8. ハンカの襲撃
ヤンシャー朝カールスバードは、西のエルトラル海峡でニカエア帝国と、東のアドラス山脈でサギス王国とアルゴン王国と国境を接し、南は外洋に面している。
そして、北には、大陸のほぼ北半分を占める大草原地帯、その名も『万里の草原』が広がっている。
この草原に割拠する遊牧騎馬民族が、ハンカである。
彼らは、普段は、広大な草原の各所に部族ごとに散らばり、互いに縄張り争いを繰り返しながら、遊牧生活を送っている。
それが、草原にもない訳ではない耕地が不作だったり、家畜が大量に死んだり、そんな事情がなくとも欲に駆られたりすると、徒党を組んで南下し、カルスの村々を襲撃しては、収穫物や家畜や金品、果ては女や子供まで、手当たり次第に奪っていく。これを、『南征』と呼ぶ。
つまり、カールスバードの北辺の人々にとって、ハンカの襲撃は、季節風より厄介な災害だった。
このザーランの荘園もカザンカ平原の北の端にあるから、アスギールとてハンカの脅威については知っている。
ただ、実際に襲撃を受けたことは、まだ無かった。何せ、ララドと呼ばれるこの辺りは、カザンカ平原の中でも特に貧しい土地柄なので、襲ったところで略奪できるものは多くない。山を一つ東に越せば、格段に豊かなリンザスがあるから、大抵のハンカはそちらへ行くのだ。
大体、今は冬季である。略奪目的の襲撃には季節外れだ。だから、『ハンカが襲って来た』と聞いても、一瞬、『まさか』と思う気持ちの方が先に立ったのだが――。
近くの物置小屋の影に一度身をひそめると、シュバスは手巾でアスギールの全身の汚れを可能な限り拭い、どこからともなく取り出した皮靴を履かせた。
その時、アスギールは、シュバスの上衣の袖口や脇に、この豪雨の中でも落ちることがなかった赤い染みを見つけた。
「シュバス――血が」
「え? あ、大丈夫です。これは、俺の血じゃありませんから」
シュバスは首を横に振ってから、俯いた。
「旦那様の血です」
「――殺されたのか?」
「はい。荘園の小作人たちを一人でも多く逃がそうとなさって――」
「そうか……」
あの瞬間までは優しく頼もしい父だった。だが、『鬼の子』だと信じた途端にアスギールを地の底へ落として、一瞬たりとも見返ることはなかった。
その男が死んだと聞いても、アスギールのひび割れた心は何一つ動かなかった。ただの一つの事実として、それを受け止めただけだった。
「あっちは?」
「あっち――奥様ですか?」
答えながら、シュバスは最後に、薄い毛皮の円套をアスギールに羽織らせてから、その手を掴み、引っ張るようにして歩き出した。
「奥様なら、メシッチさんたちが護って、先にお逃げになりました」
「シュバスは、どうして一緒に行かなかったんだ?」
ぽつりと零した問いに、答えはなかった。
ただ、アスギールの手を握っている手に、強い力がこもった。
「――井戸の蓋の鍵の場所、知っていたのか?」
「旦那様が、肌身離さずお持ちでした。だから、ずっと手に入れられなかったんですけど、ハンカが襲って来た今なら、もしかしたら渡して下さるかもと思って、俺、旦那様を追いかけたんです。でも、追いついた時は、もう……」
それで、シュバスは物陰に隠れて、アスギールの父を殺したハンカ兵たちをやり過ごすと、死体の懐から鍵を取り、井戸へと駆けつけてきたのだ、という。
「じゃあ、お前、俺を……」
井戸から出すつもりだったのか? でも、どうして? そんなことをしたって、何の得にもならないのに?
