い聖都を見下ろしていた、あの巨大な鳥である。
翼は夜を裂いた布のように黒く、羽の先には鈍い銀が混じっている。嘴は長く、目は赤く濡れていた。鳥というより、何か古い戦場から剥がれてきた凶兆の形だった。
怪鳥は湖面の上で一度旋回した。
そして、声を上げた。
人には聞こえない声だった。
風でも、水鳥の鳴き声でもない。
湖面の下に沈むものへだけ届く、裂けた笛のような声。
湖が応えた。
水面に波紋が広がる。
しかし、それは風による波ではなかった。
下から、何か巨大なものが身じろぎしたのだ。
怪鳥は翼を畳み、湖面へ落ちた。
水しぶきは上がらなかった。
黒い影は、湖に触れた瞬間、霧のようにほどけ、水の中へ沈んでいった。
湖底は、夜だった。
光はほとんど届かない。
それでも、完全な闇ではない。
湖の底には、青黒い光を帯びたものがいくつも沈んでいた。
古い神殿柱。
折れた祭壇。
水草に巻かれた石像。
名を削られた碑文。
そして、金属化した骨。
人の骨ではないものもある。
獣の骨でもない。
もっと巨大で、もっと古い、戦のあとに残されたもの。
それらの骨は、湖底の泥の中で鈍く光っていた。鉄でも銀でもない。祈りと呪いと長い時間が混じり、骨そのものが金属へ変じたような色だった。
沈んだ祭壇の中央には、黒い月紋が刻まれている。
月神殿で見られる清らかな銀の月ではない。
反転した月。
欠けた月。
光を飲み込む側の月。
その黒い月紋の上で、巨大な影がとぐろを巻いていた。
蛇だった。
いや、蛇というには大きすぎる。
湖底の神殿跡を、ひとつの身体が取り巻いている。柱と柱の間を胴が通り、折れた祭壇の上に鱗が重なり、沈んだ回廊の奥へ尾が消えている。頭だけでも、神殿の門ほどあった。
鱗は黒ではない。
深い青。
錆びた銀。
泥の底で腐らず残った古い金属。
角のような突起が額にあり、目は閉じていた。
だが、眠っているわけではない。
レ=ザービ=トゥルド。
今の時代、その名を正しく呼ぶ者はほとんどいない。
神官たちは、禁じられた水底の怪異と呼ぶ。
湖畔の民は、供物を食う蛇と恐れる。
都の記録では、討伐対象の古層魔獣と分類される。
だが、湖底に沈む柱は覚えていた。
かつてここに、人が降りてきたことを。
石段は今は泥に埋まっている。
祭壇は折れ、灯火台は水草に覆われている。
それでも昔、この場所には火が灯っていた。
水の底ではなく、湖の縁にあった神殿だった。
人々は月が黒く欠ける夜、ここへ来て、蛇神へ祈った。
洪水が来ないように。
飢えた冬が終わるように。
死者の魂が水に溶けきらず、次の季節へ渡れるように。
レザービトゥルドは、ただの怪物ではなかった。
かつては、祈られていた。
畏れられ、供物を受け、名を呼ばれていた。
その祈りの残り火が、湖底の黒い月紋の奥で、まだ消えずに燻っている。
怪鳥の影が、蛇神の前に降りた。
水中であるにもかかわらず、その翼は濡れていなかった。
影の鳥は、沈んだ祭壇の上に止まり、首を垂れる。
声なき報告が、湖底へ流れた。
白い神殿。
銀の月相陣。
エイースの濃い血。
黒い亀裂に反応した少年。
いや、少年として記された者。
月神のものと呼ばれた血。
そして、神殿へ持ち込まれた蒼い観測の目。
レザービトゥルドの閉じた目が、ゆっくり開いた。
湖底の水が震えた。
その瞳は、蛇のものではなかった。
水の底に沈んだ月をいくつも重ねたような瞳。
怒りと飢えだけではない。
記憶があった。
長く、古く、削られた記憶。
『……血が、近づくか』
声は、水そのものを震わせた。
言葉というより、湖底の泥が発した地鳴りに近い。
だが、その中には確かな意味がある。
怪鳥は、首を垂れたまま翼をすぼめた。
『月の名を着せられた血。
だが、月だけではない。
