第二節 ― シルハインドの帰還
「まだやってるのか、アレク」
その声が庭に響いた瞬間、銀の魔導陣がわずかに揺れた。
アレクは反射的に詠唱を止めかけた。
だが、父の視線がある。
止めてはいけない。
彼は奥歯を噛み、乱れかけた構文を指先で押さえ込んだ。銀の線が一度ほどけ、すぐに結び直される。石柱の封印が小さく鳴り、訓練場の月相線が淡い光を返した。
「集中を切るな」
父の声が飛ぶ。
「……はい」
アレクは答え、最後の構文を閉じた。
光が消える。
その瞬間、体の奥から力が抜けた。
膝が折れそうになる。
けれど、倒れなかった。
倒れれば、父はまた言うだろう。
血に耐えろ。
選ばれた者として立て。
月神の器に、弱さは要らない。
だからアレクは、立っていた。
庭の入り口に、一人の青年が立っている。
シルハインドだった。
明るい金茶の髪に、旅塵のついた外套。神殿都市メミスの白い空気には似合わないほど、彼の周りだけが少し賑やかに見えた。外套の裾には北方街道の泥がつき、肩には古い革鞄。腰には短剣ではなく、旅商人が護身用に持つ程度の小さな刃。
彼は片手を上げ、悪びれもせず笑っていた。
「いやあ、相変わらずだな。朝から庭を光らせてるなんて、さすが神殿の期待の星」
父の眉がかすかに動いた。
「シルハインド」
その呼び方は冷たかった。
「帰還の挨拶より先に、訓練の邪魔か」
「邪魔のつもりはありませんよ、神官長殿」
シルハインドは軽く頭を下げた。
形式だけは整っている。
だが、畏まっているようで、どこか畏まっていない。
アレクは、その空気に少しだけ息がしやすくなるのを感じた。
シルハインドは、昔からそうだった。
神殿の白い廊下でも、祭儀の控えの間でも、重々しい神官たちの中でも、彼だけは妙に風通しがよかった。規則を破るほど無作法ではない。けれど、規則に心まで縛られることもない。
彼が来ると、空気が少し動く。
白く固まったメミスの空気が、ほんの少しだけ外の世界を思い出す。
「アレク、顔が真っ白だぞ」
シルハインドは父の視線など気にせず、庭へ入ってきた。
「いつものことです」
アレクは答えた。
声が少しかすれていた。
シルハインドは彼の顔を覗き込む。
「いつものことにしちゃ駄目だろ。人間は石柱じゃないんだから」
その一言に、アレクは思わず笑いそうになった。
本当に小さく。
口元が動いたかどうかもわからないほど。
だが、父はそれを見逃さなかった。
「シルハインド」
父の声が低くなる。
「アレクは訓練中だ。軽口で気を散らすな」
「すみません」
シルハインドは素直に謝った。
しかし、その目はアレクへ向いている。
大丈夫か、と問う目だった。
アレクは小さく頷いた。
大丈夫ではない。
けれど、大丈夫ではないと答える場所ではなかった。
父は訓練記録板を閉じた。
「今日の訓練はここまでにする」
アレクは目を伏せた。
安堵を表に出してはいけない。
だが、胸の奥で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
「ただし、午後に再開する。乱れた構文を修正し、下層反応の再確認を行う」
下層反応。
その言葉に、アレクの背筋が冷えた。
シルハインドが一瞬、首を傾げる。
「下層反応?」
父は彼を見た。
「君には関係ない」
「そうですか」
シルハインドは軽く流した。
だが、アレクは知っている。
彼は本当に聞き流したわけではない。
大事なことを、深刻そうな顔をせずに拾うのがうまいだけだ。
父はアレクへ視線を戻した。
「休め。だが、訓練内容は忘れるな」
「はい、父上」
アレクは頭を下げた。
父はそのまま庭を出ていった。
白い神官服の背が、月桂樹の影の中へ消える。
彼の足音が聞こえなくなっても、庭の空気にはまだ父の命令が残っているようだった。
シルハインドはそれを見送ってから、大きく息を吐いた。
「相変わらず、あの人は庭の温度を三度くらい下げていくな」
「聞かれますよ」
「聞こえるように言ってないから大丈夫」
