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第四節 ― 神殿からの召集

白い廊下は、庭よりも冷たかった。


外では朝の光が白壁に薄く降りている。

けれど神殿の内側に入ると、その光は急に遠ざかった。磨かれた石床、月相を刻んだ柱、沈黙を守る神官見習いたち。すべてが整いすぎていて、人の息だけが余計なもののように感じられる。


アレクは、月読室へ向かっていた。


父に呼ばれた以上、行かないという選択はない。


胸の奥には、まだ訓練の痛みが残っている。

指先には青白い構文痕。

そして、庭でシルハインドに呼ばれたもうひとつの名が、消えないまま残っていた。


アレクサンドラ。


その名を思うたびに、胸が熱くなり、同時に怖くなる。


神殿の中でその名は許されない。

ここで認められているのは、アレクという名の後継者だけだ。


角を曲がったところで、誰かが廊下の中央に立っていた。


ザヴォラム=ヴェルクライン。


アレクとシルハインドの兄弟弟子にあたる青年だった。


背は高く、神官見習いの白衣を乱れなく着ている。肩にかかる外套も、帯も、月章も、少しの歪みもない。神殿の規律がそのまま人の姿を取ったような男だ。


その目は冷たい。


少なくとも、アレクにはいつもそう見えた。


「遅い」


ザヴォラムは開口一番、そう言った。


アレクは足を止める。


「呼び出しを受けて、すぐに来ました」


「庭で無駄話をしていたのだろう」


アレクの胸が小さく跳ねた。


「見ていたのですか」


「神殿の庭で、人に見られない会話などあると思うな」


その言葉に、アレクは唇を引き結んだ。


聞かれていたのだろうか。

アレクサンドラという名を。


だが、ザヴォラムの表情からは何も読めない。


彼はいつもそうだ。


冷たい言葉を投げる。

余計な説明はしない。

相手が傷ついたかどうかにも関心がないような顔をする。


だからアレクは、彼が自分を嫌っているのだと思っていた。


神殿の規律を乱す存在。

男として育てられた、曖昧な後継。

濃すぎるエイースのせいで特別扱いされる、いびつな弟弟子。


ザヴォラムにとって、自分はそういう存在なのだろうと。


「月読室へ向かうところです」


アレクは言った。


「神官長から呼び出しを受けています」


「知っている」


「なら、通してください」


ザヴォラムは動かなかった。


廊下の中央に立ったまま、アレクを見下ろしている。


「今朝、下層構文に反応したそうだな」


アレクの指がわずかに動いた。


「父上から?」


「神官長は、必要なことはすぐ共有する」


「必要なこと、ですか」


「お前の血に関することは、神殿にとって必要な情報だ」


その言葉は鋭かった。


アレクの胸に、冷たい針のように刺さる。


お前の血。


ザヴォラムも同じだ。


父と同じように、アレク自身ではなく血を見る。


そう思った瞬間、アレクの声が少し硬くなった。


「私の血がどう反応しようと、訓練の範囲内です」


「本当にそう思っているなら、愚かだ」


アレクは顔を上げた。


「何が言いたいのですか」


ザヴォラムは、すぐには答えなかった。


廊下の奥から、神官たちの低い声が聞こえる。

月読室ではない。さらに奥、神殿会議の間の方角だ。


空気がいつもと違う。


神官たちの足音が多い。

見習いたちが壁際に控え、誰も無駄口をきかない。

白い神殿全体が、何かの儀式を前に息を止めているようだった。


ザヴォラムは低く言った。


「ラーザァー召集が出た」


その言葉を聞いた瞬間、アレクの背筋に冷たいものが走った。


「ラーザァー……」


口にしただけで、廊下の白さが変わったような気がした。


ラーザァー。


月神殿の古い召集制度。

表向きは、月神に選ばれた血を持つ者たちを集め、神殿の守護と祈祷強化のために行う神聖な儀礼とされている。


けれど、見習いたちの間では別の噂があった。


ラーザァーに呼ばれた者は、戻ってきても変わる。

以前よりも静かになり、よく笑わなくなり、夜の礼拝で長く立ち尽くすようになる。

中には、戻ってこない者もいる。


公式には、巡礼任務や外部神殿への派遣として処理される。


神殿の記録は、いつも整っている。


整いすぎている。


「誰が呼ばれたのですか」


アレクは尋ねた。


声が震えないようにした。


ザヴォラムは、アレクを見た。


その沈黙だけで、答えはわかった。


「私ですか」


「お前を含む」


「含む?」


「エイース保持者数名。月読候補。祭儀補助者。血統確認対象」


「血統確認対象……」


アレクはその言葉を繰り返した。


自分が、人ではなく分類名にされたようだった。


「父上は、知っているのですか」


「神官長が進めた」


