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第三節 ― アレクサンドラ

シルハインドの旅話は、白い庭に少しだけ色を戻した。


南市の香辛料屋の話では、月桂樹の葉の匂いの向こうに、焼いた肉と甘い果実の香りがあるような気がした。峠の羊飼いの話では、メミスの磨かれた石畳ではなく、雪混じりの泥道と粗末な木の扉が思い浮かんだ。


アレクは、それを聞いていた。


聞いているだけで、自分の呼吸が少しずつ普通に戻っていくのがわかった。


神殿の庭にいるのに、神殿の外を歩いているようだった。

父の視線も、訓練記録板も、銀の魔導陣も、ほんの少しだけ遠ざかっていく。


シルハインドは、話すのがうまい。


大げさに身振りを交え、失敗したところほど楽しそうに語る。聞いている者に、自分もその場にいたのではないかと思わせる。アレクは幼い頃から、彼のそういうところが好きだった。


白い神殿の中で、彼だけが外の風を持ってくる。


「それで、羊飼いの爺さんが言うわけだ。『お前さん、神殿都市の人間か? なら、道に迷ったのも神の導きだな』って」


「迷子を神の導きにしないでください」


「俺もそう言った。そしたら爺さん、『神は迷った者しか導けん』って」


アレクは少し黙った。


「……いい言葉ですね」


「だろう? 俺もそう思った。だから覚えてきた」


「珍しく役に立つ土産話です」


「珍しく、は余計だな」


シルハインドは笑った。


その笑いに釣られて、アレクも小さく笑う。


けれど、笑ったあとで、胸の奥が少し痛んだ。


迷った者しか導けない。


なら、自分はずっと導かれる資格があるのだろうか。

神官になるべき道。

父に与えられた名。

月神に選ばれた血。

男として立つよう作られた姿。


そのどれもが、アレクの道であるはずだった。


けれど時々、それは自分の足で歩いている道ではなく、誰かに描かれた線の上を歩かされているだけではないかと思う。


シルハインドは、ふとアレクの横顔を見た。


「疲れてるな」


「訓練のあとですから」


「それだけじゃない顔だ」


アレクは答えなかった。


月桂樹の葉が、風もないのにかすかに揺れる。神殿の白い壁の向こうでは、神官見習いたちが朝の掃除をしているのだろう。遠くから水を撒く音が聞こえた。


ここは神殿の中だ。


どの壁にも耳がある。

どの沈黙にも、誰かの規律が染みついている。


それでもシルハインドは、声を少し落として言った。


「アレクサンドラ」


その名が落ちた瞬間、庭の白さが変わった。


アレクは息を止めた。


反射的に周囲を見る。


父はいない。

神官もいない。

庭の入り口にも、人影はない。


それでも、心臓が強く打った。


その名を呼ばれることは、禁じられている。


少なくとも、この神殿では。


アレクサンドラ。


それは、アレクが生まれたとき、母が抱きしめながら呼んだ名だった。

月神殿の正式台帳に残る前の名。

父が書き換える前の名。

アルフェラッツ家の後継として、男児の名を与えられる前の、柔らかく長い名。


母の部屋では、その名はまだ息をしていた。


けれど、母の部屋を出れば消える。

神殿の廊下では、アレク。

訓練場では、アレク。

儀式の控えでは、アレク。

父の前では、常にアレク。


アレクサンドラという名は、閉じた小箱の中にしまわれていた。


そして今、その名を生きた声で呼べるのは、シルハインドだけだった。


「……その名で呼ばないでください」


アレクは言った。


声は、思ったより弱かった。


シルハインドは、からかわなかった。


笑いもしなかった。


ただ静かに、アレクを見ている。


「ごめん」


その謝罪は軽くなかった。


アレクは膝の上で手を握った。


「聞かれたら困ります」


「うん」


「父上に知られたら、あなたも叱られます」


「それも、うん」


「それなら、なぜ」


シルハインドは少しだけ空を見上げた。


白い神殿の上に、昼の薄い月が残っている。

朝なのに、消えきらない月。

メミスという都そのもののようだった。


