6. 『カザンカの良い魔物の子』の話
頭上に、足音が響いた。
「――アスギール様」
かけられたのは、未だに彼をその名前で呼ぶ、唯一の声。
狭い縦穴の底に座り込み、枯れ木のように細くなった両腕で胸前に立てた両膝を抱え込んでいた少年は、ゆっくりと顔を上げた。
三パッスス(およそ四・五メートル)ほど頭上にある穴の出口には、頑丈な鉄格子の蓋が被せられている。その向こうに、栗色の髪と鳶色の眸が見えた。
「お食事をお持ちしました」
声と共に、鉄格子の隙間から、紐で吊るされた籠が降りてくる。中には、固焼きのパンと水を詰めた瓶、そして、蓋付きの小さな容器に入れられた野菜くずのスープと、干し肉の小さな塊が入っていた。
光のない目でそれを見つめて、アスギールは手を伸ばした。両手でパンと干し肉を掴み、交互に貪り食う。水は勿論、スープも、匙などは使わず、容器の縁に直接口をつけて、流し込んだ。
「――シュバス」
終わったという合図に紐を引いてから、アスギールは視線を上げた。
「俺の『餌』は、パンと水だけだろ? 余計なものをつけると、怒られるぞ」
「大丈夫です。誰にも見られてはいませんから」
「あの干し肉、本当はお前の分だったんじゃないのか? 今日は月に一度、従僕や小作人たちに肉が振る舞われる日だものな」
「わかるんですか?」
「食事の回数を数えていれば、嫌でもわかる」
伸び放題に伸びた亜麻色の髪の毛先をつまみながら、感情のない声で言う。
「あの日から、明日でちょうど十カ月、だな」
「それ、ずっと数えていたんですか?」
シュバスの声に、幽かな戦慄が滲んだ。
「暇だから」
狭い穴の壁に背を預けて、アスギールは両足を前方に投げ出した。
「なあ、シュバス、何で言われた通りにしないんだ? パンと水だけなら、いくら俺が『鬼の子』でも、あの人たちの望み通り、俺はもう死んでいただろうに」
「――アスギール様は、『鬼の子』なんかじゃありません」
「そんなことを言うのはお前だけだ。あの人たちも、メシッチも、何より、神官が、俺を化け物だと言った。魔物に取り換えられた『鬼の子』だ、と」
カールスバードには百を下らない神々がいて、それぞれに人口に膾炙した神話を持っているが、それと同じくらい、その神々に敵対し、人々に災いをもたらす魔物たちの話がある。
その中に、夜陰に紛れてやってくる魔物が人の赤子を盗み、代わりに自分の子を置いていく、という伝承があった。その子は『鬼の子』と呼ばれ、見た目は人と寸分違わないが、人外の力をふるって多くの災いをもたらす、という。
「もし、アスギール様が本当に『鬼の子』だったとしても、いい『鬼の子』です」
「はあ?」
「御伽噺です。覚えていませんか? 死んだ母がよく聞かせてくれたじゃないですか。『カザンカの良い魔物の子』の話を」
それは、こんな話である。
昔々、カザンカ平原のある村に、親切で評判の良い人の夫婦が居た。
その夫婦に子供が生まれた時、ある魔物が、嫌がらせをしてやろうと思って、自分の子供と夫婦の子供を取り換えた。
魔物の子は、見た目は人の子と何も変わらないので、人の夫婦は、しばらくは何も気付かず、魔物の子を自分たちの子供として大切に育てた。その所為か、魔物の子は大層優しい心の持ち主になり、周りの人や獣たちが困っていたら、いつも助けてやっていた。
ところが、最初はさほど人と変わらなかった魔物の子の力は、大きくなるにつれてどんどん強くなっていった。
そしてある日、魔物の子は、底なし沼に落ちた羊を助けようとして、その羊を片手で持ち上げた。
だが、それを見た人の夫婦は恐れおののいて、魔物の子を家から追い出してしまう。
魔物の子は仕方なく魔物の親のところに戻るが、そこでは、取り換えられていた人の子が、魔物の親と一緒になって、旅人を道に迷わせたり、馬のしっぽを切り落としたり、貧しい子供のパンを石ころと取り換えたりと、悪戯ばかりしていた。
優しい魔物の子は、困ったり泣いたりしている人や獣を放っておけず、その力を使って、魔物の親と養い子の悪戯を止めたり、人を助けたりするようになるのだ。
「アスギール様は、人食いの大牙虎から、旦那様たちや俺を助けようとしてくれた。だから、あのお話の魔物の子と同じです」
