第九話~苦悶と煩悶~
言い負かされなかったとはいえ、さすがにストレスはずっとつきまとっていた。部室へ行くのは気分転換ではなく、文乃先輩への報告のため。さすがに何もしてこないとは思うけど、でもやっぱり何かあったらと思うと怖い。だから利用というわけじゃないけど、先輩に報告して釘を刺してもらおうと思ったのだ。
「おはようございます」
部室へ行く途中、廊下の向こう側から部室に向かう文乃先輩に気付いたので挨拶をした。少し遠かったけど気付いてくれ、向こうも笑顔で会釈してくれる。私は少し小走り気味で近付くと、文乃先輩がゆっくりと資料室を開けていた。
「今日は同時ですね」
「そうね。何だかこういう偶然も気分いいものよね」
部室に入ると、早速カバンをその辺に置いて椅子や机を二人で引っ張り出す。準備が終わってから伝えようかとも思ったけど早い方が良いだろうと思い直し、私は机を合わせながら文乃先輩へと目を向けた。
「今日、妹さんが私の教室に来たんですよ」
「雪奈が?」
真剣な私の口調にそれが良い報告ではないと察したのだろう。文乃先輩は不安げに私を見詰め返す。
「朝、突然教室にやってきて私に部室にもう行くなって。文乃先輩の邪魔になるから部活辞めろって。断ったら、後悔するよって脅されたんですよ。ありえないですよね」
言ってるうちにあの時の事が鮮明に思い出され、その怒りをぶつけるように文乃先輩に言ってしまった。先輩はきゅっと目を閉じ、大きく息を吐く。嘆きのように、重い息。
「ごめんね、美空さん。雪奈には強く言っておくから」
わずかに開いた目からは深い悲しみと失望、そして申し訳無さが見て取れる。、もちろん文乃先輩は悪くない。けれど、ここで先輩に強く言ってもらわないと私は安心して部室へはもちろん、学校にも行けなくなってしまうだろう。
「お願いしますね、本当に。物騒な事言われたんですよ。警告したからねとか、後悔するよとか。雰囲気的にヤバい人を使って私を襲わせるような。詳しくは知りませんけど、先輩の家ってお金持ちなんですよね。そういう人を使ったりするんですか?」
「そんなわけないじゃない」
ゆっくりと頭を横に振りながら、どこか涙声のように吐き捨てた。私はその声にたじろぎ、怒りの炎が一気に弱くなる。
「確かにね、うちは恵まれている方よ。でもそれは親の努力であって、私達が何かをしたからじゃない。もしそんな悪い人を雇ったりなんかしたら、会社でどんな風になるか誰でも想像がつくでしょう。結局ね、うちはただの勤め人の家庭。そんな事できるわけない」
「あー……まぁ、そうでしょうね。普通はそう。でもあんな風に脅されると、本当に何されるかわからない怖さがあったから」
「バカな子。雪奈は、妹はわかってないの。そんな事したら両親は黙っていない。そしてみんなどこか勘違いしてる。うちは別に権力がある家じゃない。ただ親が有名企業で役員をしているってだけ。なのに」
突然、うっと短く呻いたかと思うと文乃先輩が胸を押さえて背を丸めた。左手を胸に、右手は机について倒れないように支えている。私は何事かと戸惑っていたけど、あまりにも痛く苦しそうな先輩の様子がただごとじゃないと理解し、椅子に座るよううながした。
「ごめんね……たまに、こうなるの」
「先輩、とりあえず座りましょう」
「うん……もう少し、待って。もう少ししたら、落ち着くから。今はちょっと、動けない」
息も絶え絶え、声も途切れ途切れに強く目を閉じた文乃先輩に触れる事ができず、どうすればいいかわからない。曇り空が部室を淀んだ色に染める。短く吐き出される先輩の吐息だけが部室の音を支配していた。
「……ごめんなさいね」