「それが一番危ないんです」
アレクが言うと、シルハインドは笑った。
その笑い声は、白い石壁に軽く跳ね返った。
不思議なほど、普通の音だった。
アレクは、その普通さに救われる。
「戻ったんですね」
「戻った。見ての通り、無事に」
シルハインドは両手を広げた。
「西の巡礼路から、南の市を回って、最後にメミスへ帰還。荷物は少ないが、話の種は多いぞ」
「また余計なものを買ってきたんですか」
「余計とは失礼だな。珍品と言ってくれ」
シルハインドは得意げに胸を張った。
そのとき、アレクの視線が彼の首元で止まった。
蒼い光。
シルハインドの胸元に、小さな魔導具が下がっていた。
銀鎖に吊られた、涙滴形の石。
色は深い蒼。夜明け前の空を閉じ込めたような色だった。石の内部には、ごく細い光の線が走っている。角度によって、それは水脈にも、星図にも、瞳孔にも見えた。
アレクは胸の奥がかすかに軋むのを感じた。
エイースが反応している。
強くはない。
けれど、確かに。
「それは?」
アレクが尋ねると、シルハインドは嬉しそうに首飾りを持ち上げた。
「気づいたか。さすがだな」
「魔導具ですか」
「そう。しかも、ただの魔導具じゃない」
彼は声を少し落とした。
「ソーサイア由来の品らしい」
アレクは眉を上げた。
「ソーサイアの?」
ソーサイア。
魔導技術と古代構文研究で知られる名だった。
メミスの神官たちは表向き、ソーサイア系の魔導具を軽んじる。祈りではなく技術に寄りすぎている、と。
だが実際には、神殿の奥でもソーサイア由来の補助具は使われている。名前を変え、月神殿式の装飾を施し、まるで昔から神殿にあったかのように扱われているだけだ。
「本物なんですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「店主は本物だと言っていた」
「それは一番信用できない説明です」
アレクが言うと、シルハインドは笑った。
「まあ、俺も全部信じたわけじゃない。でも、面白いだろ。蒼い観測石。持ち主の周囲にある魔導の流れを、光の揺れで示すんだそうだ」
観測石。
その言葉に、アレクの体がまた小さく軋んだ。
シルハインドは気づいていない。
彼は本当に、珍しい魔導具を見せたくて仕方がないだけの顔をしている。
「ほら、見てみろ」
シルハインドは魔導具をアレクへ近づけた。
アレクは一歩、無意識に下がった。
「アレク?」
「あ……すみません」
「触るのが嫌ならいい。無理にとは言わない」
シルハインドはすぐに手を引いた。
その気遣いが、かえって胸に刺さる。
アレクは首を振った。
「嫌ではありません。ただ、少し……反応しました」
「エイースが?」
「たぶん」
シルハインドの顔から笑みが消えた。
ほんの一瞬だったが、彼は真面目な目になった。
「痛むのか」
「少しだけです」
「少しだけ、って顔じゃない」
「本当に少しです」
そう言うと、シルハインドは疑わしそうにアレクを見た。
「君は昔から、倒れる直前まで“少し”って言う」
「倒れたことはありません」
「倒れかけたことはある」
「それは違います」
「違わない」
二人のやり取りは、他愛ないものだった。
けれど、アレクの心は少しずつほどけていった。
父の前では、言葉を選ばなければならない。
神官たちの前では、姿勢を正さなければならない。
侍女たちの前では、弱さを見せないようにしなければならない。
だが、シルハインドの前では、少しだけ違った。
彼はアレクを、神官家の後継としてではなく、アレクとして扱う。
それがどれほど貴重なことか、アレクは本人に言ったことがない。
「本当に痛むなら、外そうか」
シルハインドは蒼い魔導具に手をかけた。
アレクは慌てて止めた。
「いいんです。大丈夫ですから」
「でも」
「珍しいものなのでしょう。見せてください」
シルハインドは少し迷ったあと、魔導具を手のひらに乗せた。
蒼い石が、朝の光を受けてきらめく。
美しい。
それは確かだった。
だが、アレクの血は、美しさとは別のものを感じていた。
