第五節 ― 母の部屋
神殿会議の間へ向かう途中で、アレクは呼び止められた。
白い廊下の角に、年配の侍女が立っていた。
母付きの侍女だった。
彼女は深く頭を下げると、声を低くした。
「奥方様が、お呼びです」
アレクは足を止めた。
背後で、ザヴォラムの足音も止まる。
「今ですか」
「はい。会議の間へ入る前に、少しだけでも、と」
アレクは迷った。
ラーザァー召集。
神官長。
十三神官。
名を読み上げられる前なら、まだ道はある。
ザヴォラムの言葉が胸の奥で鳴っている。
会議の間へ行かなければならない。
父に遅れを咎められる。
召集告示の前に席へ着いていなければ、神官たちはまた何かを記録するだろう。
不服従。
動揺。
血の不安定。
神託反応。
何でも、彼らは名前をつける。
アレクは一瞬、ザヴォラムを見た。
彼は冷たい顔で侍女を見ていた。
「会議開始まで、まだ鐘ひとつ分ある」
ザヴォラムが言った。
「行け」
アレクは驚いた。
「いいのですか」
「俺に許可を求めるな」
彼はいつもの調子で返した。
だが、すぐに低く付け加える。
「母親に会えるうちに会っておけ」
その言葉は、ひどく静かだった。
アレクは何も言えなくなった。
侍女に案内され、彼は廊下を折れた。
神殿の奥へ進む。
白い石廊は、会議の間へ向かう主廊とは違い、少しだけ生活の匂いがあった。花瓶に活けられた月白草。薄い香油の気配。足音を消すために敷かれた青灰色の織布。
そこは、神殿の中にありながら、わずかに人の温度が残る場所だった。
母の部屋は、月神殿の東翼にあった。
窓の外には、白い庭の一部と、遠くメミスの防壁が見える。神官長の妻として与えられた部屋は決して狭くない。だが、アレクにはいつも、そこが美しい鳥籠のように見えた。
白い壁。
薄い青の帳。
月花を刺繍した寝椅子。
香炉から立ちのぼる静かな煙。
その中央に、母がいた。
彼女は窓辺の椅子に座っていた。朝の光が横顔を照らしている。若い頃は神殿中で噂になるほど美しかったと聞くが、今の母は、柔らかい美しさの中に消耗の影を宿していた。
顔色は白く、手首は細い。
けれど、その瞳だけは、驚くほど深かった。
アレクを見ると、母は微笑んだ。
「アレクサンドラ」
その名が、部屋に落ちた。
アレクは、足を止めた。
胸の奥が痛む。
庭でシルハインドに呼ばれたときとは違う。
母の声で呼ばれるその名は、もっと古く、もっと柔らかく、そして逃げ場がなかった。
「母上」
アレクは、硬い声で言った。
「その名で呼ばないでください」
母の微笑みが、少しだけ翳った。
「ここには、私たちしかいません」
「それでもです」
「アレクサンドラ」
「やめてください」
思ったより強い声が出た。
侍女がわずかに身じろぎする。
母は手で下がるよう示した。侍女は静かに退室し、扉を閉めた。
部屋に、二人だけが残る。
アレクは拳を握っていた。
「私は、アレクです」
母はしばらく彼を見つめていた。
「そう呼ばれたいのですか」
「そう呼ばれなければなりません」
「それは、答えではありません」
その言葉に、アレクは息を詰めた。
母は優しい。
いつもそうだった。
けれど、その優しさは弱さではない。
母は人の心の奥にあるものを、静かに見てしまう。
それが、今は苦しかった。
「会議の前に、何の用ですか」
アレクはあえて事務的に言った。
「ラーザァー召集のことでしょうか」
母の顔から、かすかな血の気が引いた。
やはり知っている。
アレクはそう思った。
「聞いたのですね」
「ザヴォラムから」
「そう」
母は目を伏せた。
「彼は、不器用だけれど、嘘をつかない子です」
「母上は、知っていたのですか」
問いは、思ったより鋭く出た。
母はすぐには答えなかった。
窓の外で、白い鳥が一羽、神殿の屋根を越えて飛んでいく。
その影が、部屋の床を横切った。
「ええ」
母は答えた。
「昨夜、あなたの父から聞きました」
「なぜ教えてくれなかったのです」
「あなたに会わせてもらえなかったからです」
「父上が?」
母は頷いた。
「今朝の訓練で反応を見るまでは、余計な感情を入れたくない、と」
余計な感情。
アレクは笑いそうになった。
母に会うこと。
心配されること。
自分の名を呼ばれること。
それらは父にとって、訓練の邪魔になる感情なのだ。
