第六節 ― 黒翼の騎獣イーラ
白い廊下へ出た瞬間、アレクは会議の間とは逆の方へ歩き出した。
足音が、石床に吸い込まれる。
神官たちは中央廊下へ集まりつつある。
十三神官、巫女付きの記録役、儀礼補佐の見習いたち。皆、ラーザァー召集の告示に向けて、月神殿の奥へ吸い寄せられていた。
だから、東翼の外廊は人が少なかった。
アレクは胸元に手を当てる。
月章の裏に、母から渡された黒曜石がある。
祈りではなく、猶予。
自分の意思で選ぶための一拍。
その小さな冷たさを感じながら、アレクは歩いた。
逃げるのか。
会議の間へ向かわないということは、そういう意味にもなる。
けれど、まだ逃げるとは決めていない。
ラーザァー召集を拒むのか、受けるのか。
父に従うのか、逆らうのか。
アレクとして行くのか、アレクサンドラとして逃げるのか。
何も決められていない。
ただ、このまま白い廊下を歩いて、神官たちの前に立ち、名を読み上げられることだけはできなかった。
名を読まれる前なら、まだ道はある。
ザヴォラムの言葉が、胸に残っている。
アレクは廊下の突き当たりにある小さな扉を開けた。
冷たい外気が流れ込む。
そこは東翼の外階段だった。
白い石壁の外側に張りつくように作られた細い階段で、神殿の上層から騎獣舎へ直接降りられる。普段、神官候補が使う道ではない。儀礼用の騎獣を扱う者や、急使だけが通る道だ。
アレクは外套の裾を押さえ、階段を駆け下りた。
足元の石は冷たく、ところどころに霜が残っている。
下からは、獣の匂いがした。
乾いた藁。
革紐。
鉄具。
そして、翼を持つ獣特有の、風に近い匂い。
騎獣舎の扉を押し開けると、黒い影がこちらを向いた。
イーラ。
黒翼のバーホース。
馬に似たしなやかな体。
だが、肩からは大きな翼が生えている。羽は黒く、先端にわずかに銀灰の光が混じる。顔は馬よりも精悍で、目は深い琥珀色。額には月神殿の騎獣印が刻まれているが、その印さえ、イーラの野性を完全には抑え込めていない。
イーラはアレクを見ると、鼻を鳴らした。
軽く不満げに。
「悪かった」
アレクは思わず言った。
「しばらく来られなかった」
イーラは返事の代わりに、前脚で床を一度叩いた。
責めている。
少なくとも、アレクにはそう見えた。
厩番の老人が奥から顔を出す。
「アレク様?」
「イーラを借ります」
「今からですか。召集の鐘が鳴っておりますが」
「だからです」
老人は一瞬、何かを言いかけた。
だが、アレクの顔を見て口を閉ざした。
「鞍は軽装で?」
「はい。高空までは上がりません。神殿上層の月輪庭まで」
老人は頷き、手早く鞍を整えた。
イーラはその間も、じっとアレクを見ていた。
その目は、人のように問いかけてくる。
行くのか。
逃げるのか。
飛ぶのか。
アレクは、イーラの首筋に手を当てた。
黒い毛並みは冷えていた。
けれど、その下には強い熱がある。
神殿の白い石とは違う。
記録板とも、月章とも、父の手とも違う。
生きている温度だった。
「少しだけ、飛ばせて」
アレクが囁くと、イーラは低く喉を鳴らした。
許す、と言われた気がした。
鞍にまたがると、身体が自然に思い出した。
手綱の持ち方。
膝の力の抜き方。
翼を広げる前の揺れ。
飛び立つ瞬間、獣の背と自分の息を合わせる感覚。
イーラに乗る時間だけが、アレクにとって自由だった。
神官候補でもない。
月神に選ばれた血でもない。
父の後継でもない。
アレクでも、アレクサンドラでもない。
ただ、空を飛ぶひとりの人間でいられる。
「行こう、イーラ」
アレクが言うと、イーラは騎獣舎の外へ駆け出した。
