11. うずくまる心
その日、帝都ハザラースフは朝から薄曇りの空模様だったが、午を過ぎたところで、とうとう雨が降り始めた。
カールスバードの冬は比較的乾燥しているから、雨神がやって来るのは珍しいことだった。
「――っ」
リファート・キルタールは、雨に濡れる直前ぎりぎりで、下邸の門内に駆け込んだ。愛馬アイシェの背から降りたところで、こめかみに走った鈍い痛みに、一瞬だけ顔をしかめる。
「ご舎弟?」
目ざとく気付いて声を掛けて来たのは、傍らに従っていた親衛士の一人、身の丈一・ニパッスス(約二メートル)はあろうかという巨漢だった。
リファートより少しだけ年上の二五歳。癖のある黒髪と明るい緑色の眸。腕にも肩にも胸にも筋肉が盛り上がり、着込んでいるエランの軍装が今にもはちきれてしまいそうだ。しかし、どちらかというと童顔なので、威圧感には乏しい。むしろ、祭りの際に道化師たちが用いる、着ぐるみの熊のような愛嬌があった。
「頭が痛まれるのですか? まさか、三日前の? であれば――」
「少し疼いただけだ。問題ない」
手を振って近侍の心配を退けると、リファートは、駆けつけてきた従僕に愛馬の手綱を預け、建物に向かって歩き出した。
「なら、良いのですが……」
後ろに従いながら、巨漢の青年は、主のこめかみに未だ生々しく残っている打撲の痕跡を見やった。
「それにしても、ジェンキズ卿があのような御仁であったとは、思いもしませんでした」
「彼自身もそう思っているのではないかな。突発的な逆境に直面した時、人は、自分自身ですら思いもよらなかった顔をさらすものだから」
リファートは溜息を吐いた。
「つまりは、それほどの恐怖に襲われたということだ。まあ、だからと言って、赦すつもりはないが。アストラードを撲ろうとしたことも、あの子から母親を奪ったことも」
「そのスレヤ様のご所在は……」
「可能な限りの伝手を当たってみたが、わからなかった。ただ、ザーレ伯家の下邸には、もういらっしゃらないようだ」
「では、ラスの丘にある上邸か、もしくは、既にご領地の方に……。しかし、あのスレヤ様が、ご自分の意志でファルハード様と離縁し、若をお棄てになるなど、あり得ないと思うのですが」
「俺もそう思う。だが――」
苦い吐息と共に視線を上げ、薄暗い空を見上げた時だった。
「ご舎弟! バリス!」
痩身の人影が、目の前の建物の影から出て来た。こちらを見るなり、大声で二人に呼びかけてくる。
「やっと戻ってきたんですか。そろそろタイラ様が発狂しそうでしたよ」
こちらも、二十代半ばの青年である。
一般的なエランの民は、黒髪に緑系の眸をしているが、その青年の髪は鉄紺色で、双眸は燃え盛る炎のような色合いだった。痩せぎすに見えるほど引き締まった体躯に纏っているのはエランの軍装であるが、それとは別に、首元に緋色の布を巻いている。
彼は、バリスと同じくリファートの親衛士の一人で、名をベルカントといった。カルス人ではなく、アスランの一族という、エランの一角に住んでいる少数民族の出身である。
「一応、どこに居るという連絡は欠かさなかったつもりだが、心配をかけたなら悪かった」
「そいつは、俺じゃなく、タイラ様やセルマン家軍長に言って下さい」
肩を竦めて、青年は気づかわし気な表情を浮かべた。
「とにかく、無事お戻りになったなら重畳。早く奥へ行ってあげて下さいよ。ちょっとその、面倒なことになってますから――若が」
「アストラードが?」
ハッと目を見開いて視線を巡らせると、リファートは踵を返した。
***
ヤンシャー朝カールスバードの諸侯貴族は、皇宮があるラスの丘に上邸を、帝都の町中に下邸を置くことになっている。
上邸は当主やその家族の帝都における居宅で、下邸は下役の家吏や従騎士たちの宿所や、領地から上がってくる租税や貢納品の保存と管理、そして、変事が出来した際の避難場所などに用いられる。
今がまさにその時であるから、エラン辺境伯家も、ファルハードが捕縛されて以来、拠点を下邸に移していた。
もっとも、その下邸も、明日には引き払うことになっている。ファルハードの処刑後、エランには帝都からの退去が言い渡され、上邸も下邸も国府に接収されることになったからだ。
よって、今、下邸は帰郷の準備で大わらわだった。下役の家吏たちは朝から出入りの商家へ出向き、買掛金を支払って回っている。従僕たちは勿論、従騎士たちも一緒に、表門の内側に幌をかけた荷車を何台も並べ、邸内から家財や荷物を運び出しては積んでいる。侍女たちも、道中の着替えや食糧の準備に余念がない。
