9. 牙、再び
シュバスの母は、アスギールの父が治める荘園の小作人の娘だった。
やはり同じ小作人の男と夫婦になり、シュバスを産み、その三年後に弟を産んだが、その子は、残念ながら数日で亡くなった。
母の悲嘆は激しかった。荘園の空き地に薪を積み上げ、小さな亡骸を焼いていた間、泣いて泣いて泣き続けて、そして、残った灰と骨のかけらを墓地に埋めた後は、心が消えてしまったように泣くことも笑うこともなくなった。部屋の真ん中に座り込んで、掃除も洗濯も炊事も何もしなくなり、吸う者が居なくなった乳房から、それでも溢れる乳を搾りながら、ぼんやりと子守唄を口ずさむだけになった。
父は、最初こそはそんな母に気を使っていたが、すぐに苛立つようになった。小さな荘園の小作人に、何もせず座り込んでいる贅沢など赦されないのだ。遂には、母を怒鳴ったり殴ったりするようになった。
そんな時、幼いシュバスは、狭い小作人部屋の隅に蹲り、目を閉じ、耳を塞いでいることしかできなかった。目の前で崩壊していく両親の姿が、怖くて怖くて、たまらなかった。
そんな時だった。母の腕にアスギールが預けられることになったのは。
アスギールの母は産後の肥立ちが悪く、しかも乳の出が悪かった。そこで、アスギールの父は、その少し前に出産し、しかもその子を失ったシュバスの母の存在を知ると、荘園主の邸に乳母として迎えることにしたのだ。
今でも覚えている。
赤ん坊だったアスギールを抱いた瞬間、母の眸に光が立ち返った様を。
笑顔が戻り、元気に立ち働くようになり、一緒に小作人長屋から出されて、主の邸に従僕として仕えるようになった父やシュバスの世話も、かつてと同じようにこなすようになった。家族は崩壊を免れ、二年前に父が、一年前に母が、それぞれ病で他界するまで、二度と暗い闇に閉ざされることはなかった。
だから、病に倒れた母が、シュバスの手を握って『若様をお願いね』と言った時、心の底から頷いた。亜麻色の髪と青氷色の眸の『弟』は、母だけではなくシュバスにとっても、ばらばらに砕けてしまいそうだった家族を繋ぎとめてくれた、光だったから。
だが――。
その光が、異常な力を振るって巨大な獣を打ち斃した時、シュバスもまた動けなかった。
頭の中では、目の前にいるのは大切な『弟』だとわかっていたのに。その行為は自分たちを助ける為だとわかっていたのに。
『化け物』と叫んで逃げ出した両親の背を呆然と見つめていたアスギールに、手を差し伸べることができなかった。彼が、大人たちによってたかって追い回され、井戸に突き落とされた時、助けることができなかった。
だから、これは罰であり、義務だと思った。
剣術など習ったこともない自分では、わずかの足止めにもならないだろう。だが、ほんの数秒でも、アスギールが逃げる為の時間を稼ぐことができるなら。
「母さん、俺、頑張るよ……」
恐怖に震える唇で一度だけ母を呼んで、両手に握った長剣を頭上に振り上げようとした。
その背後で、一陣の風が舞い上がった。
予想外の力が、シュバスの掌中から剣をもぎ取った。そのまま、脇を駆け抜けた。
「⁉ アスギール様⁉」
驚いて叫んだ声に、甲高い咆哮が重なった。
***
それは、子供の容を取った颶風だった。
無謀を嘲笑うように、ハンカ兵が無造作に大剣を振り上げ、振り下ろす。無作為に突っ込んできた少年は、それで一刀両断になる筈だった。
ところが、刃が振り下ろされた瞬間、少年はそこにはいなかった。寸前で躱しざま、いきなり地を蹴って跳んだ。
人間というより、獣のような動きだった。