あれは、深く触れる』
レザービトゥルドの胴が、ゆっくりと動いた。
沈んだ柱が軋む。
泥の中に眠っていた小さな骨が浮き上がる。
黒い月紋の上に、鈍い光が走った。
『また、人は名を塗る』
蛇神は呟いた。
『水を月と呼び、血を祝福と呼び、鎖を祈りと呼ぶ』
その声には、怒りがあった。
だが、単純な憎悪ではない。
長く祈られ、長く恐れられ、長く忘れられたものの声だった。
人々は彼を神と呼んだ。
やがて、怪物と呼んだ。
都が白く塗り替えられるころ、彼の神殿は沈められた。
黒い月紋は、月神殿の銀の紋様の下に隠された。
名は削られた。
だが、消えなかった。
湖底で、蛇神はまだ覚えている。
供物の温度を。
祈る者の震える手を。
黒い月の夜、水際で歌われた古い歌を。
そして、自分を封じた者たちの名を。
水の向こうに、人影が現れた。
湖底に立つはずのない人影だった。
黒いローブをまとった男。
水中であるにもかかわらず、裾は揺れない。顔は深いフードに隠れ、声だけが滑るように湖底へ届く。
「目覚めは近いようだな、レ=ザービ=トゥルド」
怪鳥が低く唸った。
レザービトゥルドの瞳が、男へ向く。
『また来たか、名を隠す者』
「名を隠しているのではない。まだ明かす時ではないだけだ」
『人は、そう言って嘘を飾る』
「神も同じだろう」
男は静かに笑った。
その笑いは、水底にいるものとは思えないほど乾いていた。
「お前もかつて、自分の名を飾っていた。湖の守り手。黒月の渡し神。死者の水路を巻くもの。祈りを受ける大蛇。いくつも名を持っていたはずだ」
蛇神の鱗が逆立つように震えた。
湖底に沈んだ祭壇から、黒い泡が立ちのぼる。
『その名を、お前が語るな』
「怒るな。懐かしませているだけだ」
『挑発にしては、下手だ』
「なら、これはどうだ」
ローブの男は、一歩進んだ。
水底の泥に足跡は残らない。
「世界を巻く蛇の夢を、まだ覚えているか?」
湖底が沈黙した。
それまで微かに揺れていた水草も、骨も、柱に絡む藻も、すべてが止まったように見えた。
レザービトゥルドの瞳の奥で、古い光が揺れる。
怒りではない。
恐れでもない。
もっと遠いもの。
眠りの底から、忘れていた巨大な夢が浮かび上がるような光だった。
『……その夢は、私のものではない』
「本当に?」
男の声は甘かった。
「湖の底で丸くなり、失われた祭壇に縛られ、メミスの白い嘘を眺めているだけの小さな蛇。それがお前のすべてか?」
『黙れ』
「かつて、お前は水路を巻くだけの神ではなかった」
レザービトゥルドの胴が、強く動いた。
沈んだ柱が一本、音もなく折れる。
水底に黒い泥が舞い上がり、古い碑文を覆った。
『私は、私だ』
「ならば、なぜ震える?」
男はさらに言った。
「なぜ、あの血に反応した? なぜ、月神殿の底にあるものを求める? なぜ、人間たちが〈血の雫〉と呼ぶものが、お前の眠りを揺らす?」
〈血の雫〉。
その名が水底に落ちると、黒い月紋が微かに光った。
レザービトゥルドの頭が、ゆっくりと持ち上がる。
『あれは、私のものではない』
「そうだな。完全には違う」
男は認めた。
「だが、お前と無関係でもない。月神のものと呼ばれているが、月神だけのものではない。あれは封じだ。血の形をした鍵だ。祈りの名を着せられた鎖だ」
蛇神の喉の奥から、低い音が響いた。
水が震える。
怪鳥が羽を伏せる。
『人間どもは、何をしている』
「お前を封じている」
男はさらりと言った。
「そして、お前だけではないものを封じている」
レザービトゥルドの瞳が細くなる。
『何を望む』
「望む?」
「お前は、願いなく湖底へ来る者ではない」
男は笑った。
「そうだな。では、願いを言おう」
彼は沈んだ祭壇の黒い月紋へ視線を落とした。
