猫獣人、威嚇する
翌朝。目覚めると、三千花はまず隣の部屋のビビの様子を見に行った。
昨晩部屋の中に入れた餌の皿は、手付かずのままだ。水の皿のほうは少し減ったような気もするが、ほとんど飲んでいないといっていい。
ノックの音がして出てみると、既にスーツを着込んだ甜瓜だった。社長自ら朝食を運んできてくれたらしい。
「私はオフィスにいますから、用があったら声をかけてください。外に出て街を歩いてみたければ、誰か案内をつけますよ」
朝食のメニューはトースト、ベーコンエッグ、トマトとレタスのサラダだった。トーストと卵料理が基本で、目玉焼き、茹で卵、スクランブルエッグなどを日替わりでローテーションするらしい。
用意されたのはそれが二人前。何故か食後のコーヒーまで二人分ついていた。
自分の分の食事はダイニングテーブルに置き、ビビの分のはトーストは食べやすいように小さく千切ってバターを塗った。コーヒーは三千花が二杯飲むことにして、ビビ用のトレイには水の入った皿を載せる。
部屋に持って行くと、威嚇はされなかったが、ドアを開けた途端に奥に走り去る足音が聞こえた。
「まあ、初日だし。こんなもんよね……」
昨日は三千花自身が昏倒したり介抱されたりと不安定な状態だったせいか、ただ単に猫と触れ合えるのが嬉しくいだけで、よく考えもせずに甜瓜による採用の声に応じてしまった。だがよく考えてみれば、現在所属している野良猫保護団体に対して――辞めさせられそうになってはいるが――辞めるとはまだ告げていないのだ。
目覚めて頭が少しすっきりしたところで、最低限のマナーとして今日の欠勤くらいは連絡しなくてはならないと気づいた。
そう思って電話をかけようとしたが繋がらなかった。繋がらないというシステムのメッセージすらないことからすると、相手ではなく、三千花自身が電波の圏外にいるらしい。wifiもチェックしてみたが、残念ながら猫々専科やその近辺には無線の電波も飛んでいなかった。
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結局、職場には電話が繋がらない状態で、数日が過ぎていった。
甜瓜は街を案内してくれると言っていたが、結局、三千花は報告がてら猫々専科のオフィスに顔を出す以外は、ほとんど自分の部屋で過ごしていた。
「少しは外に出て気晴らししたらどう?」
この数日で、甜瓜はすっかり砕けた口調に変わっていた。雇い主として立場は甜瓜のほうが上でも、三千花のほうが歳上ということで、最初は敬語を崩すまいと努力していたらしい。三千花のほうも多少は馴れ馴れしい口も利けるようになったが、甜瓜に比べればまだ少し堅苦しい口調だ。これは持って生まれた性格のようなもので、無理に直そうとしても直らない。
「ビビを常に人間が一緒にいる状態に慣れさせたいんで、当分は部屋を極力空けないようにしたいんですよ」
「まあ、その理屈はわかるけど……そろそろ落ち着いてきたでしょ?」
「ええ、まあ。取り敢えず、多少は餌を食べてくれるようになりました。まだ半分も食べないけど」
何故だか甜瓜は苦笑を浮かべながら「餌……ね」と呟く。慥かに毎食運ばれてくる食事は、猫のビビも三千花も同じメニューだから、あれを餌と呼ぶなら三千花の食事も餌ということになる。
初日だけに限らず、その後も食費を請求されてはいないし、するつもりもないらしい。甜瓜の経営する猫々専科の経費扱いか甜瓜自身の奢りなのだろう。どちらにせよ、餌と呼ぶのは些か礼を失していたかもしれない。
「だったらねっこかふぇに行ってみない? 他の猫獣人の話を聞いてみるのもきっと役に立つわよ?」
「ねっこかふぇには興味あるんですけど――」
