第六話~読書環境~
帰り道の私のカバンはいつもより重かった。それは本一冊の重さだけではない何かが詰まっていた気がしたから。先輩の大切な本だからかもしれない。でも、それだけじゃなさそう。
そのせいか、いつもより帰り道が輝いて見えたような気がした。まるであの部室に差し込む光が、まだ私の周りに残っているかのように。
家に着いたのは夕方五時少し前だった。早速読もうかなと思ったけど、もうお風呂に入れとお母さんに急かされる。その後はすぐに晩ご飯になり、気付けばもう夜の八時半。私は足早に階段を上り、すぐ右手にある自分の部屋に入った。
普段なら自室でスマホを見ながらゴロゴロするのが日課。だけど私は本を読むと決めたのだ。それでもスマホを一度タッチして通知が来ていないかを確認する。一件あったけど、よくあるスパムメール。
スマホを机の上に置き、カバンから先輩の本を取り出す。黄色い表紙が少し可愛く見える。私はそれを持ってベッドに腰かけると、栞を挟んだページを開く。そうして二話目のタイトルを確認してから、そっと紐の栞をつまんで背に回した。
不思議な感覚だった。
次の話も読めるのかな大丈夫かなと心配しながら文字を追い、何とか頭の中に映像を作っていく。けれどそんな不安はすぐにどこかへ消え、気付けばひたすら文字を追っていた。
無音の世界。けれど頭の中は騒がしい。
少し前までは教科書に載っている小説だって、見ても何も浮かばなかった。けれど今はぼんやりとだけど主人公が立って、世界を見回し、動いている。相棒が情けない顔をして、叫んでいる。それが耳に響いているみたい。
この作者の表現が上手なのは当然として、何だか私も小説の世界に入る事を許されたような感覚に襲われる。今まで難しそうと一方的に嫌っていたのに、何と言うか引きずり込まれるかのよう。
物語の谷間に差し掛かり、少し疲れたなと顔を上げれば一時間経っていた。私は壁掛け時計を二度見し、本当なのかと眉根を寄せる。けれど幾らそうした所で、時間は変わらなかった。
私、こんなに集中して本を読めていたんだ。
感動と達成感、そして驚きが胸に広がり身体中をざわつかせる。そしてショート動画よりも圧倒的な情報量と解像度が頭を占めていた。
いつもはそれらを見てすごいな、バカだな、面白そうだなとクスリと笑う程度。だけど小説を知った私はもうきっと、戻れない。まだ今読んでいるのは結末まで見ていないけれど、ジェットコースターのように場面が変わり感情も上げ下げしている。
心が震えていた。
あと少しだから、結末まで読もう。私はそう意気込んで、もう一度本へと目を落とす。けれど一度中断してしまったからか、なかなかさっきよりも物語の世界に入り込めない。
それは私だけの問題ではなく、環境のせいもあるだろう。
お母さんの階段の上り下り、大きな音を立てて走り去るバイク。お酒を飲んだからかお父さんの頻繁なトイレの扉の開け閉め。その度に没入感が削がれる。そうしたイライラが私から読書を遠ざけ、きっとスパムメールだろうけど音を鳴らしたスマホに気を持っていかれた。
落ち着いて読めないな。
あと少しで結末がわかる。だけどこんな気持ちじゃ深い感動を生み出さないのはもっとわかる。それでも私は頑張って結末まで読んでみようと思ったものの、もう集中できそうもなかったので大きく息を吐いてから栞を挟んだ。
「おはようございます」
放課後、部室に行くと私は準備を始めていた先輩と一緒に椅子や机を引っ張り出した。そうしてすぐにカバンをそこに置いて小説を取り出すと、すぐに栞を挟んであったページを開く。
昨日読み終えた場面から少しさかのぼり、もう一度頭に鮮明な絵を描く。如月先輩が私を見ていた気がしたけど、それよりも私は続きが気になっていた。とりあえずこの話を読み終えてから色々話そうと思い、目を合わせない。
如月先輩も座り、カバンをあさる音がする。何をどうするのかわかっている私はもう目を向けようとも思わない。それよりも目の前の主人公が何を選択しどう動くのか、それだけが気になっていた。
運動部の掛け声が遠くから聞こえる。今日は少し風が強いから、甲高くうねる風の声も強い。けれどそれらもいつしか消え、しんとした空間となる。聞こえるのはページをめくる音だけ。だけど頭には主人公が目の当たりにしているビルの倒壊音が響いていた。
栞を挟み、パタリと本を閉じた。ふうっと一つ息を吐き、ラストシーンをもう一度頭の中で思い起こす。その余韻に浸っている私の頬は自然と緩んでいた。
思い出したように如月先輩を見れば、先輩も黙々と読書をしている。ただ、やっぱり綺麗だ。差し込む陽光が直接当たりはしないものの、その余韻が部室を黄金色に染めている。そんな中で静かに本へ目を落とし、白く細い指先でページをめくる姿は正に文芸部そのもののような気がした。
なんだかいいかもしれない。
激しい感情は無いし、心震える音楽や会話も無い。むしろそれらとは真反対のこの場所。少し前までは眉をひそめていただろうこの状況も、今は何とも言えない落ち着きと静かな幸福感で満たされている。
「あら、読み終わったの?」
ぼうっと部室を眺めていると不意に如月先輩に声をかけられ、私はびくりと肩を震わせた。そしてすぐに笑顔で小さくうなずく。
「二話目、読み終わりました。最後、ビルが崩れてもう終わったと思ったら実は撮影でしたってのが面白かったです。その後の現実が逆に怖くて」
「結局現実が一番怖いのよね」
同意するように静かにうなずくと、私はふうっと胸の中に溜まっていた重苦しい息を吐き出した。
「……本当は昨日、家で二話目を読み切るつもりだったんですよ」
苦笑し、目を伏せる。そうして昨夜の事を思い出してから、もう一度私は如月先輩の目を見た。
「でも、家じゃ集中できなくて。少し読んでいたら、洗濯機の音とかトイレに行く足音とか妙に気になっちゃって。あと三ページだったんですけど」
「清水さんは自分の部屋はあるの?」
「はい、あります。でも、物語に集中しようとすると壁が薄いからか妙にうるさく思っちゃって。今までそんな風に思った事は無かったんですけどね」
すると如月先輩が目を細め、慈しむように大きくうなずいた。
「そうなの。自分の世界に集中しようとしていると、特に読書だとやたら外の世界の音が気になるのよね。だから私、この部を作ったの。ここなら、静かに読めるから。図書館も静かだけど、あそこは人の入れ替わりもよくあるから落ち着かないのよね」
「今なら先輩が言ってた意味がわかるような気がします。読書をする環境って大事なんだって」
満足気にうなずく如月先輩の顔は部室の端を照らす陽光と同じく、眩しかった。それは同性である私の胸を大きく跳ねさせるのに十分で、一度きりでは終わらせてくれそうもない。甘い痺れが胸から指先まで伝わり、そのせいか先輩のまつ毛の長さ、唇の艶が気になってしまう。
気まずくなり、つい視線を逸らす。それが会話の終わりと捉えたのか、数秒の沈黙の後で如月先輩が再び本を手に取るのが見えた。私もこの鼓動がバレないようになるべく自然に小説へと手を伸ばす。