ぷかりぷかりと、疑問が浮かびあがる。
だが、それらが音となって唇から放たれることはなかった。
(まあ、理由なんて、どうでもいい)
重要なのは、自分が生きて外に出られたということだ。
だから、アスギールは別の疑問を舌に乗せた。
「どこへ行くんだ?」
「裏の木戸から出て、山を越えようと思います」
「山を越えるって、リンザスへ?」
思わず、口の端が上がっていた。
「まさか、俺たちみたいなのを、お偉い貴族様が助けてくれるなんて、思ってる訳じゃないよな?」
アスギールの父が治めるこのザーランの荘園は、ヤンシャー朝の直轄領であるララドに属している。
一方、東側の山を越えた先のリンザスは諸侯貴族領で、今の領主はバラコール・ファロフザード伯という人物だった。
「そのファロフザード伯の下に、アクハト・ロークという方が居ます。ご存じですか?」
「ローク?」
「リンザスの郷主のお一人です。武勇に聞こえた方で、ハンカや夜盗の類が出たと聞けば、ご自分の領地ではなくても郎党たちを率いて駆けつけ、助けて下さるとか。他にも、親の無い子供の面倒を見たり、食いつめて流れついた流民に働き口を世話してくれたりするって噂です。だから、ハンカに襲われたって事情を話せば、きっと助けて下さると思います」
シュバスの口調は、その人物を信じているというより、他に思いつく当てがないという雰囲気だったが、アスギールはぴたりと足を止めた。
「――俺は行かない」
「アスギール様? でも……」
「どこの誰が、『鬼の子』なんかを助けてくれるって言うんだ?」
音程を外した声で吐き捨て、シュバスの手を振り払う。
「やっと出られたんだ。他所の領主だの神官だのに捕まって、また穴に落とされるのは、真っ平だ!」
シュバスが、振り払われた手に、一度視線を落とす。それから、顔を上げ、アスギールを見返して、ふわりと頷いた。
「なら、二人で山にでも行って、暮らしましょうか」
「――は?」
「昔、裏の山で洞穴を見つけて、干し草で寝床を作ったり、木箱を机にしたりして、秘密の部屋を作ったでしょう? 山なら水もあるし、木の実もあるし、ウサギや山鳥も獲れる。二人でも、生きていけないことはないと思います」
「お前は、リンザスへ行けよ。お前は人間なんだから、そのアクハトって奴に助けてもらえる筈だ」
「いえ。アスギール様が行かれないのであれば、俺も行きません。俺は、アスギール様と一緒に居ます」
「何でだ?」
「だって、アスギール様は、俺の大事な若様ですから」
雨滴の中、三歳年上の乳兄弟が真っすぐアスギールを見つめて、躊躇なくそう言い切る。
だが、アスギールは本気でその意味がわからなかった。いや、わからなくなっていた。井戸に落とされる前なら一々説明されなくても理解できた筈のことが、言葉にされて尚、理解できなかった。
「俺なんかと一緒に居たって、お前には何の得もない。魔物の仲間と思われて、殺されるのが関の山だぞ」
だから、肩を竦めるようにして、そう言った。
その時だった。
どこかから、女の悲鳴が聞こえた。
***
シュバスが、ぎくりと顔を上げ、前を見た。
二人が居る場所の少し先には、荘園の敷地を囲んでいる柵が見えていた。
柵と言っても、大人の背丈ぐらいの高さの細い杭を等間隔に立て、その間に横木を渡してあるだけの簡単なものだ。野生の獣なら止められるが、人間、特に悪意を持って侵入しようとする者を止められるようなものではない。
その一角に、出入りの為の木戸がある。それは、既に内側から開け放たれていたのだが、シュバスとアスギールがそちらを見やった時、その木戸から、二つの人影が転がるように柵の内側へと駆け込んできた。
「奥様⁉ メシッチさん⁉」
シュバスが、思わずといった様子で声を上げた。
「シュバス! それに――」
死に物狂いといった形相で走って来ていた女と老人が、ぱっとこちらを見た。
瞬間、アスギールは身構えた。
だが、予想した悲鳴も罵声も上がらなかった。それどころか、二人は、アスギールと視線が合った瞬間、顔中を引き歪めるようにして、笑った。
「い、いい子ね、シュバス! 私たちの為に『鬼の子』を連れて来たのね!」
「早く、早く、あいつらを殺してくれ!」
「――え?」
シュバスが、驚いたように目を見開いた。