甜瓜の話によれば、ねっこかふぇというのは猫カフェとインターネットカフェのハイブリッドみたいなものらしい。三千花の想像の中では、パソコンを置いた机がずらりと並び、猫が自由に部屋の中や机の上を歩きまわっている光景が浮かぶ。キーボードの上に寝転んだり、タイピングする手やケーブルにじゃれつく猫たち、それを愛でる空間、そんなイメージだ。
「せっかく慣れてきたのに、他の猫ちゃんの匂いをつけて部屋に帰るのはどうかと思うんですよね。また警戒されちゃいそうで」
多頭飼いが前提ならば、他の猫の存在を受け入れるというのも重要な慣らしポイントになるだろう。だがビビの場合は、今後のことは未定だし、そもそもまだその段階に達していない。下手に他の猫の匂いで刺激して、ストレスを感じさせるのは拙いのではないか。
だが三千花の言葉に理解を示しつつも、甜瓜は納得してくれない。
「正直、三千花さん、状況をちゃんと理解していないように見えるのよ。っていうか、理解を拒んでる? 現実逃避してるって感じなのよね――」
三千花よりだいぶ若いはずの甜瓜だが、まるで口うるさい学校の先生か親戚のおばさんのようだった。
「元の職場やご家族に連絡もせずに平気でいるし……。三千花さんて、本来は、絶対にそんな不義理をするような性格じゃないでしょう?」
「……こんな歳ですから両親ともにもう他界していますし、親戚も年賀状のやり取りくらいしかしていませんから。職場への連絡は、先日手紙の郵送をお願いしましたよね、それで十分ですから」
大好きな猫のためと思い活動していた野良猫保護団体だったが、正直なところ、新しい代表になってから居辛くなっていたのだ。保護猫たちは心配だが新しい代表も譲渡先の選別はきっちりやっているようだし、職場に対する仲間意識が薄れた時点で細やかな気遣いをする気も失せていた。
「郵送……ね、ま、いいわ。でも少しは気晴らしもするのよ? 遠慮しないでいいんだからね」
甜瓜は何かを諦めたように溜息をつきながらそう言った。
ここは当たりの職場かもしれない――三千花は少し嬉しくなった。
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二日ほど経つと、ビビは相変わらず日中には自分の部屋に隠れているが、夜には部屋の外に出てくる気配が感じられるようになった。ドアノブに飛びついて開けているのか、夜寝る前にドアを閉めておいても、朝になると人が通れるくらいの幅で開いている。
ある晩、夜中の気配に目覚めた三千花がそっと自室のドアを開けて廊下を覗くと、子どもくらいの大きさの黒い影がさっと身を翻して逃げ去るのが見えた。
意外なほどの影の大きさに息を呑んだ三千花だったが、寝惚けておそらく見間違えただけだろう。逃げ去るビビの毛色は茶色と黒が入り混じっているように見えたから、あるいはベンガルやサーバル系の大型種なのかもしれない。それなら大人に成りたての若い猫でも、普通のイエネコよりずっと大きくてもおかしくない。
トイレは甜瓜が言っていたように、人間用のトイレを使いこなしているようだ。昼間、驚かさないように気をつけながら部屋の中の様子を見回っているが、猫用のトイレは設置されていなかいし、粗相した臭いも形跡もない。その代わりとでもいうように時折トイレの水洗の音が聞こえるが、さすがに猫が自分で水を流すことはないから、公衆トイレのように自動洗浄機能がついているのだろう。
さらに嬉しいことに、ビビは食事を綺麗に平らげるようになった。
多少はここの生活に慣れてきたのと、ビビの野生がハンストするにも限界があると危険信号を発したのだろう。ビビが食べやすいように、料理を細かくしたりふやかしたり、猫が好まない物を抜いたりしたのも効果があったはずだ。