石の奥に、細い視線がある。
人の目ではない。
神の目でもない。
もっと冷たく、もっと静かで、ただ見ているだけの何か。
アレクは胸元の月章を押さえた。
魔導具の光が、ほんのわずかに強くなる。
シルハインドはそれを見て、嬉しそうに目を輝かせた。
「おお、反応した。やっぱり本物だな」
「……そうですね」
アレクは答えた。
声を平静に保とうとした。
石の内部で、蒼い線が揺れている。
それは月神殿の銀の構文とは違う。ソーサイア式の魔導回路とも、少し違う。
もっと観測に特化した、細い構文。
周囲の魔導を測る。
血の反応を拾う。
神格構文に触れた者の気配を探る。
そんな働きがあるように見えた。
アレクには、専門的な鑑定はできない。
けれど、血が教えていた。
これはただの珍品ではない。
何かを見ている。
そして、いま見られているのは自分だ。
「どこで手に入れたんですか」
アレクは尋ねた。
「南市の骨董商から。旅の途中で知り合った人がいてな。神殿都市へ行くなら、こういうものが役に立つかもしれないって紹介された」
「誰ですか、その人は」
「名乗らなかった。妙な人だったよ。顔を深いフードで隠していて、声も聞き取りづらかった。でも悪い感じはしなかったな」
アレクの胸の奥が冷えた。
「名乗らなかった人を信用したんですか」
「信用したというか、面白そうだったから」
「シルハインド」
「怒るなよ。ちゃんと代金は払ったし、呪物鑑定も受けた。店主は安全だと言っていた」
「店主も信用できません」
「それはそう」
シルハインドはあっさり認めた。
その軽さに、アレクは少し困ったように息を吐いた。
彼は悪くない。
本当に、悪意などない。
珍しい魔導具を手に入れて、アレクに見せたいと思っただけ。
神殿で息苦しくしている弟分を、少し驚かせて笑わせたかっただけ。
だからこそ、胸が痛む。
もしこの魔導具が危険なものなら。
彼は知らずに運ばされたのだ。
メミスへ。
神殿へ。
アレクの前へ。
「しばらく、それを神殿内で使わない方がいいかもしれません」
アレクは言った。
シルハインドは目を瞬かせた。
「どうして」
「反応が……少し変です」
「変?」
「ソーサイアの魔導具なら、もう少し回路が整っているはずです。でもこれは、周囲の魔導を測るというより、何かを探しているように感じます」
シルハインドは蒼い石を見下ろした。
「探している?」
「はい」
「何を」
アレクは答えられなかった。
エイース保持者。
血の雫。
神格構文に反応する血。
そう言葉にすれば、父に聞かせてはいけない秘密に触れてしまう。
そして、自分でもまだ確信がない。
「わかりません」
アレクは言った。
「ただ、私の血が反応しました」
その言い方をした瞬間、シルハインドの顔が真剣になった。
「なら、外す」
今度は即答だった。
彼は首から鎖を外そうとする。
その瞬間、蒼い石が強く光った。
アレクの胸の奥が、鋭く痛んだ。
「っ……」
思わず片膝をつきそうになる。
シルハインドが慌てて駆け寄った。
「アレク!」
彼が伸ばした手が、アレクの肩に触れる。
同時に、魔導具の光が静まった。
まるで、必要な反応を得たあとは眠るように。
アレクは呼吸を整えた。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
シルハインドの声が、先ほどまでと違っていた。
軽さが消えている。
「やっぱり外す。こんなもの、持ってきた俺が悪い」
「違います」
アレクはすぐに言った。
「あなたは悪くありません」
強い声だった。
自分でも驚くほど。
シルハインドが動きを止める。
アレクは、胸を押さえながら続けた。
「何か変だとしても、あなたがそうしたわけではありません。だから、自分を責めないでください」
「……まだ何も起きてないだろ」
シルハインドは笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
アレクは気づいた。