「奥方様? メシッチさん? 何を……」
アスギールも、理解できなかった。
てっきりまた、あの時のように悲鳴を上げて逃げて行くと思ったのに。シュバスのことも、勝手に井戸の鍵を開けて、『鬼の子』を――災いの種を外に出したことを怒るだろうと思ったのに。
だが、女と老人は前のめりになって走ってくるなり、当たり前のようにシュバスとアスギールの後ろに逃げ込んだ。
機械的にその二人を見てから、アスギールは、やはり機械的に首を巡らせた。
雨音の中、開け放されたままになっていた木戸から、三頭の巨大な馬が飛び込んできた。
その背には、見慣れない風体の男たちが乗っていた。
後頭部で一つに束ねた後、編んで背に垂らされている紅い髪。眸は碧色で、身体には、丸襟に右の前身ごろを大きく取って右肩で紐留めにした長袖の上衣と、同じく裾を踝で絞った褌を身に着けている。上衣の裾は膝まであるが、左右に切り込みがあって、腰の辺りで前後に分かれるようになっている。上も下も、身体にぴったりと張り付くような仕立てで、その上に、肩当ても袖もない、胸と胴回りだけを保護する簡素な革甲を重ねていた。
(これが、ハンカ……)
何のことはない、邸の裏手の道も、既に彼らに押さえられていたのだ。退路を断たれて、女と老人はこちらへ引き返してくるしかなかった。他の従僕が居ないのは、既に殺されたか、捕らえられたかしたのだろう。
「早く! 私たちを助けて!」
「『鬼の子』なら、あんな奴ら、一捻りだろう!」
二人の絶叫が聴覚を――心を叩いた。
「待って下さい、お二人とも。そんな、勝手な……!」
傍で、シュバスが叫び声を上げた。
全くだ――と、アスギールは、摩耗していく一方の理性の片隅で思った。
化け物と恐れて井戸の底に落とした力を、別の災厄が現れたら、求めるのか? 『助けろ』? 真っ暗な井戸の底で、喉が潰れるまで『助けて』と叫んだ自分の声には、何一つ応えなかったくせに?
心の中に巣食った黒い獣が、ぐるる、と低い唸り声を上げた。がちがちと牙を鳴らし、鉤爪の生えた足で地を引っ掻き始めた。
その唸り声に促されて、アスギールは、女と老人へ向かって、足を踏み出そうとした。
だが、その時。
「逃げて下さい、アスギール様」
女と老人の言葉とは真逆の意味の言葉が、再度、アスギールの聴覚を叩いた。
「こんな人たちは放っておいて。ご自分の安全だけを考えて、どうか、山でもどこでも、お好きな所へ」
背負っていた長剣の柄に手を掛け、覚束ない手つきで抜いたシュバスが、アスギールの前に出た。
「シュバス……?」
「早く!」
突き飛ばすように掛けた声は上擦っている。剣の柄を握り込んだ両手も、傍目にもそれとわかるほど、小刻みに震えている。
紅髪の男たちが何かを言いながら、余裕の表情で馬から降りた。ハンカの言葉だったので意味はわからなかったが、シュバスを揶揄したのだろうということは、想像がついた。
当然だった。アスギールより年長とは言っても、シュバスとてまだ十歳の少年だ。しかも、彼はただの従僕で騎士ではないから、剣など持ったこともなければ、使ったこともない。戦闘民族としても名高いハンカになど、敵う筈がない。
それでも、シュバスはm必死の形相で、両手で掴んだ剣を身体の正面に立てた。アスギールを前に押しやるのではなく、自分自身が前に立った。
「アスギール様、お助けするのが遅くなって、ごめんなさい」
最後に、という雰囲気で紡がれた言葉が、立ち尽くしたアスギールの耳に届く。
見開いた眸が、目の前に立つ背中を映す。
その言葉の意味も行動の理由も、相変わらず、理解できない。
だが今、ほんの少しだけ、思い出していた。あの日、大牙虎に向かって走り出した時の気持ちの片鱗を。損得ではなく、理屈も理由もなかった、自分自身の行動の底にあったもののことを。
ハンカ兵の一人が、腰に佩いていた大剣を抜き放った。表情も態度も、完全にこちらを舐めている。目の前に示されたシュバスの抵抗の意志など、一撃で粉砕できると信じて疑ってはいない。そして、それはおそらく、事実でもあった。
その姿があの大牙虎に、そして、鉄格子越しに見上げ続けた天に、重なった。
瞬間、アスギールの視界は真っ赤に、そして、頭の中は、真っ白に染まった。