気になるのは食器が妙にピカピカなことだった。猫が気に入った餌を綺麗に食べ尽くし、皿まで舐め尽くすのはよくあることだが、油分まで洗剤で流したように落ちているのは驚きだ。
そんなある朝、三千花はビビの皿がさらに綺麗になっているのを発見した。それもビビの部屋の餌置き場ではなく、キッチンの流しでだ。ピカピカになっているのは毎度のことだったが、今度は餌用と水用の二枚ともが明らかに洗剤で洗った上できちんと水切りカゴに並べられていたのだ。
「あら? 起きてすぐに洗ったんだったかしら? いやぁねぇ、ついさっき自分でやったことを忘れちゃうなんて」
寝惚けて朝いちばんにやったことを忘れただけに違いないと、三千花は己に言い聞かせた。
だが三千花が驚くような出来事は、これだけに留まらなかった。
その晩、三千花はいつになく寝付けない夜を過ごしていた。
相も変わらず、日がな一日中、隣室のビビの様子を窺うだけの生活だ。他人と言葉を交わすのは報告に行った先の甜瓜だけ。ビビにも餌をやるたびに、こまめに話しかけはするものの、返事が返ってきた試しはない。そろそろ接し方をもう少し積極的にすべきかだろうか。そうでもしなければ気が滅入ってきそうだと、寝入りばなに反省しているときのことだった。
ガチャリ――。
ビビの部屋のドアノブが回される音がした。三千花は足音を立てないようにそっと起き上がり、自分の部屋のドアに手をかけた。
何者かが目の前の廊下を通り過ぎる気配がする。カチャカチャと皿がぶつかり合う音がするが、足音はまったく聞こえない。
「甜瓜さんが、こっそり夜中に洗い物をしにきてくれているとか?」
心にもないことを呟きながら、そっと水音のするキッチンを覗き込む。照明を点けていないキッチンは、窓からの星明りしかなく、薄暗くよく見えない。だが流しで熱心に洗い物をするその姿は、明らかに甜瓜ではなかった。
背の高さは、三千花と同じくらいかやや低いくらい。女性としても小柄な部類に入るだろう。微かな明かりに浮かぶその姿は、全体的に黒と茶色が混ざり合ったような色をしている。服装が、ではない。もっと有り体に言えば、服は着ていないようだ。頭の先から足の先、いやこの場合、尻尾の先までと言うべきだろうか。全体が茶と黒の斑模様――三毛ではなく錆のように見える。
洗い物に集中して三千花の存在には一見気付いていないようだが、頭の天辺についた二つの三角耳――猫耳は、しっかりと後ろに向けられている。
「ああ、うん。きっと疲れているのね。ゆっくり寝ないと……」
思わず込み上げてくる悲鳴を飲み込んで、三千花が口にしたのは、己を誤魔化すための言い訳だった。現実逃避だという甜瓜の指摘が脳裏を過ぎったが、三千花はそれすらも無視しきったのだった。
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「それじゃ、今日はねっこかふぇで早めのお昼にしましょ」
散々、思い悩んだ末に、昨晩見た妙な夢ということで聞かせた話に対する甜瓜の反応がこれだった。
三千花にとっては、意外であると同時に、「やっぱりそう来たか」とどこか納得させられる答えでもある。
「でも他の猫の匂いをさせるのは……」
これで甜瓜がいつも通り誘いを引っ込めてしまったら嫌だなと頭の隅のどこかで思いながら、それでも三千花は気の進まないフリをする。
甜瓜の反応は、もちろん三千花の無意識の期待通りに、「大丈夫よ」というあっけらかんとした保証の言葉だった。
「どうしても気になるなら、帰りに私の部屋でシャワーを浴びればいいじゃない」
そこまでさせもらわなくても、考えてみれば、自分が部屋に帰った段階でシャワーを浴びて着替えれば済む話である。ふっと肩の力が抜けて、三千花は素直に甜瓜の誘いに応じることにした。
