最終話~またあの部室で~
病院へは電車とバスを乗り継いで行った。あまりお財布にお金を入れていなかったのでドキドキしていたけど、病院に着くと何とか帰れるくらいは残っていたので肩から力が抜ける。異様にトゲトゲした感じが無くなったとはいえ、さすがにこの妹からお金は借りたくなかった。
着いたのは市で最も大きな大学病院だった。存在は知っていたものの行く機会なんか無かったため、その敷地の広さと病院の大きさに圧倒される。風邪を引いた時に私がいつも通うクリニックの何倍の大きさなのかわからない。
ここ、一人で来たとしても無理だったかも……。
私が戸惑っていると、妹は無言で進む。けれどその歩みは私を意識してくれているからか、速くなかった。
正面玄関から入れば見渡す限り人の海。パジャマ姿の人、点滴棒を引き連れている人、具合が悪そうな女の子が心配そうな母親、顔をしかめているおじさんなど色んな人がいる。二階まで吹き抜けで天井が高く、院内にはスタバも入っているのに驚いてしまう。ここは本当に病院なのだろうか。
「こっち」
ぼそっとした呟きに我に返ると、私は妹と共に先へ進む。大きなロビーを抜けて右側に進むと今度は左に曲がる。まるで迷路だ。行き交う看護師さん達がせわしなく歩き回っている中を私達は進んでいく。
そうしてエレベーターに乗り、五階に着いた。妹はスタスタと歩く中、私は遅れないようにしながら周囲を見る。どうやらここは入院している人達専用の階らしい。ナースステーションの周りには色んな部屋があり、下の階に比べてパジャマ姿の患者が多い。
やがて五〇八号室と入口に書かれた部屋に前に立つと、妹が静かに私の方へ振り返った。
「いいって言ったら入ってきて」
私がうなずくと、妹が静かにドアを開けて滑り込むようにして中に入った。そうしてすぐにまたドアから顔を出すと、入ってきてと言われたので私はなるべく音を立てないようにして中へ入る。
この緊張感、初めての図書室以来だろうか。
そこは広々とした個室だった。部屋の中央にベッドがあり、他のベッドは見当たらない。そしてそのベッドで病院支給のパジャマを着た文乃先輩が上半身を起こし、こちらを見ている。腰から下は布団がかかっており、つい先程まで横になっていたのがわかった。
「来てくれたんだ、嬉しい。雪奈、ありがとう」
「別に」
褒められ照れ臭いのか、妹がついっと視線を外しベッドから数歩離れた。久々に見た文乃先輩はやっぱり顔色がどことなく悪く、疲れたような表情をしている。それでも私と目が合うなりにこりと笑いかけてくれた。
「あの、文乃先輩……大丈夫、ですか?」
「えぇ、まぁ。心配ばかりかけて、みんなに申し訳ないけど」
そう言いながら布団を剥がし、身体をこちらに向けてきた。そうして立ち上がろうと足元のスリッパを履こうとしたので、私と妹がほぼ同時に手を前に出して制する。
「寝てて下さい。起き上がらなくていいですから。そのままで」
しゅんとした顔で文乃先輩が動きを止め、渋々またベッドに横になった。
痛々しい病院のパジャマ姿に少し乱れた髪。可哀想だなと思いつつも、普段見られない文乃先輩の姿に私は希少さからか胸がわずかに高鳴っていた。
「それじゃ私、ちょっと用があるから出てるね」
妹はそう言い残し、病室から出ていった。私達はその背を見送ると顔を見合わせる。
「何だか気を遣わせちゃったかしら」
「でも……正直、ありがたいです」
大人しくなったとは言え、いれば話していても気を遣うし、何を思われるかわからない。折角ここまで来たのに、表面的な会話で終わるのは嫌だった。私は近くにあった丸椅子を持ってくると、ベッドの傍に置いて腰かける。
再会した喜びよりも、目の前の姿に痛々しさが突き刺さった。
「先輩、ずっと心配してました。大事にしないでって言ってたのに救急車呼んじゃって、ごめんなさい」
まず私が頭を下げる。これはずっと胸に刺さっていた棘。許してもらおうという思いももちろんあるけれど、それより単純に吐き出したかった。それから先輩の優しさに甘えたかった。
「いいの。むしろ助かったの。あのままだったら私、障害を負ってた可能性が高かったみたいだから」
文乃先輩が儚げに微笑むと、少し救われた。
同時に自分のずるさが恥を生む。文乃先輩なら絶対そう言うと知っていた。あの時のお願いを無視した事を無かった事にし、結果だけで褒められたかったんだ。
だけどこうでもしないと、私は前に進めない。だから私は精一杯の笑顔でうなずいてみせた。
「じゃあ、今はそういうの無いんですよね」