自分は今、未来のことを言ってしまったのかもしれない。
まだ起きていない悲劇を、血が先に知っているように。
蒼い魔導具は、シルハインドの手の中で静かに揺れていた。
その石の奥にある細い視線は、もう見えない。
けれど、消えたわけではない。
眠っている。
見たいものを見たあとで。
「父上には、見せないでください」
アレクは言った。
「それは、絶対に」
「神官長に?」
「はい」
「理由は?」
「父上は……」
言いかけて、言葉が止まった。
父なら、この魔導具に気づく。
少なくとも、利用価値には気づくだろう。
アレクのエイースに反応したこと。
血の動きを観測できること。
月神以外の神格構文にも反応する可能性があること。
そのすべてを、父は訓練や儀式の名のもとに使う。
そして、シルハインドも巻き込まれる。
「父上は、あなたから取り上げるかもしれません」
アレクは、半分だけ本当のことを言った。
シルハインドは小さく息を吐いた。
「それは困るな。高かったんだぞ」
「なら、隠してください」
「わかった」
意外なほど素直な返事だった。
シルハインドは魔導具を外し、革鞄の奥へしまった。蒼い光が布の中に隠れると、アレクの胸の痛みも少しだけ引いた。
だが、完全には消えない。
一度見られた。
そんな感覚だけが残っている。
「なあ、アレク」
シルハインドは静かに言った。
「君、本当に大丈夫か」
いつもの冗談めいた調子ではなかった。
アレクは返事に迷った。
大丈夫だと言えば、嘘になる。
大丈夫ではないと言えば、何かが崩れる。
「……わかりません」
結局、そう答えた。
シルハインドは少し驚いた顔をした。
アレクがそんな答えをすると思っていなかったのだろう。
「わからない、か」
「はい」
「じゃあ、今日はそれでいい」
「それでいいんですか」
「大丈夫って嘘をつかれるより、ずっといい」
その言葉に、アレクは目を伏せた。
庭の白い石床に、自分の影が落ちている。
神官になるための訓練。
父から課された義務。
月神に選ばれた血と呼ばれるエイース。
けれど実際には、月神だけでなく、呼んではいけない何かにまで反応してしまう危うい血。
そのすべてを、アレクはまだ誰にも言えない。
シルハインドにも。
それでも、彼がそばにいるだけで、ほんの少し息ができた。
「お土産話、聞きますか」
シルハインドが言った。
「今ですか」
「今だ。神官長が戻ってくる前に、少しくらい庭を人間の場所に戻そう」
アレクは、今度こそ小さく笑った。
「庭は最初から人間の場所です」
「そうかな。さっきまで、石柱と血筋と神殿の場所に見えたけど」
「……否定しにくいです」
シルハインドは得意げに頷いた。
「だろう?」
二人は庭の端へ移動した。
月桂樹の下には、白い石の長椅子がある。アレクはそこへ腰を下ろし、ようやく体の力を抜いた。シルハインドは隣に座り、旅の話を始める。
南市の香辛料屋。
歌う鳥籠を売る老人。
占い師に財布をすられかけた話。
雪の峠で道を間違え、羊飼いの家に泊めてもらった話。
どれも他愛ない。
けれど、アレクには眩しかった。
神殿の外には、こんなにも多くの道がある。
名前を記されなくても、人は歩き、笑い、迷い、帰ってくる。
アレクはそれを聞きながら、胸の奥の痛みを少しだけ忘れた。
だが、革鞄の奥では、蒼い魔導具が静かに眠っている。
ソーサイアの名を騙った、観測の目。
それは誰にも気づかれぬまま、すでにメミスへ入った。
月神殿の庭で、アレクのエイースを見た。
濃すぎる血の気配を記憶した。
シルハインドは知らない。
自分が持ち帰ったものが、珍しい旅の土産ではないことを。
誰かがメミスの内側を覗くために送り込んだ、蒼い目であることを。
そしてその目が、やがて彼自身をも悲劇の輪の中へ引き入れることを。
アレクもまだ、知らない。
ただ、白い庭の月桂樹の下で、彼は久しぶりに笑った。
その笑顔はあまりにも小さく、儚かった。
だからこそ、蒼い魔導具の奥に潜む見えない目は、それを静かに記憶した。




