第十六話~サイレン~
部室の空気は最悪だった。呻く先輩、不満気に舌打ちを何度もする妹、そして早く時間が経たないかと苛立ち紛れの深呼吸を繰り返す私。きっとまだ一分も経っていない。晴れているはずなのに部室がどこか暗いのは人が多いせいだろうか。
「美空、さん。お願い、手を……」
か細い文乃先輩のお願いに私はすぐにしゃがみ込み、また左手をそっと包んだ。いつもより冷たいその手は相変わらず綺麗だけど弱々しく、子供のよう。けれどこうすれば、以前は治まった。私は祈りにも似た感じでその手を包む事しかできない。
そんな私達に向けられる強い視線。直接見なくてもわかるくらいの圧が棘となって降り注ぐ。
「どうかしてるよ、お姉ちゃん。こんなヤツにお願いとか」
握っている左手がきゅっと縮こまる。苦し気な吐息の中に悲しさが溢れていた。
「雪奈、お願いだから……そんな事言わないで……。美空さんは大切な、部員なんだから」
「だからさぁ」
声を荒げ始めた妹に文乃先輩がまたぎゅっと目を閉じた。私はもう我慢できず、ぎろりと睨みつける。
「静かにしなよ。先輩、ストレスかかると苦しくなるの知ってるんでしょ。大声出したら、余計に苦しくなるでしょ」
「何よ、偉そうに」
妹はそれでも声を押さえ、舌打ちしながら視線をそらした。態度はともかく、とりあえずこれで良い。少なくともここは静かな場所でありたい。それは文乃先輩がずうっと望んできた事だし、私も最近それに協力したいと思っているから。
再び静かになった部室だったけど、文乃先輩は相変わらず苦しそうに胸を押さえて時折強く目を閉じている。私は心配そうに見詰めていたけど、そろそろかなと思って再びスマホを取り出した。
「時間過ぎました。先生呼んできますね」
あの時から七分が過ぎていた。私はわざと冷たい口調でそう告げ、すっと先輩から手を離す。すると文乃先輩は目を開き、どこか泣き出しそうな顔で私を見詰めながら左手を引っ込めない。私は強い罪悪感に胸を刺されながら、その手に私の手を伸ばさない。
「待って。もう少しで、治まるから。もう少し、で……」
すがる文乃先輩に私は眉間にしわを寄せ、立ち尽くす。奥歯を噛みしめ、手を伸ばしたい気持ちを必死で抑えるのに苦労しつつ、これは先輩のためだと自分に言い聞かせる。
「いえ、駄目です。文乃先輩の事が大事なので」
私はすっと文乃先輩から離れると数歩進んで部室のドアを開き、急いで閉めると小走りで一階の保健室へと向かった。
廊下には他に生徒もいない。私は徐々にスピードを上げていく。普段運動しないし足も速くないから、もどかしい。息を切らしながら階段の所を曲がろうとした時、思わず滑って横向きに転んでしまう。
「いったぁ」
グラウンドとは違い、上履きで廊下を走るとこんなにも滑るものなのか。こんなにも全力で学校の中を走ったことがなかったので、知らなかった。肘と膝がじんじんと痛むけど、すぐに立ち上がって階段を駆け下りる。
あぁ、走りにくい。もどかしい。
踊り場でまた転びそうになったけど、手すりをつかんでこらえる。ドタドタと不格好な音が響き、上ってくる生徒とすれ違った時にギョッとされた。けれど私はかまわず一階に降りると、また全力で保健室へと向かう。
「おい、廊下走るな」
玄関の辺りにいた理科の先生が私を見るなり大声で注意してきた。私は勢いを止めず、先生の方を向く。
「急病人なんです!」
そう叫んで前を向いたので、先生がどんな顔をしていたのかもうわからない。肺が焼けるように苦しく、足が重だるくなってきた。それでも出来る限り全力で保健室へと向かう。
そうしてやっと辿り着くと私は滑るようにブレーキをかけ、少し勢いよくドアを開いた。
「先生、急病人です。来てください」