アレクは呼吸を忘れた。


父が。


やはり。


今朝の下層反応。

訓練記録。

アレクの血の濃さ。

それを確認した父は、すぐにラーザァー召集へ繋げたのだ。


アレクは一瞬、庭へ戻りたいと思った。


月桂樹の下。

シルハインドの旅話。

アレクサンドラという名が、まだ小さく息をしていた場所へ。


だが、廊下は戻る道を許さない。


白い石床は、月読室へ向かってまっすぐ続いている。


「行けばいい」


ザヴォラムが言った。


冷たい声だった。


「神官長の望み通りに。神殿の望み通りに。月神に選ばれた血として、立派に台座へ上がればいい」


アレクは彼を見た。


「あなたは、私を馬鹿にしているのですか」


「事実を言っている」


「私は台座に上がるために生きているわけではありません」


「なら、そう言えばいい」


「言えると思いますか」


「思わない」


即答だった。


アレクの胸に怒りが湧いた。


「なら、なぜそんなことを言うのです」


ザヴォラムは表情を変えない。


「言えないなら、少なくとも自分で理解しておけ。お前がこれから連れていかれる場所が、祝福の場などではないことを」


アレクは息を呑んだ。


その言葉は、冷たい嘲りではなかった。


警告だった。


そう気づくまでに、一拍かかった。


「……あなたは、ラーザァーを知っているのですか」


ザヴォラムは答えなかった。


視線を少しだけ逸らす。


その横顔に、ほんのわずかな影が差した。


アレクは初めて思った。


ザヴォラムは、自分を嫌っているのではないのかもしれない。


少なくとも、ただ嫌っているだけではない。


彼は知っている。

何かを。


ラーザァー召集の中で何が行われるのか。

エイース保持者がどのように扱われるのか。

神殿が「月神に選ばれた血」と呼ぶものを、実際にはどう利用するのか。


だが、それを言えない。


言えば、神殿に逆らうことになる。

父に、神官長に、制度そのものに背くことになる。


ザヴォラムは、その境目に立っている。


そして、不器用な言葉でしかアレクを止められない。


「ザヴォラム」


アレクは、少し声を低くした。


「あなたは、私に行くなと言いたいのですか」


彼はすぐに答えた。


「言っていない」


「では、行けと言いたいのですか」


「それも言っていない」


「では、何を」


ザヴォラムの眉がかすかに動いた。


苛立ちではない。


苦しさに近かった。


「お前は、自分が何に使われるのかも知らずに、いつも差し出される」


アレクは黙った。


「訓練。儀式。月読室。下層反応。ラーザァー。名目はいくらでもある。だが、どれも同じだ。お前の血が必要だから呼ばれる」


言葉は厳しい。


だが、言っていることは父よりもずっとアレク自身に近かった。


「それをわかった上で行け」


ザヴォラムは言った。


「何も知らない顔で台座に上がるな。祈りの場だと思って膝をつくな。月神の祝福だと信じて、血を渡すな」


アレクの喉が詰まった。


「なぜ、あなたがそんなことを」


ザヴォラムはまた黙った。


その沈黙の奥で、何かが閉ざされている。


かつて彼自身も、何かを見たのかもしれない。

あるいは、大切な誰かがラーザァーに呼ばれたのかもしれない。

戻らなかったのかもしれない。


アレクにはわからない。


けれど、ザヴォラムの冷たさが、初めて別の形に見えた。


氷ではない。


火を隠すための石蓋のようだった。


「シルハインドには話しましたか」


ザヴォラムが突然言った。


アレクは少し身構える。


「何をですか」


「ラーザァー召集を」


「まだです。今、聞いたばかりですから」


「巻き込むな」


鋭い言葉だった。


「彼は関係ありません」


「関係ない者ほど、神殿は使いやすい」


アレクの脳裏に、シルハインドの首元で光った蒼い魔導具が浮かんだ。


ソーサイアの名を騙った、観測の目。

本人は知らずに持ち込んだ、何かの道具。


アレクの胸が痛んだ。


「何か知っているのですか」


「知らない」


ザヴォラムは答えた。


しかし、その目が一瞬だけアレクの背後へ向いた。


庭の方角。


シルハインドがいる方角。


彼も気づいているのか。


シルハインドが何かを持ち込んだことに。

あるいは、彼が神殿に利用される可能性に。


「彼は、悪くありません」


アレクは思わず言った。


ザヴォラムの目が細くなる。


「悪くないことと、利用されないことは違う」


その言葉は、ルオがエリスに告げたものとどこか似ていた。


アレクには、それを知る由もない。


だが、その響きは胸に残った。


悪くないことと、影響がないことは違う。

知らないことと、罪がないことは違う。

そして、罪がない者ほど、悲劇に近い場所へ置かれることがある。


