猫獣人、デレる
「ごめんなさい、ビビちゃん。その……色々と勘違いしていて……」
ねっこかふぇでの昼食を終えた三千花は、買い求めた昼食を手に、ビビの部屋を訪れた。ビビを怖がらせないように、ドアは半開きの状態で、部屋の前でこれまでの非礼を詫て頭を下げる。
「これ、今日のお昼よ。トマトと鶏肉の冷製ショートパスタ」
昼間だというのにカーテンを閉めきって薄暗い部屋の中に向かって呼びかける。いつもはひと声かけて、すぐにトレイを入り口脇に置いてドアを閉める三千花だが、さすがに今回ばかりは、ビビが反応を示すまでは立ち去るつもりはない。
「…………」
いつもと違う三千花の様子を訝しんだのか、ベッドと窓の間の狭い場所から、ビビがそろりと出てきた。カーテンに遮られているとはいえ、昼の光が射し込む部屋の中である。闇の中の黒い影とは違って、ビビの姿がはっきりと見て取れる。
初めて光の中で目にするビビの毛色は、夜中のキッチンで見た通り、茶色と黒がぐしゃぐしゃに混ざり合った錆猫だった。右目の周りが茶色、左は黒く縁取られている。前足は黒手袋を嵌めているみたいで、尾はベッドの陰に半分隠れているが、短く団子状のカギ尻尾のようだ。
一歩、二歩と進んだところでビビは立ち止まる。恐怖の対象である三千花を見据えるように大きく見開かれた目は瞳孔までまん丸で、鼻は三千花の僅かな心の動きを嗅ぎ取ろうとでもいうようにひくひくしている。
身長は見た感じ、三千花とあまり変わらないくらいだろう。錆猫だから雌――女の子だろうし、甜瓜が言っていた通り、まだ大人になるかならないかくらいの若さというのは間違いなさそうだ。
「あら、ごめんなさい。フォーク持ってこなくっちゃね」
「…………」
「飲み物、オレンジジュースだけど、よかったかしら? ストロー使える? あ、猫って柑橘系苦手? 水、持ってこようか?」
「…………」
三千花が矢継ぎ早に話しかけると、ビビは鼻を蠢かしながら一歩後退った。団子尻尾が足に挟むようにして隠される。これは怯えのピークの徴だったはずだ。
「ごめんね。パスタ、ここに置いておくね。じゃ、ゆっくり食べてね」
パスタの皿を載せたトレイをそっと部屋の内側の壁際に置くと、瞬きひとつしないビビの視線に見送られながら、三千花はドアを閉めた。
このときから、三千花はビビの食事に忘れずにスプーンとフォーク、メニューによっては箸をつけるようにした。サンドウィッチを細切れにしたり、ご飯におかずを混ぜて猫まんまにしたりもしなくなった。甜瓜に確認して、猫に与えてはいけない食材を抜き去ることも止めた。もちろん飲み物は皿に水ではなく、グラスに入れて必要に応じてストローもつけている。
それが功を奏したのか、ビビの態度は目に見えて軟化した。食事のトレイを受け取るのに怯えて反射的に威嚇してしまうところは相変わらずだが、部屋に閉じこもりきりという状況には変化が現れたのだ。
毎食後、三千花はリビングで寛ぐ。その様子をリビングの入り口から観察あるいは監視するビビの視線とスピスピという微かな鼻息が感じられるようになった。
この世界にはテレビなどの娯楽は少なくとも三千花が知る限りは存在しないようで、その代わりにソファに座って読書をしている。
読む本の大半はラノベ、それも転生モノと呼ばれる種類のもの。すべて甜瓜のお薦めだ。〝日常生活の中の機微を細やかに描いた心温まる小品〟を好む三千花の趣味からは大きく外れているが、これが意外に面白いというか役に立っている。