保健室の中には何人かの生徒達がベッドで寝ていたため、ドアを開けた時に保健室の先生に睨まれた。けれど急病人と訊き、真剣な顔をしながら立ち上がる。
「急病人? どこにいるの?」
「二階の、資料室です。二年の如月文乃さんが胸を押さえて苦しがっていて、動けないんです。早く、お願いします」
荒い呼吸の中で何とか言葉を振り絞る。きっと私は今、すごい目をしているのかもしれない。保健室の先生は硬い表情のままうなずき、他の生徒に少し出るからと告げると私と一緒に廊下へ出た。
「何事ですか?」
先程の理科の先生が合流すると、保健室の先生が事情を説明して一緒に来てもらえないかとお願いする。わかりましたと言いながら三人で小走り気味に部室を目指す。私は正直もう息も切れて動きたくなかったけど、そんな事を言ってる場合じゃない。
走り続けないといけない時がある。それが今なのだから。
「如月さん、大丈夫?」
二階の部室のドアを開けると、文乃先輩がまだ青い顔をしてうずくまっていた。保健室の先生がすぐに駆け寄り、理科の先生が周囲を見回している。妹は事態の深刻さに先程までの顔はすっかり消え失せ、泣きそうな顔でオロオロとしているばかり。
「はい、大丈夫です」
まだ苦しそうな文乃先輩がそう答えると、保健室の先生が傍にしゃがんだ。
「症状は? 胸が苦しいの?」
「そうです。胸と背中に強い痛みがあって、息が苦しいです。いつもは少しすれば治まるんですけど……」
「苦しくなってどのくらいになるかわかる?」
目を閉じ、ふるふると力なく文乃先輩が首を横に振る。額には汗で髪の毛が張り付いており、あの綺麗な髪が乱れているのが体調の悪さを示していた。私はすぐにスマホを取り出し、時刻を確認する。
「十五分くらいだと思います」
私がそう言えば保健室の先生が顔を向け、わかったとばかりにうなずいた。
「松木先生、救急車を呼んでもらえますか」
「わかりました」
すぐに先生がスマホを取り出し、救急車に連絡を取る。文乃先輩は再び目を開けると少し恨めしそうに私を見、やがてうなだれた。嫌われたのかもしれない、憎まれたかもしれない。そんな後悔が私の胸をえぐる。
でもすぐに心の中で振り払う。私は間違った事をしていない。もしぐずぐずと迷い、先輩の要望に従い続けて悲劇になるよりましだから。
「お姉ちゃん、ねぇ大丈夫? お姉ちゃん」
妹が涙目になり、しゃがみ込むと文乃先輩の手を握った。すると先輩は胸に当てていた手を離し、そっと妹の頭を撫でた。
「大丈夫、だから。心配しないで」
「ねぇ、私のせい? 私が大声出したから?」
「ううん、違う。雪奈は私を心配してくれてたんでしょ。だから、何も悪くないの」
するとまた、うぅっと呻き文乃先輩が撫でていた手を胸に戻す。保健室の先生と妹が同時に顔を寄せた。
「救急車、もうすぐ来るそうです。私は玄関の所で待っていますね」
そう言うと理科の先生が部室を出た。私はもう汗が冷えて背中の気持ち悪さもそのままに、黙って立ち尽くすばかり。もう何もできないからこの場にいても意味が無いのかもしれない。私の役目は終わったのだろう。
それでも、部室から出られなかった。出れば文乃先輩を見捨てるのと同じような気がして、動けない。私が事を大事にした、だからその結末を知らなければならないのだろう。
「美空、さん……」
か細い先輩の呼びかけに私は頬を叩かれたような勢いで見る。文乃先輩は私と目を合わせ、苦しさなのかきゅうっと眉根を寄せた。切なそうな顔は恨めしそうにも、救いを求めるようにも見える。
「ごめんなさいね」
それが何に対して謝っているのかわからなかった。だから私は何も言えず、どうにも反応できず、ただ黙って唇をきゅっと結んで立っている事しかできない。目を伏せ、訳知り顔で。
どうしようかと考えていると、サイレンが近付いてくるのに気付いた。