白い石の滑走路。
神殿東翼から突き出した飛翔台。
その先は、空だった。
イーラが翼を広げる。
黒い羽が朝の光を受け、銀灰に光った。
一歩。
二歩。
三歩。
石の端を蹴る。
体が浮いた。
地面が離れる。
アレクの胸から、息が一気に抜けた。
白い神殿が下へ沈む。
石壁が遠ざかる。
庭も、廊下も、父の訓練場も、母の部屋も、小さな模型のように下へ流れていく。
風が顔を打った。
冷たい。
だが、痛みではなかった。
生きている冷たさだった。
イーラは一度大きく羽ばたき、上昇気流を掴む。
アレクは身体を伏せ、首筋に沿うように姿勢を低くした。
風の音が耳元で鳴る。
神殿の鐘も、神官たちの声も、ラーザァー召集も、しばらく遠くなった。
アレクは目を閉じかけた。
このまま飛んでいけたら。
メミスの防壁を越え、白い神殿を越え、父の名簿も、神官団の記録も、すべて置いていけたら。
だが、イーラは逃亡のために飛んでいるわけではない。
今はまだ。
アレクは目を開けた。
メミスの都が、眼下に広がっていた。
美しい都だった。
それは、否定できなかった。
丘の上の月神殿を中心に、白い街路が放射状に伸びている。家々の屋根は淡い灰青。広場には噴水があり、水面に朝の月が映っている。防壁の外には、豊かな農地が広がり、羊の群れが白い点のように動いていた。
ブドウ畑。
オリーブの並木。
白い防壁。
丘を抱くような街路。
上空から見れば、メミスはまるで祈りそのものだった。
月神に捧げられた聖都。
清らかで、整い、美しい。
けれど、アレクの胸の奥で、エイースが微かに軋んだ。
美しすぎる。
整いすぎている。
イーラが旋回する。
その角度で見た瞬間、アレクは気づいた。
街路が、ただ便利に配置されているのではない。
月神殿を中心に、白い道が満月の輪を描き、そこから細い路地が月光の線のように伸びている。神官宿舎、祈祷広場、巡礼者の門、貯水池、墓地、鐘楼。それらの位置が、上空から見ると月相の紋様を形作っていた。
新月。
上弦。
満月。
下弦。
訓練場の床に刻まれていた月相線と、同じ構造。
いや、もっと大きい。
都市全体が、巨大な月相陣になっている。
アレクは手綱を握る手に力を込めた。
イーラが耳を伏せる。
「ごめん」
アレクは息を整える。
見間違いではない。
神殿を中心に、街そのものが構文を描いている。
道は祈祷線。
広場は節点。
門は封じの口。
塔は月光を受ける針。
メミスの美しい街路は、巨大な封印陣だった。
人々は、その上で暮らしている。
朝市へ向かう女たち。
水瓶を運ぶ子ども。
神殿へ祈りに向かう老人。
羊毛を積んだ荷車。
誰も気づかない。
自分たちの歩く道が、祈りであり、封じであり、何かを抑え込むための線であることを。
アレクの血が、ぞわりと反応した。
月神の構文。
それだけではない。
街の下に、別の線がある。
白い街路の下。
月の紋様のさらに下。
黒く、古く、閉じられたもの。
今朝、訓練場で見た亀裂に似ていた。
見つけた。
耳の奥で、あの声が蘇る。
アレクは胸元の黒曜石を押さえた。
一拍。
母がくれた猶予が、血の反応をほんのわずか遅らせた。
その一拍で、アレクは自分の意思を取り戻す。
見るな。
今は、深く見てはいけない。
血に引かれて、街の下を覗いてはいけない。
アレクは視線を上げた。
空を見る。
白い雲の切れ間に、薄い昼の月が浮かんでいた。
神殿では、あの月がすべての中心だと教えられてきた。
月神が都を守り、月神の血が神官を選び、月神の構文がメミスを清めるのだと。
だが、母は言った。