ねっこかふぇは、猫々専科の経営するカフェで、街の中に何軒も展開しているそうである。甜瓜のいるオフィスからいちばん近いのは、オフィスの隣、寮とは反対側にある一号店だ。
ネットカフェと猫カフェを足して二で割ったようなものだという甜瓜の説明に首を傾げた三千花だったが、中に入っても、その疑問は簡単には解けなかった。
「ビビの分は帰りに買って行きましょう」
甜瓜の言葉に黙って頷き、入り口のカウンターで適当に軽食を注文する。
店の中は大きくふたつに衝立で仕切られていた。衝立の手前側は小さな丸テーブルの席が並んでいるが、客はひとりも見当たらない。
ネットカフェのようだというのにパソコンの類いは一切見当たらず、猫カフェだというのに猫の姿も見えなかった。疑問を抱きつつ、三千花は甜瓜の後について衝立近くのテーブル席へと向かう。
衝立に阻まれて向こう側はよく見えないが、それなりの人数がいる気配が感じられた。向こう側が猫と戯れるスペースだろうかと、少しワクワクして気も漫ろになっていた三千花は、椅子を引いた表紙に衝立の向こうから出てきた客にぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ。すいません」
相手とすれ違いざまに腕に触れた柔らかく滑らかな毛皮のような感触に会釈していた頭を上げた三千花は、相手の顔を見るなり「えっ!」と固まってしまった。
「ね、猫?」
「あら、シタイさん、久しぶりじゃない」
「やあ、テンカ。さすがにエアコン無しは辛い季節になったんでね」
甜瓜と親しげに挨拶を交わしている相手は、どう見ても猫だった。白地に灰色のコートを羽織ったようなサバ白猫だ。ただし身体の大きさは人間並み、というか、成人男性――当然、人間――と並んで遜色ない。
「三千花さん、こちら猫獣人のシタイさん。街の中のいちばん寝心地のいい場所をご存知で、どこでも死体みたいに眠りこけているからシタイさん」
「こう暑いと軒下を吹き抜ける風も熱風になっちゃってるから、偶にはこういう場所で涼まないとね」
飄々とした笑顔で「じゃっ!」と軽く手を上げると、シタイさんなる巨大サバ白猫は、すたすたとその場から去っていった。もちろん二足歩行で。
「えっ? えっと? ええっ?! どういうこと??」
「まあまあ、三千花さん、落ち着いて。取り敢えず座って」
くすくすと笑う甜瓜に肩を押さえられて、三千花はへなへなと椅子に座り込んだ。
「三千花さん、本気で気がついてなかったの? っていうか、私、何度も猫じゃなくって猫獣人って念を押したよね?」
「猫……獣人? って、ええっ?! まさか!? それじゃビビは?」
「そ、ビビも猫獣人。だからキッチンで洗い物してたのも、ビビ本人」
呆然としながらも、三千花の頭の中には、ビビのこれまでの反応の数々がめまぐるしく浮かんでは消えていた。
猫が通るには広すぎる幅に開けられたドア。何より冷静になって考えてみればビビの部屋のドアノブは、レバー式ではなく猫には開けられない丸型だった。
拭き取られたように綺麗な皿。用意される人間用の食事。不定期に聞こえる水洗トイレの洗浄音。
猫にしては大き過ぎる影。金色に光る二つの目の間隔は妙に幅広だった。そしてトレイを持って廊下を歩くときの皿のぶつかり合う音に、流しで洗い物をしていた後ろ姿――。
「ど、どうしましょう? わたし……ビビちゃんのご飯、毎回、猫まんま仕様に変えちゃってたんですけど……」
「うーん、まあ、これからは普通にそのまんま出してあげればいいんじゃない?」
取り返しがつかないことをしたのではないかと不安がる三千花に、甜瓜は「大丈夫だから」と首を振る。そしてさらに甜瓜は続けた。
「これからビビにご飯を持ってくときは、スプーンとフォークもつけてあげてね」
それは三千花にとって、最も、貴重なアドバイスだった。




