7. 無慈悲なる天
翌日、雨が降り始めた。
カールスバードの冬は比較的乾燥しているから、雨神がやって来るのは珍しいことだった。
井戸の上には屋根などというものは無いので、雨粒は全て鉄格子をすり抜け、アスギールがうずくまっている底にまで届く。
あっという間に全身がびしょ濡れになり、周囲は泥土と化し始めた。
冬季の最中であれば、雨は氷のように冷たい。ただでさえ肉が削げ落ちていた身体からは、あっという間に体温が奪われていった。
(このまま死ねるかな……)
そうぼんやりと思ったが、すぐ、それどころではなくなった。
雨粒が大きくなる。全身を叩く勢いが増す。まるで天の湖の底が抜けでもしたかのように。
思わず、両腕を頭上に上げて、顔を庇っていた。雨粒が余りに重くて、まともに受けていると痛くてたまらなかったからだ。
そんな自分が、アスギールは、ひどく滑稽に思えた。死にたいと思っている筈なのに、身体に痛みを感じれば反射的に逃れようとするなんて。
「⁉」
ハッと気付けば、地面につけていた尻や足の裏が泥水に浸かっていた。
その水位が急速に増していく。アスギールの足首から膝へ、腰へ。そして、胸辺りまで水が増えたところで、ぷかりと身体が浮いた。
降り続ける雨の中、徐々に井戸の上へと運ばれながら、アスギールは恐怖の眼差しで頭上を見上げた。
ここへ落とされた当初は、爪がはがれ、小さな指が血まみれになっても諦めず、何度も何度も壁を登ろうとした。
だが、どんなに頑張ってみても、大牙虎を打ち倒した時のような異常な力は、出なかった。
あれが無ければ、アスギールはただの七歳の子供だ。研磨した石を隙間なく組み上げて作られた、ほぼ垂直の井戸の壁を、しかも、三パッスス(およそ四・五メートル)もよじ登るというのは、不可能だった。
その出口が、今、目の前まで迫っている。
だが、そこには、頑丈な鉄格子の蓋が被せられているのだ。しかも、アスギールがここに落とされた時、父だった人はその鉄格子に鎖をかけ、端を井戸の縁にぐるぐるに巻き付けた上、つなぎ目に錠前まで取り付けていた。
その真下まで来たところで、アスギールは両手を差し上げ、鉄格子を掴んで押し上げようとした。
だが、案の定と言うべきか、そもそもの重量がある上に鎖と錠前で固定されている蓋は、びくともしなかった。
水の中では踏ん張ることもできない。アスギールは、腕の力だけで鉄格子を押し上げようとしては水没し、その度に泥水を飲んでは咳き込んだ。
「っ、あんまりだろ、こんなのっ」
水はどんどん増え続けている。雨も、止む気配はない。このままでは、確実に、水はアスギールの頭を越えて、鉄格子から溢れ出すだろう。
「天は、そんなにも、俺が嫌いか」
拳を固め、鉄格子を殴りつけた。じん、と手が痺れて、弾みで涙が滲んだ。
(どうせ嵐を寄越すなら、雷でも落として、一撃で終わらせてくれたら良いのに)
じわじわと追い詰め、死の恐怖を散々に味わわせてから、水死させようなんて。
(無慈悲にも程がある)
そう思った時だった。心に穿たれた亀裂の底で、何かが大きく渦を巻いた。
――諦めろ。
どこかから囁く声が聞こえてきた。
――諦めて、沈んでしまえ。
そうすれば、楽になれる。終わることができるぞ、と。
「っぶ、ごほっ」
そうだ。
もう終わりたかった。楽になりたかった。それをこそ望んでいた筈だった。
だが――何故だろう。
手も足も、抗うことを止めない。手は鉄格子を押し続け、足は水を掻き続けている。
頑張ったところで、無駄なのに。
頭では、そうわかっているのに。
命が、戦うことを、止めない。
「嫌、だ……」
やっぱり、こんなのは嫌だ。納得できない。