あなたは月神に選ばれたのではありません。
あなたの血を、月神のものだと呼んだ人たちがいるだけです。
では、この都も同じなのかもしれない。
月神に守られた聖都なのではない。
何かを月神の名で覆い、祈りと白い石で封じている都。
上空から見れば美しい。
けれど、その美しさは、閉じるための美しさでもあった。
イーラが低く鳴いた。
進路の先に、月神殿の中央高殿が見えている。
ラーザァー召集が行われる会議の間は、その下だ。
だが、高殿の上には月輪庭がある。騎獣が着地するための白い円形庭。儀礼の急使や、上位神官だけが使う場所だ。
アレクがそこへ降りれば、会議の間へはすぐだ。
名を読まれる前に、間に合う。
だが、同時に、逃げる道もまだ見えていた。
イーラは、メミスの外へ向かう風も掴める。
防壁を越えれば、北の街道がある。
さらに先には、白霧陸峡。
シェリグラートへ続く道。
一度空に出てしまえば、神殿の廊下ほど簡単には閉じ込められない。
アレクは手綱を握った。
イーラは、どちらへでも行ける姿勢で翼を広げていた。
まるで、選べと言っているようだった。
神殿へ降りるか。
都を出るか。
アレクは唇を噛んだ。
母の部屋で、逃げなさいと言われた。
ザヴォラムは、名を読まれる前なら道があると言った。
シルハインドは、名前より先に君がいると言った。
では、自分は。
今、どこへ行きたいのか。
その問いに、すぐ答えは出なかった。
だが、ひとつだけ確かだった。
このまま何も知らないまま、台座に上がることはできない。
父の望む通りに名を読まれ、血を差し出し、〈血の雫〉へ近づけられることはできない。
神殿へ行くとしても、従うためではない。
確かめるために行く。
自分の名を、血を、意思を、彼らに渡さないために。
「イーラ」
アレクは静かに言った。
「月輪庭へ」
イーラは一度だけ首を振った。
不満か、確認か。
それから、黒い翼をたたみ、神殿へ向かって滑空した。
風が鋭くなる。
白い高殿が近づく。
月輪庭の銀線が見える。
そこにもまた、封印陣の一部である月相紋が刻まれていた。
アレクはそれを見て、もう美しいだけとは思わなかった。
美しいものほど、何かを隠せる。
聖なる都とは、神が住まう都ではない。
神の名を使う者たちが、最も美しく嘘を塗り固めた場所である。
どこかで、そんな言葉が胸をよぎった。
誰の声かはわからない。
けれど、その言葉はメミスの空によく似合っていた。
イーラが月輪庭に降り立つ。
黒い翼が大きく広がり、白い石庭に影を落とした。
神官見習いたちが驚いて振り返る。
儀礼係の一人が、慌てて駆け寄ってきた。
「アレク様、こちらからお入りになるとは――」
「会議の間へ行きます」
アレクは鞍から降りた。
足が石庭に触れる。
神殿の冷たさが戻る。
だが、さっきまでとは違った。
空を飛んだあとの身体には、まだ風が残っている。
イーラの背で感じた自由が、胸の奥に残っている。
アレクは神殿の扉へ向かった。
イーラが背後で低く鳴いた。
振り返ると、黒翼の騎獣は琥珀色の目でアレクを見ていた。
逃げるなら、まだ飛べる。
そう言っているようだった。
アレクは小さく頷いた。
「ありがとう」
その一言だけを残し、彼は扉を開けた。
白い神殿の内部から、鐘の音が響く。
ラーザァー召集の告示が始まろうとしていた。
アレクは、胸元の黒曜石に触れた。
一拍の猶予。
その一拍を失わないように。
アレクという名で呼ばれる前に。
アレクサンドラという名を奪われる前に。
血を月神のものと決めつけられる前に。
彼は、神殿の奥へ歩き出した。