「目覚めろ。怒れ。あの白い都が、お前の上にどれだけ美しく嘘を重ねたかを思い出せ」
『私を暴れさせたいのか』
「暴れるだけなら、怪物でもできる」
男の声が少し低くなる。
「私は、神に戻れと言っている」
湖底の水が重くなった。
神に戻れ。
その言葉は、レザービトゥルドの古い傷に触れた。
怪物と呼ばれたもの。
禁忌とされたもの。
討伐対象として記録されたもの。
だが、その前にあった。
祈り。
供物。
黒い月の祭壇。
水辺で額を伏せる人々。
神であった記憶。
『戻れるものか』
蛇神は言った。
その声には、先ほどまでの怒りとは違うものが混じっていた。
疲れ。
長く沈められたものの疲れだった。
『祈りは失われた。神殿は沈んだ。名は削られた。いま地上にいるのは、私を怪物としてしか知らぬ者たちだ』
「なら、新しい祈りを作ればいい」
『祈りは作るものではない』
「人間はいつも作っている」
男は言った。
「神話も、聖都も、月神の血も。必要ならば作り、都合が悪ければ塗り替える。お前だけが律儀に古い祈りの形を守る必要があるのか?」
レザービトゥルドは答えなかった。
湖底の黒い月紋が、ゆっくり脈打つ。
怪鳥が再び低い声で鳴いた。
報告の続きを伝える。
ラーザァー召集。
エイース保持者。
月神殿の会議。
アレクという名で呼ばれる血。
その奥に隠された、もうひとつの名。
ローブの男が、わずかに笑う。
「いい器だ。神殿は月のものと思っている。だが、血は月だけに従わない」
『その子を使うつもりか』
「神殿も使うつもりだ」
男は言った。
「なら、早い者勝ちだろう?」
レザービトゥルドの目に、暗い光が宿った。
『人の子を、鍵にするな』
その言葉は、意外なほど静かだった。
ローブの男は、少し首を傾げた。
「怪物らしくないことを言う」
『私は怪物ではない』
湖底に、重い声が響いた。
『人がそう記しただけだ』
一瞬、男の笑みが深くなった。
「そうだ。その怒りを忘れるな」
彼はゆっくりと後ろへ下がる。
「お前は怪物ではない。だが、地上の者たちはそう呼ぶ。月神殿はお前の神殿を沈め、お前の月を奪い、お前の名を裂いた。さて、蛇神よ」
男の姿が水の中で薄れていく。
「それでも、眠ったままでいるのか?」
レザービトゥルドは動かなかった。
だが、湖底全体が震えていた。
沈んだ柱の影が長く伸びる。
金属化した骨が鳴る。
黒い月紋の奥から、深い光が滲み出す。
怪鳥は祭壇の上で翼を広げた。
レザービトゥルドの巨大な頭が、ゆっくりと上を向く。
湖面のはるか上。
白い都メミス。
月神殿の尖塔。
その中で、ラーザァー召集が始まろうとしている。
蛇神の瞳に、白い神殿の影が映った。
『月の名を騙る者たちよ』
その声は、誰にも届かない。
少なくとも、地上の人間には。
だが、湖底の古い祭壇は震えた。
『私の黒い月を、いつまで踏んでいられると思う』
水底の泥が巻き上がる。
沈んだ神殿柱のあいだから、黒い泡が立ちのぼる。泡は月紋の形を取り、すぐに崩れた。
ローブの男の姿は、もうない。
けれど、その声だけが最後に残った。
「思い出せ、レ=ザービ=トゥルド。お前が見ていたのは、湖だけではない」
その声は水へ溶けた。
怪鳥が飛び立つ。
湖底から、影のまま上昇していく。
レザービトゥルドは、再びとぐろを巻いた。
だが、もう眠ってはいなかった。
巨大な蛇神の瞳は開いたまま、湖面の向こうにある白い聖都を見上げている。
美しい都。
清らかな都。
月神に守られたと語られる都。
その下に、沈められた黒い月がある。
かつて祈られた蛇神がいる。
そして今、月神のものと呼ばれた血が、神殿の中心へ近づいている。
湖底で、古い祭壇が低く鳴った。
それは怒りの音でもあり、祈りの残響でもあった。