「シルハインドには、近づくなと言うつもりですか」


「言って聞く男なら苦労しない」


ザヴォラムは冷たく言った。


その言い方に、ほんの少しだけ兄弟弟子らしい実感があった。


アレクは、こんな状況なのに少しだけ笑いそうになった。


「確かに」


「笑うな」


「笑っていません」


「顔に出ている」


「あなたこそ、心配しているのが顔に出ています」


ザヴォラムの表情が固まった。


ほんの一瞬。


それから、彼はいつもの冷たい顔に戻った。


「思い上がるな。お前が潰れれば、神殿の後処理が面倒になるだけだ」


「そういうことにしておきます」


アレクは言った。


自分でも意外なほど、穏やかな声だった。


ザヴォラムは少し不機嫌そうに目を逸らした。


「月読室ではなく、会議の間へ行け」


「月読室ではないのですか」


「予定が変わった。神官長、十三神官、巫女付きの記録役が集まっている。ラーザァー召集の告示がある」


「十三神官まで?」


アレクの心臓が強く打った。


それは、単なる個別訓練ではない。

正式な神殿決定だ。


一度告示されれば、拒むことはほとんど不可能になる。


「対象者は、そこで名を読み上げられる」


ザヴォラムは言った。


「名を読まれた者は、召集を受けたものとして記録される」


名を読まれる。


アレクは、その言葉に別の痛みを感じた。


どの名で。


アレクとして。


もちろん、そうだ。


神殿の台帳にある名。

父が与えた名。

男の後継として扱うための名。


アレク。


アレクサンドラではない。


そのことに安堵するべきなのか、悲しむべきなのか、彼にはわからなかった。


「ザヴォラム」


「何だ」


「もし、名を読まれたら」


声が少し震えた。


「もう逃げられませんか」


ザヴォラムは、すぐには答えなかった。


廊下の奥で、鐘が鳴った。


低い、銀の鐘。


神殿会議の始まりを告げる音。


一つ。

二つ。

三つ。


ザヴォラムは、その音を聞いてから言った。


「逃げるなら、名を読まれる前だ」


アレクは息を止めた。


「それは、逃げろという意味ですか」


「言っていない」


「またそれですか」


「俺は言えない」


その声は、初めて苦かった。


ザヴォラムはアレクを見た。


冷たい目の奥に、抑え込まれた感情があった。


「だが、お前は聞いた。名を読まれる前なら、まだ道はある」


アレクの胸が激しく鳴る。


逃げる。


そんな選択を、考えたことがなかったわけではない。

だが、それは夢の中だけのことだった。


神殿を出る。

父のもとを離れる。

アレクという名も、神官職も、月神の血も、すべて置いていく。


不可能だ。


そう思う。


けれど、名を読まれる前なら、まだ道はある。


その言葉は、彼の胸に小さな亀裂を作った。


怖い亀裂だった。

だが、息が通る亀裂でもあった。


「私は……」


言いかけたとき、廊下の向こうから神官見習いが駆けてきた。


「アレク様。ザヴォラム様。会議の間へ。神官長がお待ちです」


アレクは顔を上げた。


もう、猶予はない。


ザヴォラムは一歩横へ退いた。


道を開ける。


だが、すれ違いざまに、彼は低く言った。


「立てなくなったら、倒れる前に膝をつけ」


アレクは足を止めかけた。


「それは?」


「倒れれば、神殿は“神託反応”と記録する。膝をつけば、“辞退の姿勢”に見える」


冷たい助言だった。


だが、それは明らかに助けだった。


アレクは、小さく頷いた。


「覚えておきます」


「忘れるな」


ザヴォラムは言った。


「お前は血ではない。名でもない。神殿がどう記録しても、それだけは間違えるな」


アレクは息を呑んだ。


それは、シルハインドの言葉に似ていた。


名前より先にいる。


ザヴォラムもまた、違う言葉で同じ場所を指している。


不器用に。

冷たく。

まるで突き放すように。


それでも、彼はアレクが潰される未来を見て、そこから少しでも遠ざけようとしている。


アレクは振り返らなかった。


振り返れば、今の表情を見られてしまう気がした。


白い廊下の奥。

神殿会議の間。


そこでは、父が待っている。

十三神官が待っている。

ラーザァー召集が待っている。


そしておそらく、アレクという名が読み上げられる。


アレクは歩き出した。


その背後で、ザヴォラムの足音が続く。


兄弟弟子としてではなく。

監視者としてでもなく。


今はただ、白い神殿の中で、アレクが完全にひとりにならないために。


鐘の音が、もう一度鳴った。


月神殿は、召集の時を迎えていた。

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