話しながら、シュバスが紐を引き、籠を吊り上げていく。
「――シュバス」
しばらくの間、黙りこくって目の前の石の壁を見ていたアスギールは、ぽつりと言った。
「じゃあ、俺はずっとこの中に居なくちゃいけないんだな」
途中まで上がっていた籠の動きが、止まった。
「なあ、シュバス」
「――はい」
「もしかしたら、と期待するのも、飽きたんだ。明日になれば、もしかしたら、あの人たちがその蓋を開けて、俺をここから出してくれるんじゃないか、なんて。けど、もうそんなことはあり得ない。そうなんだろう?」
「そう決めてしまうのは、まだ……」
「子供が出来たらしいじゃないか」
昏い眼差しが頭上を仰いだ。
「二日ぐらい前かな。近くでメシッチと小作人たちが話してるのが聞こえた。奥方様に新しい子が宿ったって。今度こそ魔物に取り換えられないように、皆で気を付けないといけない、って」
「……」
「『カザンカの良い魔物の子の話』も、最後はそういうものだったよな」
そう――人や獣を助けてばかりいた魔物の子は、とうとう魔物の親を怒らせて、魔物の家からも追い出されてしまうのだ。
どちらの親にも棄てられた魔物の子は、カザンカ平原の荒野の穴の中に隠れるが、ある冬の夜、どうしても我慢できなくなって、人の親の家の前まで行ってみた。
しかし、窓から家の中を覗いてみると、そこにはもう新しい子供が生まれていて、人の親たちが魔物の子を思い出すことはなかった。その光景を見た魔物の子は、荒野の穴の底に戻り、二度と出て来ることはなかった――という。
「まあ、俺は、自分からここへ入った訳じゃないけど」
大牙虎と遭遇した、十か月前の、あの日。
逃げて行く両親の背を呆然と見ていたアスギールは、その後、鋤や鍬を手に集まってきた小作人たちに追い回されて、邸の敷地の隅にあったこの枯れ井戸に突き落とされた。
その間に、両親は、荘園の神祠を守る年老いた神官を呼んで来た。
両親の話を聞き、アスギールが斃した大牙虎の死骸を見た神官は恐れ戦き、間違いなくこれは人の子ではない、魔物の子だと断言した。本当の『アスギール』は、誰も知らない間に魔物に喰われてしまったのだろう、とも。
両親は泣き叫び、小作人たちも、早くあの『鬼の子』を殺して、坊ちゃんの仇を討ってくれ、と老神官に訴えた。
『いや――しかし、直接手を下して殺しては、祟りがあるやもしれんから』
老神官はへっぴり腰でそう言うと、井戸の出口を頑丈な鉄格子で塞がせ、一日に一度、パンと水を井戸に投げ込むよう、両親に言い付けた。最低限の食料さえ投げてやっておけば、その後何があろうと我らが殺したことにはならないから――と。
この時、自ら進んで、アスギールに食事を運ぶ役を引き受けたのが、三歳年上で乳兄弟でもある、シュバスだった。
以来、彼は、未だにアスギールを名前で呼び、一日に何度も井戸の傍へ来ては、食事だけでなく、毛布や替えの下着や身体を拭う為の濡らした布なども、こっそりと降ろしてくれる。こんな場所で、アスギールが十カ月もの間生き延びることが出来たのは、間違いなく、そのおかげだった。
だが、いつからか、アスギールは、そんなシュバスに感謝をしなくなった。
どれほど願っても、本当に欲しいもの――解放は与えてくれなかったからだ。はるか頭上から地の底のアスギールを見下ろして、『もう少し待ってください』と繰り返すだけで。
(俺を出してくれるつもりなんて、無いんだ)
ならば、放っておけばいいのに。
憐れみか、それとも、他の大人たちと同じように祟りを恐れてでもいるのか。
中途半端に優しくして、期待だけを抱かせて――結果、アスギールの命の灯は未だ消えることなく、この地の底で苦しみ続けることになっている。シュバスの『優しさ』の所為で、いつまでも終息という安寧を得られずにいる。
(そんなの、父だった人や母だった人の無視より、もっと酷いじゃないか)
その時、アスギールを捉えたのは、怒りというより、底のない虚しさ――虚無だった。
だから。
「もう、来なくていいよ、シュバス」
それに促されるままそう告げた時、アスギールは、既に幾つものひびに覆われていた自分の心に、一際大きな亀裂が穿たれる音を聞いた。




