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第一節 ― アレクという名の少年

メミスの朝は、白かった。


白い石壁。

白い神殿。

白い階段。

白い衣をまとった神官たち。


丘の上に建つ月神殿は、朝の光の中でも夜のような静けさを保っていた。太陽の光さえ、この都ではどこか遠慮している。白壁に触れる前に薄められ、月の残光のような色になって石畳へ落ちる。


神殿の奥庭には、円形の訓練場があった。


床には月相をかたどった銀の線が埋め込まれている。新月、上弦、満月、下弦。その四つを囲むように、古い祈祷文字が刻まれていた。文字は装飾ではない。魔導の流れを整え、暴走した力を庭の外へ逃がさないための封じである。


その中央に、少年が立っていた。


アレク。


メミスの神官家、アルフェラッツ家の長子として記録された名。


白い訓練服に、細い革帯。肩まで伸びた髪は後ろで短く結ばれ、顔立ちはまだ幼さを残している。だが、その姿勢は年齢よりずっと硬かった。


十六歳。


本来なら、神殿学校で同年代の子らと学び、祭儀の所作や聖句の暗唱に追われる年頃だ。


けれど、アレクには別の義務があった。


神官になること。

魔導士になること。

アルフェラッツ家の血を、月神殿へ捧げられる器として完成させること。


それは、父から課された道だった。


「もう一度だ、アレク」


庭の端から声がした。


父は、白い石椅子に腰かけていた。


神官服の襟は高く、胸元には月神ムーミストの銀章が光っている。手には訓練記録用の細い板。そこへ、アレクが何度魔導を行い、どれだけの精度で構文を展開し、どの程度の反応を示したかを淡々と記している。