「えぇ、そうね。あの時は本当にありがとう」
ふうっと疲れた感じで先輩が息を吐く。あれからここでずっと横になっていただろうに、まだ調子が悪いのだろう。
「冠攣縮性狭心症って言う、まぁストレスによる胸の持病をずっと抱えていたの。今は少し落ち着いているから、平気。ただずっと寝てばかりだから、体力落ちちゃったかな」
聞き慣れない病名だけど、やはり強いストレスが原因だというのだけはわかった。
「私よくわからないんですけど、それって大丈夫なんですか?」
「酷い時には心筋梗塞を発症したりするのよ」
それは聞き覚えがあったため、私は思わず目を丸くした。心臓が止まって死ぬ病気だったはず。私はもう一気に悲しくなり文乃先輩に顔を近付ける。
「私のはそこまで酷くないから大丈夫。今まで薬も飲んでいたし。ただ、今回はちょっと強いストレスが一気にかかり過ぎちゃったみたい。私、体質的にストレスを感じやすいみたいで」
そう言いながら文乃先輩が自分の手首にそっと手をあてた。その姿、度々見た事がある。
「軽い時はね、こうして自分の脈を計るの。こうしているだけで落ち着く効果があるらしいから、おまじない代わりにいつもやっていたのにね」
部室で時折そうしている姿はお淑やかな先輩の象徴に見えた。でも、違った。必要に迫られ、自分の身を守るためにしていたんだ。
「でも、今回のは誰が悪いわけじゃないの。美空さんはもちろん、雪奈も責めないで欲しい。あの子はただ、私を心配していただけ。それが行き過ぎてあぁなっただけ」
すると文乃先輩は小さく笑いだした。私はそれが何を意味するのかわからず、ただじっと真顔でいるばかり。
「あの子、ずうっと私にベッタリだったの。だからきっと、美空さんに私を取られると思ったのかもね」
そう言われても愛想笑いしかできない。ただ、悪い気はしなかった。
「文乃先輩、本は読んでいないんですか?」
私は枕元はもちろん、テレビが置かれている棚の側に小説が一冊も置かれていない事に気付いた。そこだけのみならず窓辺や洗面台の方を見ても、それらしいものは見当たらない。
「取り上げられちゃったのよ。ずうっと読んでいて、身体に悪いからって」
苦笑する先輩に私はなるほどなとうなずく。こんなに娯楽の無い場所で、ましてや一人きりなら文乃先輩の場合ずっと読書にふけるだろう。息抜きならともかく、そうでないくらい読んでいればそうされてもおかしくない。
だから私も思わず遅れて笑ってしまった。
「読み過ぎですよ」
「環境としてはかなり良いから」
くすくすと二人とも笑い合う。あぁこの感じ、まるで部室のよう。私はもう胸がいっぱいになり、一頻り笑うと目を細めたまま文乃先輩を見詰めた。
「私、ここ三日くらい一人で部室にいたんです」
それは単なる報告のつもりだった。いや、もしかしたらわずかにちゃんと部活をしている私を褒めてもらいたかったのかもしれない。文乃先輩は少し嬉しそうな顔をしたかと思うと、すうっと目を伏せる。
「そうなんだ……ごめんなさい、顔を出せなくて」
だから私は大いに焦った。そんなつもりじゃない、困らせたり悲しませたりするつもりじゃないと。胸が痛み、血の気が引く。慌てて胸の前で手を振り、意図しているものとは違うとアピールするばかり。
「あぁ、いや、そういうわけじゃないんです。ただ、落ち着く場所だなぁって読書してて思って。色んな……くさいかもしれないけど、青春の音が響く中で静かに読書して」
もう自分で何を言っているかわからないけど、とにかく必死だった。ただ一生懸命、あの場所が素敵だと伝えたかっただけ。
文乃先輩が作り、守ってきたあの部室を。
すると先輩がその意を汲んでくれたのか、表情が和らいだ。
「わかるわ、それ。だっていつも私、美空さんが来るまではそうだったから」
私の言いたい事をきちんと言語化してくれた文乃先輩はやっぱりすごい。だからこそ、きっともっとあの場で私が感じた空気をよりハッキリと受け取っていたのだろう。
ずっと。
「でも、寂しかったです」
私の素直で、偽りのない気持ち。すると文乃先輩は唇をきゅっと閉じた。
「読書って一人でするものじゃないですか。だけどあそこに文乃先輩がいないのは何だか落ち着かず、寂しかったです」
「美空さん……」
文乃先輩の眉に力が入り、視線が下がる。悲しそうな、切なそうな表情の先輩を見て、私は何も言えなかった。
その気持ちが痛いほどわかるからこそ、下手な慰めや同意は軽い扱いをしていそうで言えない。そうなったらもう、何を言えばいいのかわからない。あぁ、私がもしもっと語彙力や読解力があれば、気の利いた言葉も言えるのに。