何せエランはカールスバードの北東端に位置し、帝都ハザラースフからは、直線距離でおよそ三〇〇ミーレ(約四五〇キロメートル)ある。騎馬でも七日、箱馬車や荷馬車を連ねて大人数で移動するとなると、その倍はかかるからだ。
「ご舎弟様!」
喧騒の中、口から口へ、リファートの帰還が伝えられていく。それを聞きつけて飛び出してきたのは、ふっくらとした小柄な体躯の、四十代半ばの女性だった。
彼女の名はニース。メテインの妻で、キルタール家の侍女頭を務めている。
ざっと話を聞いて、リファートは、下邸の最も奥にある棟へ駆けつけた。
カルスの貴族様式の邸は、上邸、下邸を問わず、中心に長方形の中庭を置き、それを屋根の付いた回廊でぐるりと囲み、その回廊に沿うようにして複数の棟を建てる。
それらは、機能的に三つの区画に大別される。当主の執務室や客を迎える為の客間、従騎士たちの詰め所など、公的な機能を持つ棟が集まる区画が『表』、当主一家の私生活の場が『奥』、厨房や洗濯室など日常生活を整える為の機能を集めた棟や、住み込みの従僕や侍女たちが起居する為の棟があるのが『裏』である。
その『奥』の回廊の一角に、セルマンとメテインが佇んでいた。リファートが甥の為に用意した部屋の戸口の前で、二人そろって重苦しい表情を浮かべている。
「――せめて、何か召し上がらなくては」
そして、部屋の中から、心配が高じて焦りになっている声が聞こえて来た。
「若がそのような有り様では、ファル従兄上が哀しまれます。この蜂蜜茶だけでもお飲みになりませんか? お好きでしょう?」
セルマンとメテインが気付いて脇へ退いたので、リファートは戸口の前の空いた空間に立った。
部屋の中では、片手に小ぶりの椀を持ったタイラ・ロクマーンがおろおろとしていた。
通常なら、茶などの飲み物を入れるのは高坏で、椀は汁物用だ。敢えての椀は、父親を殺した毒杯を想起させない為だろう。
だが、その気遣いも虚しく、一日にして両親を失った七歳の甥は、何の反応も見せなかった。ひんやりとした空気の中、壁際に両手で両膝を抱えてうずくまり、床を見つめている。その顔は青白い無表情に凝り、まるで蝋人形のようだった。
「ご舎弟様がお留守だった三日間、ずっとあのままでいらっしゃるのです」
ニースが涙声で言った。
「一言もお喋りにならず、お食事も取られず、寝台に横になることもなさいません。水や粥を匙で掬ってお口に入れて差し上げても、ほんの数口飲み込まれるだけ。それ以上食べさせようとすると、吐いてしまわれるんです」
語尾に嗚咽が重なった。
「何より、一度もお泣きになりません。あれ以来、一度も」
「泣きたくても泣けないのでございましょう」
妻の隣に立ったメテインが、ぼそりと呟いた。
「泣くということは、お父上もお母上も居なくなってしまわれたと認めることですから」
「無理もない。若はまだ七つ。こんな現実、認めずにすむものなら認めたくないに決まっている」
セルマンが、実直そのものの顔を歪めた。
「だが、飲まず食わずで満足に寝てもおられぬ状態を放置していては、身体の方が壊れてしまう」
「私たちが何をどう慰めても、励ましても、若様のお耳に届く気配はありませんでしたけど、ご舎弟様のお言葉なら」
誠実で忠実な家臣たちの期待と願いの言葉を背に、リファートは部屋の中に踏み込んだ。
「――リファート」
気付いて振り返ったタイラが、安心と腹立ちが入り混じった複雑な表情で、眦を吊り上げた。
「お前、どこをうろついていたんだ。こんな状態の若を三日も放っておいて」
「あちこちだ。挨拶、交渉、根回し、駆け引き、時々恫喝、その他もろもろ、アストラードとエランの為に、必要と思われる場所全てを回って、頭を下げてきた」
「何か今、不穏なものが混じっていたな……。恫喝と頭を下げるって同義だったか?」
「細かいことは気にするな」
真面目に首を捻ったタイラを退かせて、リファートは、甥の前に片膝を着いた。
「アストラード」
呼びかけても、少年は何の反応も見せなかった。目線も上げず、いつものように明るい笑顔で『叔父上』と呼びかけてくることもなかった。
「――理解も納得もできない。そうだな?」
そんな硝子玉のような眸をしばらく見つめてから、リファートはゆっくりと言った。
「サギスの侵攻からエランを、引いては国を護った父が、何故死ななければならなかったのか。それも、よりにもよって、そのサギスに内通したなどという汚濁を擦り付けられて」
ひく、と少年の肩が波打った。




