第十話~一緒の下校~
玄関を出ると運動部の声がより大きく聞こえた。中途半端な時間なのだろう、下校する生徒は見渡す限り、私達だけ。空は相変わらず曇っており、グラウンドからの砂埃が風に乗る。でもそれはそこまで強くないので、埃っぽい匂いが届く程度。目をつぶるまでも無い。
風がまた吹いた。今度は少し強い。文乃先輩の長い髪の毛が揺れ、風下にいる私に良い匂いを届けてくれる。香水の感じではなく、上質なシャンプーの匂い。その度に私の心は心地良い波に遊ばれているみたいだった。
文乃先輩と一緒にこうして歩けるだけで、私はもう今日ずっと抱いていた嫌な気分がどこかへ消えていた。五月半ばの風はまだ涼しく、心地良い。風が吹く度になびく先輩の長い髪の毛が綺麗で、思わず見とれてしまう。
「先輩って家に帰ってから、読書以外の趣味はあるんですか?」
けれど自分から誘った手前、無言で歩くのはどうかと思って質問する。そう、部室だと静かに読書をするだけ。だからこうして部室を離れ、私は先輩の事がもっと知りたかった。
「特には……無いかな。帰ってから二時間は勉強しないとならないし、読書もしたい。それから十分な睡眠時間を確保しないとならないからね。案外、家では余裕無いかも」
さらりとこの風のように言ってのけたけど、私は驚きでいっぱいだった。
「二時間も勉強してるんですか?」
「まぁ、小学生の時からの日課だからね。テスト前はさすがにもっと増えるけど」
テスト前とかならわかる。けれど何でもない日でもそんなに勉強してるなんて、ちょっと信じられない。私が目を丸くし続けていると、文乃先輩がすっと前を向いた。
「部活動を許されているのも、学年トップが条件なの。それに私、長女だからね。しっかりしなさいって言われているのよ」
「……厳しすぎません?」
親が立派だからなのか、それともそういう教育方針なのかわからない。でもトップから落ちたら部活もできないなんて、どう考えても酷過ぎる。
私が思わず眉根を寄せていると、新緑の匂いを乗せた風を浴びながら先輩が目を細めた。
「そうかもね。でも、私は恵まれていると思っている。親はしっかり稼いでくれて、何不自由していない。将来は自分も同じように稼がないとならないと思えば、その程度の対価を払うのは当然なのよ」
言ってることはわかるけど、理解できない世界だ。
「大人なんですね。私、勉強しなきゃとわかっていても、そんな風には思えません」
「そんな事無いわよ。私なんかまだまだ子供。今きっと全て自分でやれと言われてもできないし、そんな覚悟も無い。学校生活の中で勉強ができているから優れているように見えるだけ。社会に出たら、きっとまた違うと思う」
私は無言で大きく何度もうなずく。そう思える事こそが十分凄いけど、きっと何を言ったところで文乃先輩は謙遜してしまう。そんな先輩を見ていると、いかに自分がよりちっぽけで無力で甘えん坊なのだというのを実感する。
それでも文乃先輩と並んで帰っているだけで、無言の時間はあっても何かわかえりあえるような気がした。先輩の歩幅、視線、信号を待っている時の様子など部室じゃ得られないものばかり。
「美空さん、私このまま駅へ行くけど」
「私はバスなので、じゃあここまでですね」
学校の最寄り駅に着くと、それがお別れの場所だった。私達は道の端で立ち止まり、お互い向き合う。文乃先輩は何とも言えない表情で微笑んでいた。嬉しさなのか、寂しさなのか。でもきっと、私も同じ。
この気持ち、同じだったらいいな。
「美空さん、連日ごめんなさいね。雪奈にはよく言っておくから」
文乃先輩が少し悲しげな顔になり、小さく頭を下げた。私はそれをそのまま受け入れ、自分もそうする。
「そうしてもらえると助かります」
いつもの私なら、きっとここで終わりだった。でも今日はもう少し進みたい。そんな思いが一歩、先輩へと近付かせていた。距離が縮まったことに文乃先輩が少し驚くと、私は唇に力を入れて笑う。
「私まだ、文乃先輩と部活がしたいんで」
「私もよ」
いつまでもこうしていたい。甘い言葉とかそういうのじゃなく、しっかりとした言葉を伝え合いたい。でも、今日はもう時間切れ。ここでいつまでも話してたら、あの妹がやってくるかもしれないから。
そんな思いが先輩に伝わったのか、私を見詰めながら小さくうなずいてきた。
「それじゃあ美空さん、また明日」
「はい、また明日。文乃先輩、ゆっくり休んでくださいね」
先輩が駅舎の方へと歩き出す。、そうして少し離れてから振り返ったので、私は大きく手を振った。大袈裟かなと思ったけど、でも今は幼稚でも何でもいい。この元気を少しでも届けたかった。
すると先輩も小さく手を振り返す。胸の前でひらひらさせただけだったけど、それでもう十分だった。どこまでもお淑やかで、上品で、気遣い屋さん。やがて先輩が前を向いて人波に消えていくと、私は手を下ろす。
いつものバスを待つ時間が今日は少し切なかった。
自宅近くのバス停で降りると、家までは十分もかからない。少し冷たくなった風を浴びながら、とぼとぼと慣れた道を歩く。小学生の元気な声がどこからか聞こえてくるのを無邪気だなと冷笑しつつ、胸に未だ残る不安に目を向ける。
文乃先輩はあぁ言ってたけど、明日もあの妹が来たらどうしようか……。
先輩の事を信じて無いわけじゃない。でも先輩は優しいから、あんな気性の荒い子を言い聞かせられるだろうか。言いくるめられるか無視されるかの未来しか見えない。
「あぁもう、何でこんな事でモヤモヤしないとならないんだろう」
私はただ、文乃先輩と部活がしたいだけなのに。静かに本を読みたいだけなのに。
先輩が胸を押さえて苦しそうにしてたのも気になる。何か持病でもあるんだろうか。それとも先輩、繊細そうだからストレスの耐性が低いのだろうか。だとしたら私、結構きついお願いをしてしまったんじゃ……。
心の中に黒いもやが集まり、渦巻き、広がっていく。私はそれを跳ね飛ばすように立ち止まると、勢いよく空を見上げた。まだ眩しさ残る夕暮れの太陽に思わず目を閉じ、まぶた越しにそれを感じる。
負けない。
ただ一つの覚悟を固め、私はきゅっと拳を握ると再び前を向いた。もう視界の先には自分の家が見えている。