だって、自分は、何も悪いことはしていない。なのに、ただ、こんな風に生まれたというだけで――。
「どうして、俺が諦めないといけないんだ」
見開いた眸の奥で、焦点が揺れ始める。
その先には、頭上いっぱいに広がる、黒い天があった。
そこで、誰かが嗤っているような気がした。はるか高みから、地上に蠢く命を睥睨し、無慈悲な運命ばかりを投げ落とす『何か』が。くすくす、くすくす、と。
「――煩いっ!」
声を限りに叫んだ瞬間、アスギールの中で、怒りや哀しみや憎しみや怨みが――およそ人が持ち得る負の感情の全てが嵩じ、爆ぜた。
その爆炎の中で、黒い影が揺れる。爆ぜた激情の粒子で形作られた巨大な獣が、虚無の凪を押しのけるようにして、むくりと身体を起こした。
「間違っているのは、お前たちの方だ。見てろ! 俺は諦めないからな! 俺をここへ堕としたもの、全部、全部、全部、全部、きっとこの手で引き裂いてやる……‼」
ひび割れた心に誕生した獣が、牙を鳴らし、咆哮を上げる。
それに突き動かされるまま、アスギールは、血走った眸で天の高みを見据え、鉄格子の隙間から骨と皮ばかりになった腕を突き出して、力の限り、空に爪を立てた。
それは、現実を考えれば、ただの負け犬の咆哮でしかない戯言だった。実際、アスギールの命は、天が投げ落とした運命から逃れる手段もないまま、ただむなしく消えて行こうとしていたのだから。だが――。
「アスギール様‼」
叩きつける雨音の中を、その運命を変転させる声が貫いた。
「シュバス……?」
ハッと鉄格子を掴み直し、可能な限り首を捻って、視界を凝らした。
井戸の周囲の地面にも水たまりが広がっている。その水を蹴立てて、見慣れた栗色の髪が駆け寄ってきた。
「水が⁉ すぐ開けますから‼」
井戸の状況を見るなり、三歳年上の少年は、勢いよく鉄格子に飛びついた。手に握っていた小さな鍵を錠前に差し込み、開けると、巻き付けられている鎖を引っ張り、はがし始める。
「っ、シュバス、早く、早く!」
アスギールは、ガンガン鉄格子を叩き、揺らしながら、金切り声で喚いた。
「開けて! 出して……!」
「アスギール様、落ち着いて!」
「落ち着いてなんか……! げぼっ!」
「余計に水を呑みますよ!」
シュバスは焦り声で応じながら、何とか蓋を固定していた鎖を引きはがし、放り出した。蓋の縁を掴み、顔を真っ赤にしながら横に押す。
アスギールの顔が水没する寸前、ようやく、井戸の縁と鉄格子の縁の間に隙間が生じた。そこから手を伸ばしたシュバスがアスギールの腕を掴み、引っ張り出す。アスギールの身体は十カ月ぶりに井戸の縁を越え、勢い余ってひっくり返ったシュバスと共に、地表のぬかるみの中に転がった。
「げほっ、げほっ」
アスギールは、四つん這いになって、口の中に入り込んでいた泥水を吐き出した。弾みで多少の胃液も逆流したようで、喉が焼けるように痛かった。
だが、『助かった』という感慨に浸る暇はなかった。
「動けますか、アスギール様。なら、立ってください。早く、今の内に逃げるんです!」
シュバスがアスギールの腕を掴み、うずくまりかけた身体を引きずり起こす。
「逃げ、る?」
「聞こえませんか、あの音」
言われて、アスギールはふと顔を上げた。
そこでようやく、豪雨の彼方から伝わって来る、そこはかとない喧騒の気配に気づく。その中に、時折、悲鳴のような声が混じることにも、だ。
(何だ? また、大牙虎が出たのか?)
そう思った時、アスギールは、シュバスが背中に、見慣れないもの――大人用の長剣を背負っていることに気付いた。
「ハンカです! 北の草原の民、ハンカが襲って来たんです!」




