第十七話~静かな部室の訪問者~
翌日、放課後になって部室に行ったけど先輩はいなかった。
昨日の今日だ、それも当然だろうと思いながら私は二人分の椅子と机を引っ張り出す。どうせ今日は来ない。わかっていても、わずかな可能性に賭けた。ありえない希望のため、準備をする。どうせ大した準備じゃないのだから。
先輩から借りた本をカバンから取り出し、椅子に深く座るともう一度入口を見る。未練がましいとわかっているけど、数秒見詰めてしまう。そうして私は少しだけ視線を落としつつ、紐の栞をつまんだ。
思えば最初に部室に来た時には本を読むなんて考えられなかった。先輩から勧められても、読める気がしなかった。だけど今、私は一人で本を読んでいる。読書を楽しいと思い始め、目の前の文字を頭の中の映像に置き換えられている。
少し前まで考えられなかった私。
けれど読んでいても、入口のドアが開くのを今か今かと待っている。正直、集中なんかできていない。今だってこんな事を考えつつ、カラカラとドアが開いて申し訳無さそうに文乃先輩が現れるのを待っている。
救急車とか大袈裟だよと私を軽く非難し、少しだけ唇尖らせた文乃先輩の顔が目に浮かぶ。そしてすぐ、でもありがとう嬉しかったよなんて目を細める都合の良い妄想も浮かんでは消える。
夕方五時まで待ちながら読書をしていたものの、やはり文乃先輩は現れなかった。
私はカバンに小説をしまうと、椅子や机を片付けていく。もう来ない。わかっていても一人で本を読んで、疲れてから後片付けをするのは面倒だった。
静かすぎる部室に差し込む光が周囲を照らす。私は帰る前にもう一度部室をぐるりと見回した。少し埃っぽいガラス戸が陽光を反射し、その近くでキラキラと埃が舞っている。どこか幻想的で、同時にきっとこの光景が私の人生の一ページとして刻まれるのだろう。
文芸部、か。
でもやっぱり一人だと寂しい。文乃先輩がいないと、狭いはずの資料室がやけに広々と見える。黙って読書をしているはずだけなのに、いないとやけに寒々しく不気味。学校で使われていない部屋を無理矢理あてがわれたというのが、今更ながらに実感する。
もう一人か二人、部員が欲しいな。
先輩が戻ってきたら相談しよう。私がいなくても、文乃先輩がいなくても、誰かいれば安心できるような部室にしたい。ただ黙って本を読むだけだけど、寂しくはなりたくない。
こんな事を考える私はもうすっかり、立派な文芸部員なのかな。
「美空、知ってる?」
ついつい夜更かしして寝不足気味で教室に入るなり、早矢が駆け寄ってきた。私はつい不満気に顔をしかめてしまう。
「何を?」
「如月先輩、救急車で運ばれたでしょ。今ね、入院してるみたいだよ」
「そうなの?」
一気に目が覚めた。私がぐっと早矢に顔を近付けると、早矢が得意そうに笑う。
「漫研の先輩から聞いたんだ。一昨日、美空が救急車呼んで先輩運ばれたでしょ。あれから学校休んでるみたいでさ。って美空、そう言えば同じ部員なのに連絡先とかもしかして知らないの?」
「……うん、知らない」
私は気まずくなり、視線を落とす。
「え、だって結構部活に行ってたよね。連絡先交換してないの?」
「だって別に聞かれなかったし、こっちから聞きにくかったし……。部室に行けば先輩に会えるから別にいいかって思ってて。それに部活の最中、ほとんど喋らないから。ひたすら本読んで、時間になったら帰るだけだったから」
さすがにスマホは持っているだろうけど、誰だってあんなに美人な人に連絡先を教えて下さいなんて切り出しにくいだろう。下心あるなし関係無く、だ。
「えー、じゃああれから先輩と連絡取ってないの?」
大袈裟に早矢がそう言うけど実際どうにもできていないから、うつむくようにうなずく事しかできない。
「ねぇ早矢、漫研の先輩に聞いてもらえないかな。どこの病院に入院しているのかって」
「難しいと思うよ」
すがるようにお願いしてみたものの、返ってきたのは渋い顔と答えだった。
「先輩達が言うには如月先輩って近寄りがたい感じで、あまり誰かと親し気に話してるの見た事無いんだって。私も見た事あるけど、確かにすごい美人でオーラもある感じだよね。てか美空、よく如月先輩と二人きりで部室にいられるよね」
言ってることは間違っていないけど、みんな文乃先輩とちゃんと話していないからか誤解している。面倒見が良くて世話焼きで、ちゃんと孤独を寂しいと捉えている人なのに。
「私も最初はちょっと圧倒されたけど、でも話してみたら話しやすい人だけどね」
本当の先輩を知ってもらいたい反面、あのイメージが崩れると先輩に押し寄せる人が増えてストレスになるかもしれない。人が増えれば意にそぐわない人だって絶対出てくるものだから。
「それでも私はちょっと無理そう」
きっと早矢の感覚が正常なのかもしれない。私はもうこれ以上いかに素敵な先輩かとアピールするつもりもなかったので、愛想笑いで会話を閉じる。
「しかし困ったなぁ。じゃあ誰も入院先わからなさそうだね」
「というか最近じゃ面会も制限かかってて、簡単には会えないらしいよ。身内だって難しいとこもあるみたいだから」
絶望的な気持ちに、更に追い打ちがかかる。どうにかして入院先を知れたとしても、学校の先輩後輩じゃ難しいのかもしれない。こうなるともう、退院を待つしかないのだろう。
それがいつになるのか、文乃先輩は無事なのか。わからない事だらけで私は思わず腕組みをしてから大きく息を吐いた。
無事ならそれでいい、いつか会えるから。でも、重症だったらどうしよう。このまま会えなくなるのだろうか、大事にしたくないと言っていたのにそうしてしまった私を恨んでいるのだろうか。
一言でいいから、聞きたい。恨まれているのなら、それでもいい。ただ一目見たいし、一声聞きたかった。
放課後、どうせいないのなら帰ろうかなという考えがよぎったけど私の足は部室へと向いていた。家に帰ってもどうせやる事無いし、読書をするには落ち着かない。
それに私は文芸部の部員。部長がいないのなら、部室を守るべきだろう。
いつものように私は二セット分の椅子と机を用意する。それは文乃先輩がいつ来てもいいように、そして私の心の平穏のため。
準備を終えると私は机の上にカバンを置き、小説を取り出す。そろそろ借りた小説も読み終わりそうだ。そろそろ自分で買うべきだろう。本屋か……正直雑誌か漫画を買いに行った事くらいしかない。
大丈夫、難しく考える必要なんか無い。行けば何とかなるし、もし自分で面白いものと出会えれば文乃先輩に教える事だってできる。そうしたら驚くだろうな、喜ぶだろうなぁ。
読み始めて幾らも経たないうち、カラカラと静かにドアが開かれた。
先輩、来たのかな?