五分ほどしてからゆっくりと文乃先輩が椅子に座り、申し訳無さそうに私を見上げた。まだ胸を押さえ辛そうにしながら謝るその姿に、私は変な事を話してしまったからかもしれないとう罪悪感で押し潰されそう。ゆっくりと首を横に振り、ただ心配の目を向ける事しかできない。
「保健室に行きますか? 私、付き添いますよ」
「ううん、いいの。少しすれば落ち着くから、大丈夫。それより、ごめんなさい。雪奈が変な事言ったみたいなのと、こんな姿見せちゃって」
「あ、いえ、それはいいんですけど……」
今更もう何も言えなかった。ただ今日はもう部活という感じではなく、解散なんだろうな。このまま本を開いた所で、何も物語が入るような気がしない。
「ただ、これだけはわかって欲しい。私、美空さんとこうして部活をするのが好きなの。一緒に同じ時間、同じ場所で本を読む。別に特別な会話なんかいらない。ただそれだけが、私にとってすごく満たされている時間なのよ」
痛みや苦しみからなのか、文乃先輩の目がわずかに潤んでいるような気がした。それがあまりに眩しくて、私はついと視線を下げる。特別な言葉。私は口が緩みそうになるのをこらえ、もう一度文乃先輩と目を合わせた。
「私も……私も文乃先輩と一緒に読書するの楽しいです。他の人にあれこれ言われても自分のしたい事を邪魔されたくないんで、明日もここに来ますから」
「それでいいのよ」
見詰め合い、小さな微笑みを交わした。それが合図。今日はもう部活しないだろうと思っていたけど、文乃先輩がカバンから本を取り出した。いいのかなと驚きつつ、私もそれにならう。苦しさが落ち着いたのか、先輩は静かに本を読み始める。だから私も静Kにページをめくり始めた。
静かな部室に紙がめくられる音が響く。ここに来て、それがどんなに美しく愛おしいものかわかるようになった。それだけで、少し先輩に近付けたような気がしたから。
風により窓ガラスが小刻みに揺れる。野球部の金属バットが硬球を弾き返す。どこか遠くで年配の先生がくしゃみをした。そんな音が溢れている事に気付いたのも、読書のおかげ。
そして文字から音が、息遣いが、涙が伝わるのがわかった。文乃先輩のおかげ。
小一時間ほど読書をしていたのだが、文乃先輩がパタリとわざと音を立てるように本を閉じた。私は思わずそちらへと目を向ける。すると先輩がもう本をカバンにしまっていた。
「今日はもう、この辺にしましょう。妹来たら、面倒でしょう」
「ははっ……まぁ」
何と言っていいのかわからなかったから、取り合えず苦笑と愛想笑いで誤魔化す。私も手にしていた小説に栞を挟み、片付け始めた。そうしてスマホで時刻を確認すると、午後四時少し前。
立ち上がって机を片付ける。その最中も、私の心はある提案を言おうかどうか迷っていた。先輩の分も含めて五分かからず片付け終えると、ほぼ同時に床に置いてあったカバンを拾う。
私は下げていた視線を上げた時、じいっと先輩を見詰めた。文乃先輩はすぐにそれに気付き、微笑みながら小首を傾げる。
「あの、一緒に帰りませんか。途中まででいいので」
胸の鼓動が早くなり、身体が熱くなる。恥ずかしさと恐怖が私の中でかわるがわる顔を出す。変な意味じゃない。ただ、もう少しだけ文乃先輩といたかった。
「いいわよ」
「えっ、本当ですか?」
すると文乃先輩が突然笑いだす。
「美空さんから誘っておいて、何でそんなに驚いてるの?」
「いやまさか、こんなにすんなりオッケーされるとは思ってなくて」
「可愛い後輩の誘いだもの、断る理由なんて無いわよ。それとも美空さん、まだ私を勘違いしているのかな? だったらそのイメージを払拭するため、もっとお互いの事を理解しないとね」
二マリと笑う文乃先輩に私の胸は更に高鳴った。