意表を突かれた大人が、振り切った刃を引き戻す前に、その胸元に全体重を掛けて押し倒す。同時に手首が翻って、白刃が横一文字に喉を薙ぎ払った。
断末魔が跳ね、最後の呼気が鮮血と共に噴出する。その紅い雨が地を叩く前に、少年は次の敵に襲い掛かった。
「‼」
残り二人のハンカ兵の顔から、余裕が吹き飛んだ。
怒りとも焦慮ともつかない罵声と共に、白刃が急所を狙って繰り出される。
それを、少年は剣で受け止め、打ち払った。
おそらく、想像の埒外の力だったのだろう。男が驚愕の表情と共に、大剣を取り落とす。
そこへ飛び込んだ少年が、横殴りに剣を叩きつけた。
鈍い音が響いて、男の首の肉が裂けた。鮮血を噴きながら、直角に折れ曲がる。
その異様な光景を、シュバスは呆然と立ち尽くしたまま、見つめた。
「――‼」
最後の一人が、顔中を引き攣らせて、何かを叫んだ。ハンカの言葉だったが、その口調や飛び出さんばかりに見開かれた眼から、何と言ったのかは大体想像がついた。
アスギールの双眸に、黄金の燐光が弾けた。
再び咆哮を上げて、少年は地を奔った。目の前の男に体当たりを食らわせ、そのまま、もつれ合って地を転がる。
跳ね起きたのは、アスギールの方が速かった。遅れて起き上がろうとした男に、真正面から組み付く。
再び地に転がりながら、男は悲鳴とも怒号ともつかない喚き声と共に、大剣を突き上げた。
剣尖が、アスギールの細い肩に食い込んだ。だが、彼は悲鳴一つ上げず、むしろ自分から我が身に刃を押し込むようにして、両膝を相手の胸にかけ、押さえつけた。
そのまま、両手で握った剣を振り上げ、突き下ろした。鈍い音と共に、切っ先が肉の殻を破り、胸郭の奥へ突き込まれた。跳ね上がる絶叫にも耳を貸さず、その返り血を頭からかぶっても気に留める様子もなく、アスギールは、両膝の力だけで抑え込んだ相手の顔と言わず喉と言わず胸と言わず、突いて突いて突きまくった。
眼球が割れ、鼻が潰れ、口が抉られ、喉が裂けた。
人の顔が、見る見る内に唯の肉塊になっていく。
一体、その眸には何が見えているのか。
呻き声が途絶え、跨っている身体が完全に動きを止めても、それでも、攻撃を止めない。
「もう、いいです……、アスギール様……」
シュバスは、震えながら足を踏み出した。
真後ろで、あの時と同じ恐怖と嫌悪の悲鳴を上げた女と老人が、よたよたと逃げ出していく気配がした。
だが、シュバスの手足は、今度こそ前に向かって動いた。
「もう死んでいます! もういい、もういいですから……‼」
叫びながら、後ろからアスギールのやせこけた肩に腕を回し、抱きすくめるようにして死体の上から引き剥がそうと試みた。
だが、アスギールは意味の取れない叫び声を上げながら、両手を振り回し、暴れ回る。それにつれて長剣が空に翻り、血しぶきがシュバスの顔や手にも飛んだ。
一瞬、ひやりとしたが、アスギールは正気を失ったように荒れ狂いながらも、両手に握った長剣を、シュバスに向かって振り下ろしてくることはなかった。
その事実が、シュバスに勇気と落ち着きを与えた。やはりアスギールは、誰彼構わず災厄を振りまくという『鬼の子』などではないのだ。
「大丈夫です! もう敵は居ません。大丈夫だから、落ち着いてください‼」
その確信のもと、闇雲に暴れる手首を掴んだ。雨音にも、アスギール自身の喚き声にも負けないように、耳元で叫び続ける。
その何度目かで、ようやく少年が反応した。
唐突に動きが止まる。
数呼吸分の硬直の後、からん、と音を立てて、柄先まで人血に染まった剣が、地面に転がった。