「忘れてほしくないから」


アレクは、胸の奥を押さえられたような気がした。


「何をですか」


「君が、アレクサンドラでもあることを」


でもある。


その言い方が、胸に深く残った。


アレクではない、と否定されたのではない。

アレクサンドラだけが本当だ、と押しつけられたのでもない。


アレクでもあり、アレクサンドラでもある。


その両方を、シルハインドは知っている。


「私は……」


アレクは言葉を探した。


「私は、神官になるために育てられました」


「知ってる」


「父上は、アルフェラッツ家の後継には男が必要だと考えています」


「それも知ってる」


「神殿の台帳にも、私は男として記録されています」


「うん」


「なら、それが私です」


言い切ったはずなのに、声の最後がかすれた。


シルハインドはすぐには返事をしなかった。


彼は、アレクの言葉を否定しない。


その沈黙が、逆につらかった。


「アレク」


今度は、彼はいつもの名で呼んだ。


「君がそう名乗ることを、俺は否定しない。君が神官服を着て、神殿の後継として立つことも、君が選んだ部分があるなら尊重する」


「選んだ部分……」


「全部じゃないだろ」


アレクは黙った。


全部ではない。


それは言ってはいけないことだった。


だが、否定できなかった。


父が望んだから。

神殿が必要としたから。

アルフェラッツ家に男の後継がいなかったから。

濃いエイースを持っていたから。


それらが重なり、アレクという名が与えられた。


短い髪。

少年用の訓練服。

神官職を継ぐための教育。

人前での言葉遣い。

振る舞い。

立ち方。

笑い方まで。


気づけば、アレクはアレクになっていた。


それが嘘だとは思わない。


けれど、すべてが自分の意思でできているわけでもない。


「俺はさ」


シルハインドは、ゆっくりと言った。


「君を女の子扱いしたいわけじゃない」


アレクは顔を上げた。


「昔、俺はそういう軽口を言ったかもしれない。君を困らせたこともあったと思う。悪かった」


それは意外な言葉だった。


シルハインドは、昔からよくアレクをからかった。


神官見習いの服が似合わないだとか、髪を伸ばしたら母に似るだとか、そんなことを冗談のように言ったこともある。


そのたびにアレクは怒った。

怒りながらも、本気で嫌だったのか、少しだけ嬉しかったのか、自分でもわからなかった。


けれど今、シルハインドはそのすべてを軽く流さなかった。


「今は、そうじゃない」


彼は続けた。


「俺は、君をどちらかに閉じ込めたいんじゃない。アレクだけになれとも、アレクサンドラに戻れとも言わない」


「では、なぜその名を」


「君が、自分の一部を誰かに奪われたままにしないように」


アレクは言葉を失った。


白い庭が静かになる。


遠くの水音も、神官見習いたちの足音も、薄くなった。


シルハインドの声だけが、まっすぐ届く。


「名前って、便利だろ。呼べば振り向ける。台帳に書けば、神殿の中で場所を持てる。契約にも、祈祷にも、儀式にも必要だ」


アレクは頷いた。


「でも、名前は誰かを閉じ込めることもある」


その言葉に、アレクの胸の奥で何かが震えた。


エイースではない。


もっと人間的な、痛みに近い震えだった。


「君の父上は、アレクという名で君を守ったのかもしれない。神殿で生きるために必要だったのかもしれない。でも、その名だけで君の全部を決めていいわけじゃない」


「父上は、守るためではありません」


思わず、そう言っていた。


シルハインドは黙って聞いた。


アレクは自分の口から出た言葉に戸惑った。


言ってしまった。


父について、そんなふうに言ってしまった。


もう戻せない。


けれど、シルハインドは責めなかった。


「そうか」


ただ、それだけだった。


その短い返事に、アレクの喉が詰まる。


「父上は、私を神官にするために」


「うん」


「アルフェラッツ家のために」


「うん」


「月神殿のために」


「うん」


「……私の血のために」