「私は、父上の実験道具ですか」
言ってから、後悔した。
母にぶつけるべき言葉ではなかった。
だが、もう遅い。
母の表情が痛みに歪む。
「いいえ」
その声は、静かだった。
「あなたは、道具ではありません」
「父上はそう見ていません」
「知っています」
アレクは母を見た。
「知っているなら、なぜ止めないのですか」
母の手が、膝の上で強く握られた。
その指先が白くなる。
「止められるなら、止めています」
「母上は神官長の妻です」
「妻だからこそ、できないことがあります」
「言い訳ですか」
その言葉は残酷だった。
自分でもわかった。
けれど、止められなかった。
母は深く息を吸った。
「そう聞こえるでしょうね」
アレクは唇を噛んだ。
責めたいわけではなかった。
けれど、誰かを責めなければ、胸の中にあるものが溢れてしまいそうだった。
父には言えない。
神官団には言えない。
ザヴォラムには強がってしまう。
シルハインドには、まだすべてを話せない。
だから、母の前でだけ、言葉が傷になって出ていく。
母はそれを受け止めていた。
ただ優しくではなく、痛みを知っている者として。
「アレク」
母は、今度はその名で呼んだ。
「私はあなたを守れなかった」
アレクは何も言えなかった。
「あなたの名も。身体も。血も。あなたがあなたでいるための場所も」
「……やめてください」
「でも、今言わなければ、もう言えないかもしれない」
その言葉に、アレクの胸が冷えた。
「ラーザァーは、それほど危険なのですか」
母は答える前に、窓の外を見た。
白い神殿の屋根。
月神の尖塔。
その奥に、白い防壁と豊かな農地。
表向きには美しい聖都。
だが、鳥の影が白壁を横切った一瞬、アレクには、壁の奥に黒い亀裂のようなものが見えた気がした。
「ラーザァー召集は、月神への奉仕として告げられます」
母は言った。
「けれど、近年のラーザァーは、古い形ではありません」
「古い形?」
「本来は、月神の祈りを継ぐ者を集め、神殿と都の守護を確認する儀礼でした。血を測るためのものではなかった」
「今は違うのですか」
母は頷いた。
「今は、エイース保持者を集めるために使われています」
「なぜ」
「〈血の雫〉があるからです」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、空気が変わった。
アレクの胸の奥で、エイースが微かに震えた。
血の雫。
名だけは聞いたことがある。
月神殿の最奥に封じられた、古い聖遺物。
月神ムーミストの血が結晶したものとも、初代巫女の心臓から滴った祈りとも言われる。神官学校では、神話の一部としてしか教えられない。
だが、母の声には神話を語る響きがなかった。
もっと現実的で、もっと危険なものとしてその名を口にしている。
「〈血の雫〉は、本当に存在するのですか」
「ええ」
「月神の血なのですか」
母は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「違うのですね」
アレクは言った。
母は目を伏せる。
「少なくとも、神官団が語るような単純なものではありません」
「では、何なのですか」
「私にも、すべてはわかりません。ただ、あれは月神の名で覆われていますが、もっと古いものと繋がっています」
「古層神格……?」
母は顔を上げた。
驚きと恐れが混じった目だった。
「その言葉を、どこで」
「訓練中に、感じました。月神の構文ではないものが、下にありました」
母の顔が青ざめる。
「見たのですね」
アレクは頷いた。
「黒い亀裂のようなものを。そして、声を」
「何と言っていました」
アレクは迷った。
だが、ここでは嘘をつきたくなかった。
「見つけた、と」
母の手が震えた。
彼女は立ち上がり、アレクへ近づいた。
そして両手で、アレクの肩を掴んだ。
その力は、思ったより強かった。
「よく聞いて、アレク」
母の声は、これまでで最も真剣だった。
「あなたのエイースは、普通ではありません」
「父上もそう言っています。濃い血だと」
「違う」
母は首を振った。
「濃い、というだけではないのです。あなたの血は、月神の構文だけに反応しているのではありません」
アレクは動けなかった。