もっと本を今まで読んでいたのなら、素敵な言葉をかけられるのに。
互いの呼吸も聞こえない、しんとした静寂。窓の外の音も、廊下からの音も聞こえない。もしかしたらちゃんと音があるのかもしれないけど、私と文乃先輩との一メートルにも満たない空間が全ての音を吸収しているかのようだった。
どのくらいそうしていたのだろうか、ふうっと文乃先輩が息を吐いた。それが薄いガラスの膜のようになっていた静寂を壊す。
「私もよ。美空さんと出会ってから、一人だと寂しくなった。ううん、もしかしたらずっと寂しかったのかもしれない」
すると文乃先輩は天井を見上げた。とても疲れたような、どこか諦めたような顔で。
「何だかみんな、腫物に扱うように私に接していた。読書が趣味で、勉強だって嫌いじゃないなんて変わっているのかもね。身体の事や親の事もあってか、先生達の気遣いがすごかった。だから余計に、距離を置かれた」
文乃先輩の口から語られた孤独は痛ましいと思いつつも、どうしてそうなったのか痛いほどわかった。美人で頭も良く、ずっと本を読んでいて先生の態度が他より少し違う。そんな人とどうして気軽に接しようなんて思えるのか。
「でもね……そんな中、美空さんが入ってきたの」
天井からゆっくり私の方を見て視線が合わさった時、文乃先輩は微笑んでいた。私は急に名前を出された事もそうだったけど、その先輩の顔がすごく儚げで美しく胸が跳ねる。
「驚いたわ、読書って何が楽しいんですか? ショート動画のが楽しいでしょうなんて私に言ってきた人、初めてだったから」
クスクスと笑う文乃先輩に私はもう過去の私の頭をつかんで下げさせたかった。でもそれが叶わないので、申し訳無さそうに頭を下げるしかない。
「いや、まぁ……あの時はすみませんでした」
そうして顔を上げた時にチラッと文乃先輩の目を見れば、キラキラ輝かせながら細めていた。
「嬉しかったのよ、本当に。あぁ、この人は何のフィルターも無く私を見てくれてるんだって。それで、興味を持ったの。一緒にいたいなって、本当に純粋に思えたの。だから自分でも初めて、熱心に勧誘させてもらったのよ」
文乃先輩にそう思われていた事が嬉しくて、恥ずかしくて、気持ち良くて、身体が熱くなる。口元が緩みそうになり、手足の先まで熱が滾っていく。
私は思わず視線を外しかけたけど、素直な心を見せるなら今しかないと覚悟を決めて文乃先輩の目を見る。
「私は本を読んだ事なんてほとんどなかったけど……部室で静かに本を読んでいる文乃先輩がすごく綺麗で、思わず見惚れちゃいましたね。すごく、美しくて。だからまぁ、変な話……こんなすごい美人さんと話せるなら、通おうかなって。最初はそんな気持ちでした」
「え、待って……綺麗? 何言ってるの?」
目を丸くした文乃先輩がすぐに、それを泳がせる。私は一瞬わけがわからなかったけど、すぐに自覚していないんじゃないだろうかと思い至った。そうじゃなければ、照れ笑いでありがとうとでも言うはずだから。
だから私はつい、小馬鹿にしたような言い方になってしまった。
「いやだから、綺麗だって。文乃先輩、凄い美人じゃないですか。髪も艶あって目鼻立ちも整っているしスタイル良いし。私からしたら羨ましいですよ。まさか自覚ないなんて言わないですよね。だからこそ、みんな距離を置いてた大きな理由なんですよ」
「そんなの……真正面から言ってきたの、美空さんだけよ」
先輩はふいと私に背を向ける。
けれど耳が赤かったのを私は見逃さなかった。もうそれは時期外れの紅葉のように真っ赤で、私は思わず笑ってしまう。文乃先輩はそれでも背を向けたまま。
でももうよかった。だって元気な文乃先輩の姿が見れたのだから。
「それじゃあ、あまり長居するのも悪いので今日はそろそろ」
静かに立ち上がると、すぐさま文乃先輩が身体を反転させて私の方を向いてきた。まだほの赤い顔はどこか必死に、すがるように私を見ている。
「もう? まだ少し、いてもいいのに」
けれど私はゆっくりと首を横に振った。
「たくさん話したい事はありますけど、病院だと気を遣うので。だから、部室でお願いします。足りなければ、帰り道でも」
ふわっと文乃先輩の顔が和らぐ。それはまるで窓から差し込む黄金色の陽光のよう。いや、それよりもずっと眩しかった。
「そうね。あぁ、やりたい事が沢山できちゃった。こんな所でいつまでも寝てるわけにはいかないわね」
「そうですよ、部長」
同時に笑った時、文乃先輩の顔はいつもの部室で見たあの顔だった。