最後の言葉は、ほとんど吐息だった。


シルハインドの顔が曇った。


「エイースか」


アレクは頷いた。


「父上は、私を見ているのではありません。たぶん、私の血を見ています。どれだけ神格構文に反応するか。どこまで耐えられるか。どの儀式に使えるか」


言いながら、胸が冷たくなっていく。


言葉にすると、それはあまりにもはっきりしていた。


父は自分を利用している。


そう思いたくなかった。


尊敬したかった。

認められたかった。

神官としての厳しさなのだと思いたかった。


けれど、訓練記録板を見る父の目。

痛みに膝をついても反応の強さを確かめる声。

下層構文に触れたことへの、恐れではなく期待の気配。


それらは、もう隠しきれなかった。


「アレク」


シルハインドが、静かに呼んだ。


今度はアレクという名だった。


けれど、その声の中にアレクサンドラも含まれている気がした。


「君は、血じゃない」


アレクは目を伏せた。


「でも、私の価値は――」


「違う」


めずらしく、シルハインドが強く遮った。


アレクは驚いて彼を見る。


「君の価値は、エイースの濃さじゃない。神官になれるかでもない。月神殿の後継かどうかでもない」


「では、何ですか」


「そんなもの、誰かが決めることじゃない」


その言葉は、アレクの中に落ちた。


落ちて、すぐには溶けなかった。


「でも、神殿では」


「神殿では、そういうことになっているんだろうな」


シルハインドは言った。


「でも俺は、神殿じゃない」


アレクは思わず笑いそうになった。


「それは、見ればわかります」


「だろう?」


シルハインドは少しだけ笑った。


けれど、その笑みはすぐに静かなものへ変わる。


「だから俺は覚えてる。君がアレクサンドラとして生まれたことを。君がアレクとして立たされていることを。どちらも君の一部で、どちらかを消していいものじゃないことを」


「……もし、私がアレクでいることを選んだら?」


「それでも、俺は君を忘れない」


「もし、アレクサンドラという名をもう呼ばないでほしいと言ったら?」


シルハインドは少し黙った。


そして、真剣な顔で言った。


「その時は呼ばない」


アレクは息を止めた。


「本当に?」


「本当に」


「あなたは、忘れてほしくないと言ったのに」


「忘れないことと、勝手に呼ぶことは違う」


その言葉に、アレクの胸が痛くなった。


優しさは、ときにこんなに苦しい。


父は、名を与えた。

神殿は、名を記した。

記録は、アレクを男として定めた。


けれどシルハインドは、名を握りしめない。


アレクサンドラという名を知っている。

その重みを知っている。

それでも、それを武器にしない。

からかいにも、秘密の支配にも使わない。


ただ、忘れない。


アレクが忘れそうになったときだけ、そっとそこにあると知らせる。


そのことが、アレクには恐ろしく、そして救いだった。


「……まだ」


アレクは小さく言った。


「まだ、呼んでいてください」


シルハインドの表情が、わずかに変わった。


「いいのか」


「人前では駄目です」


「もちろん」


「父上の前でも、神殿の中でも」


「わかってる」


「母の部屋以外では、誰にも聞かれない場所で」


「うん」


アレクは、自分の手を見た。


訓練で冷えた指。

魔導の反動でうっすら青白い構文痕が残る手。


この手は、父が望む神官の手だ。

魔導を結ぶための手。

儀式に捧げるための手。


けれど、同時に、母がアレクサンドラと呼んで握った手でもある。


シルハインドが、黙ってその手を見ていた。


触れようとはしない。


アレクが望むまで、彼は触れない。


それがわかるだけで、少し息ができた。


「シルハインド」


「何だ」


「私は、自分がどちらなのか、まだわかりません」


「うん」


「アレクでいることが、嘘なのかどうかも」


「うん」


「アレクサンドラという名に戻りたいのかも、わかりません」


「今は、わからないままでいい」


また、その言葉。