「断絶神格。古層神格。名を持たないもの。名を失ったもの。名を奪われたもの。そうした構文にまで、あなたの血は触れてしまう」
「なぜ、そんなことを知っているのですか」
母は一瞬、口を閉ざした。
「私の家系にも、同じ血がありました」
アレクは息を呑む。
「母上の?」
「ええ。けれど、私は弱かった。反応は薄く、神官団にとって価値はありませんでした。だから、私は守られた。いいえ、見逃されたのです」
その言葉は、重かった。
見逃された。
母は自分を、救われたとは言わなかった。
「あなたは違う」
母は続けた。
「あなたの血は強すぎる。月神殿はそれを祝福と呼びました。あなたの父は、それを家の誉れと考えました。神官団は、それを儀礼に必要な器と見ました」
アレクの喉が渇く。
「では、私は何なのですか」
母は、まっすぐアレクを見た。
そして言った。
「あなたは月神に選ばれたのではありません」
部屋の空気が止まった。
「あなたの血を、月神のものだと呼んだ人たちがいるだけです」
その言葉は、刃のようではなかった。
むしろ、長い間体に刺さっていた棘を、ようやく抜くような痛みだった。
アレクは息ができなかった。
月神に選ばれた血。
幼い頃から聞かされてきた言葉。
父が誇りとし、神官たちが祈りに混ぜ、神殿がアレクを縛るために使ってきた言葉。
それが、崩れる。
選ばれたのではない。
呼んだ者たちがいるだけ。
名づけた者たちがいるだけ。
「では、私は……」
声が震えた。
「私の痛みは、祝福ではないのですか」
母の目に涙が浮かんだ。
「違います」
その一言で、アレクの中の何かが折れそうになった。
祝福だから耐えなければならないと思っていた。
選ばれた血だから痛むのだと思っていた。
神官になるために必要な苦しみなのだと。
そうでなければ、耐えられなかった。
でも、違う。
この痛みは、祝福の証ではない。
誰かが祝福と呼んだだけのもの。
アレクは、母の手から身を引いた。
「なぜ、もっと早く言ってくれなかったのです」
母は何も言えなかった。
「私はずっと、月神に選ばれたから苦しいのだと思っていました。神官になるために必要だから、父上に従ってきました。でも、違うなら――」
言葉が詰まる。
怒りなのか、悲しみなのか、わからない。
「違うなら、私は何のために」
母は、アレクへ手を伸ばしかけた。
だが、途中で止めた。
触れてよいのか迷っているようだった。
その躊躇いが、アレクには痛かった。
「あなたを守るために、沈黙したつもりでした」
母は言った。
「私が知っていることを口にすれば、神官団は私を遠ざける。あなたのそばから引き離す。そうなれば、私は本当に何もできなくなる」
「今も、何もできていないではありませんか」
アレクの声は鋭かった。
母は目を閉じた。
「ええ」
それを否定しなかった。
そのことが、かえってアレクを苦しくさせた。
責めれば、母は言い訳をしてくれると思っていた。
そうすれば、もっと怒れた。
けれど母は、自分の無力を知っている。
その上で、ここにいる。
「ラーザァーに行ってはいけません」
母は言った。
アレクは顔を上げた。
「母上が、それを言うのですか」
「ええ」
「父上に逆らうことになります」
「わかっています」
「神官団にも」
「わかっています」
「では、なぜ今まで」
言いかけて、アレクは止まった。
母の目を見たからだ。
そこには、遅すぎた人の痛みがあった。
もっと早く言うべきだった。
もっと早く守るべきだった。
もっと早く、逃がすべきだった。
その後悔を、母はすでに何度も自分に突きつけてきたのだろう。
アレクは、怒りを完全には手放せなかった。
けれど、それ以上言うこともできなかった。
「〈血の雫〉に近づけば、何が起きるのですか」
アレクは尋ねた。
母は声を落とした。
「あなたの血が、共鳴します」
「月神の血と?」
「そう呼ばれているものと」
「共鳴すると?」
「あなたは、月神殿が求める器になる。けれど、それはあなた自身が神に近づくという意味ではありません」
母はアレクの胸元を見た。
月章。
父がつけさせた銀の印。
「あなたの血を通して、神殿は何かを呼ぼうとしている」
アレクの背筋に寒気が走った。
「月神を?」
母は首を横に振った。
「彼らは、そう信じているのかもしれません」