父の視線は、息子を見るものではなかった。


少なくとも、アレクにはそう感じられた。


器を見ている。

血を見ている。

神殿に差し出すべき成果を、測っている。


アレクは唇を結び、右手を上げた。


足元の銀線が淡く光る。


月相の輪がひとつずつ目覚め、白い庭に薄青い光が広がった。空気が冷える。朝の庭に残っていた花の香りが遠のき、代わりに、石と水と古い祈りの匂いが立ちのぼる。


アレクは聖句を唱えた。


「月は満ち、月は欠け、されど名は欠けず――」


言葉に合わせて、光が集まる。


指先に、銀色の魔導陣が開いた。


小さな円。

その内側を、細い構文線が走る。線は美しく、正確だった。普通の神官見習いなら、これだけで十分に称賛される。


だが、アレクの魔導はそこで終わらない。


光の奥に、もうひとつの線が現れた。


銀ではない。


青白い血管のような線。


それは魔導陣から伸び、アレクの指先へ絡み、手首へ、腕へ、肩へと逆流するように走った。


アレクの体が、わずかに軋んだ。


骨の内側を、冷たい針でなぞられるような痛み。


息が詰まる。


だが、声は出さなかった。


父が見ている。


痛みに顔を歪めれば、集中が甘いと言われる。

魔導を中断すれば、血に耐える覚悟が足りないと言われる。


アレクは奥歯を噛みしめた。


魔導陣がさらに輝く。


庭の中央に置かれた石柱が、かすかに震えた。石柱の表面には、訓練用の封印が刻まれている。その封印を月光の糸で解き、再び結び直す。それが今日の課題だった。


通常なら、三節の詠唱と二重構文で足りる。


しかし父は、アレクに五重構文を課していた。


理由はわかっている。


アレクには、それができてしまうからだ。


「集中を切るな」


父の声が飛ぶ。


「お前のエイースなら、その程度で揺らぐはずがない」


エイース。


その言葉を聞いた瞬間、アレクの胸の奥がさらに冷えた。


メミスでは、魔導の才をそう呼ぶ。


月神に選ばれた血。

ムーミストの光に応える祝福。

神殿に仕える者の中でも、特に清く濃い祈りの血質。


神官たちは、そう教える。


幼い頃から、アレクもそう教えられてきた。


けれど、本当は少し違う。


エイースとは、ただ魔導に向いた体質ではない。


神格構文に反応する血だ。


神の名。

神の祈り。

神殿に刻まれた古い構文。

人が世界へ向けて呼びかける、目に見えない命令文。


それらに、血が反応する。


ムーミストの月光構文に触れれば、アレクの魔導は強くなる。

神殿の封印構文に触れれば、普通の者には見えない線が見える。

祈祷具に触れれば、そこに残った神官たちの祈りが、肌の奥で震える。


それが、メミスでは祝福と呼ばれる。


月神に選ばれた証だと。


だが、アレクは知っていた。


少なくとも、身体では知っていた。


反応するのは、月神だけではない。


封じられた古い神の気配にも。

名を呼ばれない祈りにも。

神殿の地下に沈む、冷たく歪んだ構文にも。


アレクの血は、反応してしまう。


望んでいないものにまで。


月神殿の奥から漏れる沈黙。

古い祭壇の下に眠る黒い気配。

父が近づくことを禁じた地下回廊。

神官たちが決して口にしない、古層神格の残響。


それらが近くにあるとき、アレクの体は先に知る。


骨が軋む。

血が冷える。

皮膚の下を、知らない祈りが這う。


それでも父は言う。


月神に選ばれた血だ、と。


アレクは指先に力を込めた。


石柱の封印が、ひとつほどける。


銀の糸が空中に舞い上がり、淡く発光した。

続いて、二つ目。三つ目。


魔導は成功している。


だが、アレクの身体は限界に近かった。


心臓が妙な拍を打つ。

胸の奥で、血が自分のものではないように震えている。指先の感覚が薄れ、魔導陣の光と自分の手の境目がわからなくなっていく。


それでも、やめられない。


「最後まで結べ」


父が言った。


「神官になる者が、途中で祈りを手放すな」


祈り。


これは祈りなのだろうか。


アレクはふと、そんなことを思った。


祈りとは、月へ捧げるもののはずだった。

静かに目を閉じ、沈黙の中で自分の願いを月神へ預けるもの。


けれど今、自分がしているのは、祈りというより命令に近い。


構文を解け。

封印を結べ。

血を反応させろ。

力を示せ。


月神に選ばれた血として。


アルフェラッツ家の後継として。


父の望む神官として。


アレクは息を吸った。


その瞬間、魔導陣の奥に別の影が差した。


銀の構文線の下。


ほんの一瞬、黒い亀裂のようなものが見えた。


アレクの背筋が凍る。


それは月神の構文ではなかった。


冷たい。

深い。

そして、ひどく古い。


封印の下から、誰かがこちらを見たような気がした。


アレクの魔導が乱れた。


銀の糸が震え、石柱の封印が軋む。魔導陣の外周が歪み、訓練場の月相線が一斉に光を強めた。


「アレク!」


父の声が鋭くなる。


アレクは慌てて構文を閉じようとした。


だが、血が反応している。


月神の構文ではないものに。


呼んではいけないものに。


耳の奥で、低い音がした。


声ではない。


けれど、何かが言葉になりかけている。


――見つけた。


そう聞こえた気がした。


アレクは息を止め、全力で魔導を断ち切った。


銀の光が弾けた。


石柱の周囲で空気が震え、庭の月桂樹の葉が一斉に揺れる。魔導陣は崩れ、指先から散った光が白い石床へ落ちて消えた。