わからないままでいい。


アレクはゆっくり息を吐いた。


神殿では、わからないことは弱さだった。

答えられないことは未熟さだった。

迷うことは、神官としての不足だった。


けれどシルハインドは、わからないままでいることを許す。


「君は、名前より先にいる」


彼は言った。


「アレクでも、アレクサンドラでも、その前に君がいる。俺は、そこを忘れてほしくない」


アレクは顔を上げた。


その言葉は、胸の奥に深く入ってきた。


名前より先にいる。


そんな考え方をしたことがなかった。


アレクという名でなければ、神殿に居場所がない。

アレクサンドラという名は、隠さなければならない。

なら、自分はどこにいるのか。


その問いに、シルハインドは簡単な答えを出したわけではない。


ただ、名前の前にも自分はいるのだと告げた。


それだけで、白い神殿の壁が少しだけ遠くなった気がした。


「ありがとう」


アレクは言った。


声は小さかったが、確かだった。


シルハインドは照れたように鼻の頭をかいた。


「珍しく素直だな」


「取り消します」


「早い」


アレクは少し笑った。


今度の笑みは、さきほどより自然だった。


だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。


庭の外から、神官見習いの足音が近づいてきた。


シルハインドはすぐに表情を戻し、少し離れて座り直した。アレクも背筋を伸ばす。


神殿の中で求められる姿へ戻る。


アレクとして。


その切り替えの速さに、自分でも少し悲しくなった。


見習いが庭の入り口に立ち、頭を下げる。


「アレク様。神官長がお呼びです。午後の訓練前に、月読室へ来るようにとのことです」


アレクの胸が、また冷える。


月読室。


神殿内でも、より深い構文が刻まれた部屋だ。

通常の訓練では使わない。


父は、今朝の下層反応を試すつもりなのだろう。


「わかりました」


アレクは答えた。


見習いは去っていく。


シルハインドが、低く言った。


「行くな、と言っても無駄か」


「無駄です」


「だろうな」


「でも」


アレクは立ち上がった。


「今は、少しだけ大丈夫です」


「少しだけ?」


「はい」


シルハインドは苦笑した。


「君の“少し”は信用できない」


「では、ほんの少し」


「悪化してる」


アレクは小さく笑った。


それから、庭を出る前に振り返った。


「シルハインド」


「何だ」


「さっきの名は」


彼はすぐに真面目な顔になった。


「うん」


「忘れないでください」


シルハインドは静かに頷いた。


「忘れない」


「でも、奪わないでください」


「奪わない」


「私が、どちらを選ぶとしても」


「どちらを選んでも」


その返事を聞いて、アレクはようやく頷いた。


そして、神殿へ向かって歩き出す。


白い廊下の向こうで、父が待っている。

月読室が待っている。

エイースの血を測る、新たな訓練が待っている。


アレクという名の少年として、彼はそこへ向かう。


けれど胸の奥には、もうひとつの名がある。


アレクサンドラ。


それは今も隠された名だった。

公には記されず、神殿の台帳からも遠ざけられ、父の口には決して上らない名。


だが、消えてはいない。


母の記憶に。

シルハインドの声に。

そして、アレク自身の胸の奥に。


名前より先にいるもの。


それを完全に奪うことは、まだ誰にもできない。


白い廊下へ入る直前、アレクは一度だけ息を吐いた。


その息は、朝の光の中で薄く白くなり、すぐに消えた。


けれど、消えたからといって、なかったことにはならない。


シルハインドは庭に残り、アレクの背中を見送っていた。


彼の革鞄の奥では、蒼い魔導具が静かに眠っている。


その目は、アレクの血だけでなく、今しがた交わされた名の重みまでも、どこか遠い闇へ伝えようとしているかのようだった。

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