特に甜瓜が熱心に勧めたのは、素人のネット投稿作品だった。舞台が|アルスガイア(この世界)なので、三千花がこの世界の常識を学ぶのに丁度いいと渡されたのだ。これのお蔭で三千花は自分がその作者同様に召喚されたということも、ここが獣人が普通に存在する世界だということも――全面的に信じたわけではないが――理解した。
ビビによる三千花の行動観察の範囲は、読書の次には食事の支度へと広がった。
「一緒にお昼ご飯、ここで食べる?」
ねっこかふぇから届けられたなすとチーズのピザ風焼きの皿を差し出すと、びくびくしながらビビは寄ってくる。相変わらず瞳孔は開きっぱなし、鼻の穴もぴくぴく。猫獣人らしく二足歩行ながら明らかに腰が引けている。
じっとビビが手を伸ばす決心をするのを待っていた三千花だったが、皿を持ち替えた拍子に手がグラスに当たってカシャンと音を立ててしまった。途端に、ビビの右手から高速猫パンチが連続で繰り出される。般若顔になって「シャーッ!!」とひと声叫ぶと、くるりと向きを変えて逃げ出した。
「ごめん、ごめん! ごめんなさい!」
保護猫の場合は人間の手から餌を食べるかどうかが、通過点というか一大イベントだ。では猫獣人の場合はどうなのだろうか? 三千花が首を傾げても、答えを教えてくれる人は誰もいなかった。
しばらくしてビビがキッチンへと戻ってきた。怯えているというよりは、耳をぺたりと伏せて、少しばかりしおらしい表情になっている。
「玉ねぎ……」
「……玉ねぎ? が、どうしたの?」
威嚇音以外にビビが初めて発した言葉に、三千花は踊りだしたい気分になった。が、脅かしてはいけないと、じっと我慢する。できるだけ優しく穏やかな、それこそ猫撫で声で問いかけた。
「玉ねぎ、好きくない」
「あら、そうだったの? わかったわ、玉ねぎは抜きね」
好きくない、というのは日本語として正しくない――などと注意するような野暮なまねはしない。せっかくビビが心を開いて寄ってきてくれたのだ、文学部出身の矜恃など、この際、どうでもいい。
どきどきと跳ねまわる心臓を懸命に宥めながら、三千花は皿から丁寧に玉ねぎを選り分けた。
☆★☆★☆★
ある夕方、甜瓜が客を連れて三千花とビビを訪ねてきた。客というのは三千花を間違えて召喚した召喚士のデディアと三人の猫獣人だ。猫獣人のひとりはデディアの相棒だという白猫のミアン。残るふたりは歳の離れた茶トラの兄弟で、ニオとネウといった。
いきなり、こんなに大勢を迎えてビビは大丈夫かと三千花は不安だったが、「猫と猫獣人は違う」と甜瓜に押し切られた。
案の定、ビビは最初は怯えて再び自分の部屋の中に逃げ込んでしまった。最近はカーテンを開けさせてくれるようになったので、部屋の中が見通せないということはないのだが、それでも姿が見えないということはベッドの下にまで潜り込んでしまったようだ。
それでも甜瓜の提案に従って、ビビのことは気にせずにリビングで過ごすことになった。しばらくして客の猫獣人たちが見知らぬ場所に慣れて落ち着く頃になると、我慢できなくなったのかビビがドアのところに姿を現した。
「すごい、甜瓜さん。わたしよりよっぽど慣らしが上手いわ」
「そう? すごい? ふふん、とか言って、実はニオのアイディアなんだけどね」
茶トラのニオは王侯貴族のようにゆったりと絨毯の上に寝そべり、うっとりと半眼だ。まだ若い猫獣人らしく身体つきは猫としては細身で靭やかなのだが、人間サイズなのでかなりの迫力というか貫禄がある。
その悠然とした態度に影響されたのか、ビビはこっそりとドアの内側に踏み込んできて腰を下ろした。ただし、すぐに立って逃げられるスフィンクス座りをしているところに、警戒心が解けきっていないのが見て取れる。
白猫のミアンと茶トラ弟のネウは、取っ組み合いをしている。少し歳上のミアンは最初はネウのことなど気にも止めていなかったのだが、ネウがあまりにしつこく尻尾に噛みつくので、いい加減キレたらしい。