アレクは膝をついた。


喉の奥に鉄の味が広がる。


咳き込むと、手袋の内側に赤いものが滲んだ。


血。


少量だ。

父に見られる前に、アレクは拳を握った。


だが、遅かった。


父はすでに立ち上がっていた。


「今、何を見た」


最初にかけられた言葉は、心配ではなかった。


アレクは顔を上げる。


「……魔導が、少し乱れました」


「違う」


父は近づいてくる。


白い神官服の裾が、石床の上を音もなく滑る。


「お前は、何かに反応した。何を見た」


アレクは黙った。


言ってはいけない気がした。


黒い亀裂。

古い気配。

見つけた、という声。


それを父に言えば、父は恐れるだろうか。


いいえ。


利用する。


アレクには、なぜかそうわかった。


父は、アレクの血が月神以外のものに反応することを、完全には知らない。

だが、疑っている。


だからこそ、通常の訓練ではなく、負荷の高い構文を課す。

だからこそ、限界まで魔導を使わせ、何に反応するかを見ている。


父にとって、アレクの痛みは異常ではない。


測定結果だ。


「何も」


アレクは答えた。


「ただ、集中を乱しました」


父の目が細くなる。


「嘘をつくな」


その言葉に、アレクの体が硬くなった。


父はすぐそばまで来ると、アレクの右手を取った。

手袋を外される。


指先は冷え切り、爪の下が青白くなっていた。手首には、さきほど逆流した青白い構文線の痕がうっすら残っている。


父はそれを見た。


そして、満足そうに目を細めた。


「やはり濃い」


アレクは、胸の奥が冷えるのを感じた。


「父上」


「並のエイースなら、三重構文で血が沈む。だが、お前は五重構文でもなお反応を返した。しかも、月相線の下層に触れている」


「下層……?」


「お前が知る必要はない」


父は手を離した。


「だが、覚えておけ。お前の血は、アルフェラッツ家に与えられた最大の祝福だ」


祝福。


アレクはその言葉を聞くたびに、体の奥が冷たくなる。


祝福なら、なぜ痛いのだろう。


神に選ばれた血なら、なぜ魔導のたびに骨が軋むのだろう。


月神の光なら、なぜ時々、光の底から黒いものが覗くのだろう。


だが、その問いを口にすることは許されない。


「もう一度」


父が言った。


アレクは思わず顔を上げた。


「今、ですか」


「当然だ」


「ですが、封印は一度乱れています。再調整を――」


「乱れたからこそ、反応を見る価値がある」


父の声には、迷いがなかった。


「立て、アレク。神官になる者が、血の痛みに怯えるな」


アレクは、石床に置いた手に力を込めた。


立たなければならない。


この庭で倒れることは、許されない。


父の前で弱さを見せれば、訓練は軽くなるどころか、さらに厳しくなる。エイースが反応しすぎるのなら制御を覚えろと言われる。痛むなら、痛みに耐える作法を学べと言われる。


アレクは立ち上がった。


視界が一瞬、揺れる。


白い庭が遠のき、月桂樹の影が黒く伸びる。

その影の中に、さきほどの亀裂が残っているような気がした。


呼ばれている。


月神ではない何かに。


アレクは、胸元を押さえた。


そこには、神官家の子として身につける小さな月章がある。銀で作られた清らかな印。メミスの人々が見れば、誰もが羨むだろう。


月神に仕える家の子。

選ばれた血。

未来の神官。


アレクという名の少年。


けれど、その名も、父が与えたものだった。


記録院の台帳にも、神殿の名簿にも、アルフェラッツ家の後継として記されている名。


アレク。


短く、硬く、男の子の名として扱いやすい名。


本当は、母だけが別の名で呼ぶ。


アレクサンドラ。


その名を思い出すと、胸の奥に少しだけ温かいものが灯った。


だが、父の前でその名は存在しない。


この庭に立っているのは、アレクという名の少年でなければならない。


父が望む後継。

神殿が求める器。

濃すぎるエイースを持つ、月神に選ばれた血。


アレクは再び右手を上げた。


銀の線が足元で目覚める。


体はまだ痛い。

指先の感覚も戻りきっていない。


それでも魔導陣は開く。


あまりにも簡単に。


まるで血の方が、アレク自身より先に神格構文へ応えてしまうように。


父はそれを見ていた。


誇らしげに。

冷静に。

そして、どこか貪るように。


アレクは、その視線を感じながら聖句を唱えた。


「月は満ち、月は欠け、されど名は欠けず――」


声は震えなかった。


訓練された声だった。


だが、胸の奥では、別の声がまだ残っている。


――見つけた。


アレクは、その声を誰にも言わなかった。


言えば、きっと何かが始まってしまう。


けれど、言わなくても、もう始まっているのかもしれない。


白い神殿の庭で、銀の魔導陣が再び開く。


その光は清らかで、美しく、誰の目にも月神の祝福に見えた。


けれどアレクだけは知っていた。


その光の底に、黒い亀裂があることを。


そして、自分の血がそれに応えてしまったことを。


父は言う。


「よし。続けろ、アレク」


アレクは頷いた。


アレクという名の少年として。


本当の名を胸の奥へ隠したまま。


月神の都メミスの白い朝の中で、彼はもう一度、痛む血を魔導へ差し出した。

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