第十三話~もう少しだけ~
文乃先輩の浅い呼吸音だけが部室に響く。午後の陽光は雲の影響か、私達から少し離れた場所を照らしている。少し影になった私達だけど、今はそれでよかった。もし先輩に陽が降り注げばきっと、更に体力を奪うだけだから。
時計を見ていないから正確にはわからないけど、やがて少しずつ先輩の呼吸が落ち着いてきた。長くゆっくりとしたものへと変わり、眉間のしわも浅くなりつつある。峠を越えたのだろうか。私は嬉しくなるのと同時に、必死につないでいた手がじっとりしている事に気付く。
手汗なんかつけたらヤバい。そう思って静かに両手から力を抜き、一旦手を拭こうとした時だった。
「もう少し、このままで」
弱々しく握り返して来た文乃先輩の手は少し湿っていたけど、それを汚いとか一切思わなかった。ただただ求められ、離れたくないと思われているのが嬉しくて恥ずかしくて、私はほんのわずかに口元を緩ませる。
そしてすぐ、胸が甘く疼きだす。これはそういうのじゃないし、今じゃない。そう思いつつも、この手から伝わる感触と熱に抗えない。だって手を繋ぐなんて、友達でもそうそうあるものじゃない。ましてや先輩、しかもこんなにも美人の。
良くない思いと不可抗力だからという言い訳が私を無理矢理納得させる。それでも文乃先輩が大きく深呼吸すると、私は緊張していた体から力が抜けるのを感じつつあった。
「ありがとう、美空さん。手を繋いでくれて、嬉しかった。すごく安心したわ」
静かに顔を上げた文乃先輩が、まだ若干残っているだろう痛みに負けず弱々しく笑いかけてきた。その笑顔にまた私の胸が痛いくらい高鳴る。こんなにも苦しんでいる先輩にどうかしてる、そう思いつつも鼓動は強いまま。
「いえ、こんなので良ければいつでも」
文乃先輩が力を緩めたので、これは離せという合図なのかと察した私は視線を一瞬下げてから手を離した。名残惜しい熱はすぐに消え、部室の空気の冷たさを知る。思わず「あっ」と声を漏らせば、一瞬文乃先輩が切なそうに自分の手に視線を向けたような気がした。
でも今はそんな感情よりも気になることがあった。
「あの、昨日も苦しそうにしてましたよね。あまりこういうのって訊くものじゃないってわかってるんですけど、先輩って何か持病とかあるんですか?」
文乃先輩がこちらを見たかと思うと、すうっと視線を下げた。私はやっぱりデリケートな問題だから答えてくれないんだろうなと思っていると、先輩が大きく一度うなだれてからゆっくりと私の目を見詰めてきた。
「狭心症があるの。パニック障害からきてるとはお医者さんも言ってた。過度なストレスがかかると、苦しくなるみたい。ごめんなさい、見苦しい姿を見せて」
私はそこでようやく、あの妹がなんであんなに文乃先輩を一人にさせようとしていたのかその理由がわかったような気がした。ストレスで苦しくなるのならば、誰かと一緒にいるのはリスクでしかないからだ。
読書なら、一人静かにいても退屈しないから。
そう考えれば、私を遠ざけようとしていた理由もわからなくはない。妹からすれば私はよくわからない一年生で、どんな人間なのかもわからないから。
けれど理解は一応できても、到底納得できない。私は静かに唇を噛んだ。
一人で本を読んでいればリスクは少ないかもしれないけど、それじゃあ先輩はずっと一人ぼっちのままだ。誰も手を差し出せないまま、いつか孤独に押し潰されてしまうかもしれない。
先輩が孤独を望んでいるのなら別だ。でも、きっと違う。そうじゃなきゃあの日、ふらっと現れた私に部員になってくれないかなんて言わなかっただろう。文乃先輩はきっと、どこかで孤独から抜け出したかったはず。
「先輩、変な事を訊きますけど……もし私が来なくなれば、一人になれば、その苦しさは治まりますか?」
すると文乃先輩は泣き出しそうな顔を私に向けてきた。
「そんな事無い。むしろもう、美空さんがいない方が辛いわよ。お願いだから、そんな意地悪言わないで」
「すみませんでした」
試してしまったような発言を反省するものの、そう言ってくれた事が何より嬉しかった。私はそんな先輩を見詰め返し、少し口元を緩める。すると先輩の表情も幾らかやわらぎ、すっとまた手を差し出して来た。
「手、また繋いで欲しい。今のでまた、少し苦しくなった気がしたから」
文乃先輩、こんな一面もあったんだ。
「わかりました」
私はそっとその手をまた両手で包むように握る。やっぱり先輩の手は絹のように肌触りが良く、気持ち良い。爪も綺麗だし、潤いもある。私の手はどうなんだろう。特にそんなケアしてないから、ザラザラしてるとか不快に思われてないだろうか。
……余計な事は考えないでおこう。今はただ、求められるがままに。
じんわりと先輩の手から体温が伝わってくる。脈打っているのは私なのか、それとも文乃先輩なのか。ただそれに身を任せていると、胸の奥が甘く痺れてくる。ゾワゾワと内側からくすぐられるかのような感覚。
この感覚の正体を私は知っている。でも、決して言えない。
それでもしばらくそのままでいたけれど、不意に廊下の方から話し声と足音が近づいてきた。私と文乃先輩はほぼ同時に手を引き、ドアに注目する。けれど足音はそのまま部室を通り過ぎ、やがて奥の階段の方へと消えてった。
また静かになった部室の中、私達はほぼ同時に顔を向け見詰めると声を出さず笑いあった。
「ありがとう、美空さん」
ゆっくりと文乃先輩が座ったまま頭を下げた。もう苦しそうには見えないけど、あんなになっていたのだから平気ではないだろう。
「大丈夫ですか? あの、今日はもう早く帰った方が」
「そうね」
小さくうなずいたかと思うと、文乃先輩がすうっと視線を窓の方へ向けた。つられて私も目を向ければ、黄金色の陽光が差し込んでいる。見慣れた陽の光も、今はどうしてだろうか妙に綺麗に見えた。何だか泣きそうなほどに。
「でも、どうせならもう少し落ち着いてから帰るわ。少し、本でも読みながら」
横顔からは表情全部読み取れない。だけど私は不思議と先輩が何を求めているのかわかったので、うんと伸びをした。
「じゃあ私は先輩に何かあってもいいよう、本でも読みながら付き合います」
そうして私達、小一時間ほど黙って読書をしていた。
言葉はいらない、視線の重なり合いもいらない。ただ時折ページをめくる音と、座り直した時の音が響くだけ。でもそれは他愛のないお喋りを何時間も重ねるより有意義で、心の深い所を撫で合うかのよう。
陽光はただ静かに、角度を変えるだけだった。