私はすぐに本を伏せ、顔を上げる。だけどすぐに希望は落胆へと代わり、私の顔が曇る。
「やっぱりいた」
そこに立っていたのは妹だった。どこか呆れたような第一声に私はこれ見よがしに大きな溜息をつく。どうせまた悪態を言いに来たのだろう。本当に面倒臭い人だな。
「部員だもの。それで、何の用?」
「何の用って」
けれど今までと違い、そこで言葉を止めるとすっと視線を外した。これまでと違い元気が無いと言うか、しおらしいと言うか。とにかくそんな様子に身構えていた心が肩透かしを食らったような気分になったけど、今までの事があるのでまだ警戒が解けない。
妹はどこか不貞腐れたように息を吐き、床に視線をさまよわせている。ほんと一体何のために来たのだろう。もう無視して読書に戻ろうかな。
「あのさ、暇だったらお見舞いに来て欲しいんだけど」
やっと絞り出された言葉に私は自分の耳を疑った。半分ほど下がっていたまぶたが大きく開き、彼女の顔を見る。渋々と言った感じがやけにリアルで、嘘をついたりしているわけではなさそうだった。
「お見舞いに?」
「そう」
素っ気なく答える妹に私はまだ信じられなかった。けれど妹はどこかうかがうように私を見ている。唇をキュッと結び、両手は身体の横で握られていた。
「え……いいの?」
私はわずかに体を前のめりにし、その眼を見詰める。何があってこんな事を言い出したのかわからないから、まだ怖い。もしかしたら文乃先輩が思っているよりも重症で、かなり危ない状況なのかもしれない。そんな妄想が浮かび、背筋を冷たく撫でる。
すると妹はまた私から視線を外し、唇をより強く歪ませた。
「お姉ちゃんが呼んでるから」
「先輩が?」
呼んでるって事は意識があるのだろう。最悪の想像が一旦頭から離れたものの、今までの言動を思えば妹が素直にそれに従うはずない。と言う事はやっぱり、かなり悪い事には違いないのだろうか。
「ずっとね、アンタに会いたいって言うのよ。私が何を言ってもね、悲しそうな顔をするだけなんだ。悔しいけど、私じゃもうどうにもできないから」
きっと心から悔しいのだろう。涙目になり、身体を小刻みに震わせている。その姿に私はざまぁみろとか今までの報いだとか、そんな風には思わなかった。ただあれだけ気が強かったのにどうしてそれを受け入れたのか、それがわからなかった。
「何で急にそんな風に思ったの? 今まで私が文乃先輩と一緒にいたら私が何を言おうが、先輩が何を言おうが反対してたじゃない。どうして急にまた」
単純な疑問を伝えたかっただけなのに、今までのことがあったからかどんどんと責めるような棘のある言い回しになってしまった。それが妹の頭を重くさせたのか、ぐぐっとうなだれていく。
「救急車で運ばれた後、聞いちゃったんだよね。もう少し遅かったら障害が残っていた可能性があったって。私、あの時何もできなかった。お姉ちゃんも大事にしたくないって言ってたから、先生とか呼べなかった。もしあの時アンタがいなかったら……」
重苦しい溜息が床に垂れ広がる。それが床に染みて消え去った後に残ったのは静寂。
何をどう言えばいいのかわからなかった。慰めるにしても慰めたくなかったし、勝ち誇るなんて先輩が入院しているからできない。それに今更しようとも思わない。私は妹の方を向くけどどこにも焦点を合わせず、ただ時間が過ぎるのを待つばかり。
今、何を言っても間違えそうな気がしたから。
「それで、お見舞いどうするの? 行くんでしょ?」
沈黙を破ったのは大きく鼻をすすった妹だった。目の周りを濡らしながらもキッと強い眼光を向けるのはやっぱり彼女らしい。
「もちろん行くよ」
私は伏せてあった小説をすぐにカバンにしまうと、勢い良く立ち上がった。