子猫とはいえ身体は小学生と中学生くらいの大きさだから、埃も振動も結構なものだし、応接テーブルの上のお茶やケーキの皿が今にも壊れそうにガチャガチャ音を立てる。
「デディア、なんとかしてよ」
「えっ、えっ、どうしよう? ミアン、ここ座り心地いいよ」
いきなりの甜瓜の命令に慌てふためくデディアだったが、見た目の頼りなさに比べて、意外と機転が利くらしい。暴れるミアンにひと声かけて気を引くと、自分の座っていた場所をさっと明け渡す。
ミアンは絡みつくネウをさっさと振り捨て、ソファに飛び乗る。デディアはその前の床にぺたりと女の子座りして、ミアンをそっと撫で始める。あっという間にミアンは恍惚とした表情になり、猫らしく喉をゴロゴロと鳴らし始める。
さすが飼い主――と言いたいところだが、それは失礼に当たるのだろうか、と三千花は首を傾げる。
ビビはと様子を見れば、ミアンとデディアを凝視しつつ、妙な格好に身体を捻じり頭を床にこすりつけていた。人間への警戒心が緩くなってきた頃に、甘えたいのに上手に甘えられない保護猫がよくやる仕草だ。尻尾も団子状なのでよくわからないが、ピンと立っているようだ。
言葉は喋るし人間のように二本足で歩くけれども、やっぱり猫獣人は猫なんだと思わずにはいられない。
わけのわからない感情に衝き動かされているかのようなビビだったが、それを見詰めるのは三千花だけではなかった。
ミアンに振られたネウが、きらりんと目を輝かせる。頭を低くし、兄のニオと比べてやや短めの尾と尻をぐねぐね、もこもこと振る。困惑顔のビビが「みゅお」と情けなく呟いた瞬間、ダダっと音を立ててネウが右手を振り上げながらジャンプした。
「ネーウー?」
のんびりとしたニオの声に気勢をそがれたネウの猫パンチは、ビビの目の前で空振りに終わった。
それでも十分に怖かったようで、ビビは瞬時に人間サイズから猫サイズになって、ソファの下に逃げ込む。哀れっぽく「やーよー」「やめてーよー」と抗議の声を上げている。
ネウは甜瓜からゲンコツをひとつ食らい、半べそになりながら兄のニオに縋りついた。ミアンは我関せずといった顔でソファをどっかりと占領し、デディアに撫で撫でを要求し続けていた。
三千花がそれこそ猫撫で声で説得したが、ビビは「うにゃうにゃ」と呟くばかりで、ソファの下から出ようとはしなかった。
無理に引きずり出すのは諦め、三千花は猫獣人のこと、この世界のこと、召喚魔法のことなど、色々と訊ねた。デディアの話は要領が悪くてわかりにくく、ほとんど甜瓜の説明に頼りきりだった。
意外なことに、甜瓜から借りたラノベの多くとは異なり、三千花は日本への帰還が可能ということだった。
「でも帰還の件は、ビビの慣らしが終わったら考えましょう」
帰り際、甜瓜はそう三千花に約束し、デディアも「失敗しないように頑張ります!」とガッツポーズをした。
マイペースな猫獣人たちはろくに挨拶もせずにふらふらと出て行ってしまったが、ビビはソファの下から光る目が覗いているだけで、見送りに出てくることはなかった。三千花はそのことを詫びたが、甜瓜は気にしないようにと笑った。
「自分の部屋に逃げ込まなかったんだから、ビビの基準からすれば、一応はちゃんと接待していたうちに入るわよ」
そう言われると、そんな気もしてくる三千花であった。
☆★☆★☆★
それから一週間経っても、ビビの臆病な性格は相変わらずだった。もうこれは治らないのかもしれない、そう思えてくる。