「実際には?」
「私にはわかりません。ただ、あなたの血が反応するものは、月だけではない。だから危険なのです」
断絶神格。
古層神格。
名を持たないもの。
名を失ったもの。
そして、訓練中に聞こえた声。
見つけた。
アレクは胸を押さえた。
「私は、どうすれば」
母は棚の引き出しから、小さな布包みを取り出した。
淡い灰色の布。
月神殿の白ではない。
もっと古い、色を失った布だった。
「これを」
アレクは受け取った。
中には、小さな黒曜石の欠片が入っていた。表面には細い傷のような線がある。文字ではない。だが、ただの石でもない。
「これは?」
「私の家に伝わっていたものです。エイースを消すことはできません。でも、反応を一拍遅らせることはできる」
「お守りですか」
「祈りではなく、猶予です」
母は言った。
「あなたが、自分の意思で選ぶための一拍」
アレクは黒曜石を見つめた。
一拍。
ほんの短い時間。
けれど、それがあれば、血が勝手に反応する前に、自分が決められるのかもしれない。
「母上」
アレクは、やっと絞り出すように言った。
「私は、逃げてもいいのですか」
母の顔が歪んだ。
それは、ずっと聞きたかった問いだった。
神官になるために育てられた。
父に従うために名を与えられた。
月神に選ばれた血として扱われた。
その自分が、逃げてもいいのか。
母は、アレクの頬に手を伸ばした。
今度は、触れた。
冷たい手だった。
けれど、その手は震えていた。
「逃げなさい」
母は言った。
「生きるために。あなたがあなたでいるために」
アレクの目に、熱いものが込み上げた。
だが、泣かなかった。
泣けば、戻れなくなる気がした。
「でも、母上は」
「私は残ります」
「そんな」
「私が一緒に逃げれば、すぐに追われます。あなたを庇う者が、神殿の内側に一人もいなくなる」
「それでも」
「アレクサンドラ」
母は、もう一度その名で呼んだ。
今度は、アレクは拒まなかった。
母は続けた。
「私を置いていくことを、罪にしないで」
その言葉は、あまりにも優しかった。
そして、あまりにも残酷だった。
アレクは唇を震わせた。
「私は……」
「あなたはアレクでもあります。アレクサンドラでもあります。そして、そのどちらかだけでなく、あなた自身です」
母の声は、シルハインドの言葉と重なった。
名前より先にいる。
「誰があなたをどう記録しても、それだけは忘れないで」
扉の外で、鐘が鳴った。
神殿会議の始まりを告げる、最後の鐘。
時間が来た。
アレクは黒曜石を握りしめた。
母が、そっと彼の髪に触れる。
「行きなさい」
「会議へ?」
母は首を横に振った。
「あなたが選ぶ場所へ」
アレクは、母を見た。
白い部屋。
青い帳。
月花の刺繍。
鳥籠のような美しい場所。
ここに母を置いていく。
その事実が、胸を裂くようだった。
けれど、初めてわかった。
母はただ優しい人ではない。
何も知らずに微笑んでいた人でもない。
知っていた。
恐れていた。
抗えなかった。
それでも、最後の一拍をアレクに渡そうとしている。
アレクは、黒曜石を胸元にしまった。
月章の裏側へ。
父に見えない場所へ。
「母上」
「何?」
アレクは、少し迷った。
それから、小さく言った。
「今だけは、その名で呼んでください」
母の瞳に涙が光った。
彼女はアレクを抱きしめた。
強く、けれど壊さないように。
「アレクサンドラ」
母は囁いた。
「私の子。月神の器ではなく、誰の所有物でもない、私の大切な子」
アレクは目を閉じた。
その名が、胸の奥で静かに息をした。
扉の向こうで、神官の足音が近づいてくる。
時間はもうない。
アレクは母から離れた。
泣かないまま、深く頭を下げる。
そして、扉へ向かった。
取っ手に手をかける前に、母が最後に言った。
「忘れないで。あなたの血を月神のものだと呼んだ人たちがいるだけ。あなた自身を、彼らに渡してはいけません」
アレクは頷いた。
扉を開ける。
白い廊下の冷たい空気が流れ込んだ。
その向こうでは、神殿がアレクという名を読み上げる準備をしている。
だが、胸の奥には、母の声で呼ばれたもうひとつの名があった。
アレクサンドラ。
その名は、もう完全には隠れなかった。
そして月章の裏で、黒曜石が小さく冷たく光っていた。




