10. アクハト・ロークという男
唐突にアスギールを呑み込んだ嵐は、唐突に去った。
視界を染めていた赤が薄れていき、意識の壁が切り開かれる。
最初に知覚したのは、背中に感じる温もりと、自分の名を必死に呼ぶ乳兄弟の声だった。
「何と何と――これは……」
そこに、聞き覚えの無い男の声が飛び込んできた。
シュバスが、ハッとしたようにアスギールの肩を抱き込んだ。
その腕の中で、アスギールは目線だけを上げた。
眼球以外は動かせなかった。大牙虎を斃した時と同じだ。全身が波打ち、肺は軋み、手も足も強張って、全く動かせない。後ろからシュバスが抱き留めてくれていなければ、我に返ると同時に前のめりに地に沈んでいたに違いなかった。
そんなアスギールの前に立ったのは、砂色の髪と青色の眸を持った、三十歳そこそこの男だった。がっしりとした長身を簡素な戦衣に包み、その上に、胸甲と手甲と草摺だけの、これまた簡素な甲冑を重ねている。
後ろには、同じような装いの男たちが十数人ほど従っていた。全員、今にも眼窩から目玉を落としそうな顔で、アスギールを凝視している。
ハンカ兵ではない。だが、この荘園の人間でもなかった。
「白昼夢を見ているようであったが、これは紛れもなく現実だな? 凄まじい力、そして、凄まじい手並みだ。御名を伺っても宜しいか?」
先頭の男が、戦慄と高揚とが入り混じった声をかけてくる。その眸は、密やかな興奮をたたえて、食い入るようにアスギールを凝視していた。
「――アスギール・ザーラン様、です」
もはや指先一本動かせず、声を出すことすら億劫なアスギールに代わって、シュバスがぎこちなく応じた。
「ザーラン? では、ここの荘園主のご子息か」
「――それにしては、まるで流民のような恰好ですが」
男の真後ろにいる青年が、胡散臭そうな口調で言った。
年齢は二十歳前後で、この場に居る男たちの中では一番若い。海藻を被ったようなねっとりとした黒髪と黒い眸をしている。
「それに、酷い臭いだ。肥溜めにでも落ちたような……」
「止せ、ギヒル。従僕が主の子だと言うのだから、そうなのだろう
その青年を窘めると、先頭の男は、改めてアスギールとシュバスに視線を注いだ。
「わしはアクハト・ロークという。山向こうのリンザスから来た」
「――あなたが?」
アスギールを抱えたまま、シュバスがその名前に反応する。
「お? わしを知るか? 我が名も少しは知られてきたようだな」
にかりと笑って、男は厚みのある肩を軽く揺すった。
「いつものように北辺の哨戒に出ていたら、西の方でハンカの影を見たという報告が入った。ララドの北辺は、直轄領の割にまともな城壁も土塁もないところが多いし、ハンカに対抗できるような戦力を保持している荘園も無いからな」
「それで、わざわざ?」
ちらっと目線を上げて、アスギールは小さく笑った。
「こんな小さな荘園、助けてやったところで何の得もないのに」
「アスギール様……」
何とか口だけを動かすと、シュバスが慌てたように窘めてくる。
だが、アクハト・ロークという男は、気を悪くする様子もなく、呵々と笑った。
「得ならあるぞ。武功を上げればローク家の名も上がる、ララドの太守に貸しを作れる、ついでに、おぬしのような無双の勇士にも逢えた」
「――勇士?」
滑稽だ、と言わんばかりに、アスギールは喉の奥で嗤った。
「俺は『鬼の子』だ」
「何?」
「親や神官が、そう言った。俺のようなモノは人間ではない、と。だから、ずっと井戸の底に閉じ込められていた」
「――『鬼の子』だって?」
「――やっぱり、おかしいと思ったんだ」
海藻を被ったような髪の青年が顔をしかめ、後ろの男たちが後ずさる気配がした。
だが。
「『鬼の子』というのは、人に良からぬことをするから、『鬼の子』と言うのだろう?」
男は、首を傾げただけだった。
「だが今、彼は、後ろの従僕の子をハンカどもから護る為に力を振るったように見えたぞ」
「アスギール様が、最初に力を振るわれた時もそうでした!」
黙りこくるアスギールを全身で庇いながら、シュバスが叫んだ。
「大牙虎に襲われたご両親や俺を助けて下さったんです!」
「なのに、『鬼の子』と言われて、閉じ込められていたのか? ザーランの主や神官というのは、軒並み阿呆だったようだな」
再び笑って、男は、アスギールの目の前に、片膝をついた。
「おぬしのような者は『鬼の子』に非ず。『天の子』というのだ」
「――は?」
「この世には、稀にそういう者が産まれるという。人にして人に非ざる者――天なる神々に寵愛され、数多の異才に恵まれた子――『天の子』。おぬしの力は恐れられるものではなく、敬われるべきものだ」
きっぱりと言い切って、ずい、と右手を差し出す。
「我が家に来られぬか? 今までそんな扱いを受けてきたなら、ザーランに思い入れはなかろう? いっそきっぱり縁を切って、我らと共に新たに生き直してみぬか?」
シュバスに抱えられたまま、アスギールは、無言で目線だけを上げた。
この荘園の大人たちが取り続けていた自分との距離を何の衒いもなく踏み越え、手を差しのべて来た男を見返した。
『鬼の子』ではなく『天の子』――そんな一言で、十カ月をかけて地底の底で刷り込まれ続けて来たものを、いきなり別のものとして認識し直せと言われても、咄嗟には不可能というものだった。
だが、同時に、その言葉は、不信と猜疑で切り捨てるには、余りにも甘美な響きだった。そうやって別の名称で自分を呼ぶ者が居るなら、井戸の底以外にも、自分の居場所はまだあるのかもしれない、と。
アスギールは、ちらっと背後を見やった。十か月ぶりに感じた他者の温もりにほんの一瞬だけ意識を傾けてから、目の前の男を見返す。
「シュバスも、一緒なら」
シュバスがハッとしたようにアスギールを見、ふと涙ぐんだ。
「勿論、良いとも。わしがまとめて面倒を見よう」
「――もし、騙して、また穴に落とすつもりなら、殺してやるからな」
掠れた声で呟けば、男は、眸の中に幾ばくかの憐憫を滲ませた。
「つくづく酷い扱いを受けてきたようだな。安心せよ。『天の子』を裏切るような真似はせぬ――いや、致しませぬとも」
アスギールが示した拭い難い不信を、言葉遣いを改めながら受け流して、アクハト・ロークは血と泥と垢にまみれたアスギールの細い手を掴み、握り込んだ。