もちろん、以前のように自分の部屋に隠れたままというわけではない。食事はダイニングで一緒に食べるようになったし、三千花がリビングにいる間は、ソファの陰にじっと座っているようになった。足を折った香箱座りをしているし、以前よりリラックスしているのは間違いない。
それでもびびりなのは変わらない。何か物が床に落ちたり大きな音がすると、天井に届きそうなほど高くびよんと飛び跳ねるし、三千花の手をふんすんと嗅いだりテーブルの脚やソファの肘掛けに頭を擦り付けるのに、いざ撫でようと手を伸ばすとびくびくっとしてドアの陰に隠れてしまう。甜瓜以外の人間の客が来ようものなら、食べかけの食事を放り出しても自分の部屋に逃げ込んでしまう。
こうなるとびびりも個性のうちかと三千花には思えてくる。人前に出られないのだって、生きていく方法があるのならば、無理に矯正する必要もないのではないか。猫獣人の生き方は甜瓜にいくら説明されてもいまひとつ理解しきれない三千花だが、飼い猫のような立場が得られるのなら問題なさそうな気がする。
そろそろ慣らし生活も終わりにしてもいいのかもしれない。甜瓜の要求する猫々専科の基準的にはまだまだ足りないのかもしれないが、愛想の良さや人懐こさだけが売りというわけでもないのだから、いくらでもやりようはありそうだ。
「ま、わたしと一緒に暮らすんでもいいんだけどね……」
ソファに深々と腰掛け、思わず独りごちたところで、三千花は自分の気持ちに初めて気がついた。
保護猫の慣らしをしていて、結局、そのまま離れ難くなって自分が飼い主になるというのは、野良猫保護団体でも割とよくある話だ。ミイラ取りがミイラになるでは意味が少し違うような気もするが、きっと似たようなものだ。
問題は三千花の生活基盤がここアルスガイアには無いという点だが、甜瓜に頼み込まれてビビの慣らしを引き受けたのだから、お願いすればどうにかなるような気もする。それとも甜瓜が元々採用したかったのは獣医師や獣看護師の有資格者だったようだから、断られるだろうか?
――トン。
肩口に柔らかな衝撃を感じて、三千花は振り返る。そこには真剣な顔で頭の天辺を三千花の二の腕に擦り付けるビビの姿があった。
「……ぅゎぁ」
感動のあまり叫びそうになるのを三千花は懸命に抑えた。ビビは必死すぎて悲壮感が漂う顔で、ゴン、ぐりぐりと頭を繰り返し三千花の腕に押し付けてくる。
あまりにいじらしいその姿に、三千花は撫でてやろうとそっと手を差し伸べる。
「っ! ふっしゃ! …………」
ビビは反射的に威嚇の声を上げながら、部屋の反対の端まで勢い良く飛び退く。咄嗟の反応だったのだろう、飛び退いた後で、自分のしたことに気づいて、実に気まずそうな顔をする。
「う、うな……ごめん、なさい」
申し訳無さそうなビビに苦笑しつつ、三千花は「おいで」と手招きをした。
☆★☆★☆★
最終的に、甜瓜と相談した上で、三千花は不定期の指名召喚となった。
だが日本での職は実質的に馘首になっている。ということで、本拠地はアルスガイアとし、仕事は猫々専科の猫獣人従業員の教育係となった。
ときどき、甜瓜の依頼で日本に戻り、あれこれと買い出ししてくる役目も負っている。召喚魔法を使うのがデディアなので少しばかり不安ではあるのだが。
住む場所は寮を出て、近くにアパートを借りることになった。もちろんビビも一緒である。
寮より格落ちしてトイレもバスもひとつしかついていないが、寝室はちゃんとふた部屋確保した。が、ビビは三千花の部屋のクローゼットが気に入って、そちらを寝床に定めたようだ。
どうやったらビビが自分の部屋で寝るようになるか――それが三千花の目下の悩みである。
これにて「どきどき・ふっしゃぁぁぁぁ」は完結。
次回は一話完結で何か……かな?




