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黄金天秤の王とエランの鷹  作者: ささなぎ
Ⅰ 運命のはじまり
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4. 小さな厚意ともう一つの別離

 仮面の男の一人が手を伸ばし、うなだれた首筋に手を当てた。閉じた瞼をめくり上げて、瞳孔を確認した。

「死にました」

 無表情な声が告げる。

「ウズンの丘へ運べ」

 薄い笑みを含んだ声が言った。

 宰相(ワジーレ)の声だった。

「慣例通り、三日間ウズンの丘にて晒し、しかるが後に、ムールヤー河に投げ棄てさせよ。祖皇(そおう)シマス・ヤンシャーの尊きお血筋を裏切りし大罪人は、その肉を鰐や魚どもに喰われ、その魂は眠ることなき屍鬼(グール)と化して、永劫の苦しみと共に地表をさ迷うのだ」

 それが鼓膜を通り過ぎ、脳に到達した時、アストラードの中で高騰し、荒れ狂っていた感情が一気に掻き消えた。全身から力が抜け、ぺたりとその場に座り込んだ。

 叔父は黙ったまま、そんなアストラードをしっかりと抱えてくれている。タイラとセルマンとメテインもアストラードを囲み、護るように膝を着く。

 背後で、広間の大扉が開かれた。

 言うだけ言った宰相と皇帥(サルダール)が、もはや死者にもその家族たちにも興味はないというように、身を翻す。その後に、見届け人として壁際に立っていた貴族たちと正騎士たちとが続いた。虚脱した少年とその周囲を護る家臣たちから視線をそらし、顔を背け、なるべく距離を取ってそそくさと通り過ぎ、外の回廊へ出て行く。

 その間に、仮面を付けた男たちは、鉄の椅子からファルハードの遺体を下ろし、用意されていた担架に乗せて、黒い布を被せた。

 そうして、宰相も皇帥も貴族たちも居なくなったところで、最初から椅子の脇に居た二人が担架の前と後ろを持って、担ぎ上げる。毒杯を運んできた男は、片手に銀の盆と空になった高坏を持ったまま、その脇についた。

「父上……」

 担架が脇を通り過ぎようとした時、アストラードは座り込んだまま、縋るように片手を伸ばした。その手を、叔父が黙って押さえ、握り込んだ。

 その時だった。

 仮面の男たちが、申し合わせたように足を止めた。

 毒杯を運んできた男が、銀の盆を担架の端に置く。遺体を覆っている黒布をほんの少しだけめくり上げ、どこからともなく取り出した小刀で、ファルハードの漆黒の髪を一房、切り取った。そして、アストラードの前に片膝をつくと、敬虔とすら言える仕草で、それを差し出してきた。

 カルスでは、死んだ人間の魂は、『冥穴』から大地の下にある『冥府』に下ることになっている。その『冥穴』には番人が居り、神官たちによって『正しく』弔われて、地上の穢れを清められた魂のみを通す、ともされている。よって、正しく弔われなかった為に番人に通してもらえず冥府に下ることが許されなかった魂は屍鬼となり、永遠に眠ることなく地上の影をさ迷い歩くことになる――と。

 だから、ヤンシャー朝では、第四代皇帝シマス二世が暗殺者の刃に斃れた時から、大逆の謀叛人とされた者の遺体は遺族に下げ渡すことなく、先ほど宰相が言った通りの方法で処理されることになっていた。命を絶つだけではなく、死後の安寧すらも赦さない、という見せしめの為に。

 つまり、仮面の男たちの行動は、明らかにそれに背く行いだった。宰相や皇帥に知られれば、彼ら自身が罰を受けることは必至だった。

「いい、の?」

 だが、アストラーの問いかけに、仮面の奥に見える青色の眸は、小さく、だが確かに、頷いて見せた。

「ありがとう……」

 叔父たちが少なからぬ驚きを漂わせる中、アストラードは震え声と共に両手を伸ばした。父の遺髪を受け取り、全身で包むように握り込んだ。

「ご厚情、感謝する」

 細い嗚咽を洩らし始めた甥の背に手を添えて、リファートが頭を下げる。

 仮面の男は、やはり黙ったまま小さく目礼すると、立ち上がった。

 再び担架が動き出す。咽び泣く少年の周囲で、四人の男たちは、ほぼ同時に居住まいを正した。背筋を伸ばし、右手を左胸の上部に当てて、運び去られていく遺体とその担ぎ手たちを、最上の敬礼で見送った。

 無言で示された小さな厚意と、渡された一房の遺髪。それは、この泥濘のような現実の中に灯された、かすかな光だった。

 だが、父の遺体が運び出される様を見届けた後、蹌踉としてエラン辺境伯家の下邸(しもやしき)に戻ったアストラードを、更なる悲報が待っていた。


 ***


「――ご舎弟様!」

 アストラードたちが門をくぐるなり、下邸の留守を預かっていた従騎士たちや侍女たちが、青ざめた顔で飛び出してきた。

「つい先ほど、ザーレ伯家のジェンキズ様が押しかけて来られて」

「奥方様を馬車に乗せて、お連れになってしまわれました」

 そして、口々にそう訴えてきた。

「なに?」

「ジェンキズ殿が?」

 リファートだけではなく、タイラやセルマンたちも驚きの声を上げた。叔父に手を引かれてぼんやりとしていたアストラードも、一瞬で我に返り、顔を上げた。

 ジェンキズは、アストラードの母スレヤの父、アルパー・ザーレ伯の嫡子である。つまり、スレヤにとっては兄で、アストラードにとっては母方の伯父ということになる。

「そ、それで、これを、ご舎弟様にお渡しするように、と」

 侍女頭のニースが差し出したのは、筒状に細長く丸め、紐を掛けた一通の書状だった。

 開いた叔父が、小さく息を詰める音が聞こえた。

「叔父上?」

 思わず問いかけると、リファートがアストラードを見た。その目に、一瞬、逡巡が滲んだ。本当のことを話すべきか隠すべきか、と思い悩んだ様子が見て取れた。

「なに? 何があったの? どうしてジェンキズ伯父上が母上を連れて行ったの? 教えて!」

 無我夢中で叫ぶと、リファートは短く息を吸い、吐いた。そして、言った。

「これは、離縁状だ」

 周囲の大人たちが皆、一斉に息を引いた。

「りえんじょう?」

 おうむ返しに繰り返したのは、アストラードだけだった。

「アルパー・ザーレ伯からの、ファルハード・キルタールとスレヤ・ザーレの婚姻を解消する、という通告だ。証人として、アルー・ブラン聖殿のセイフティン大神官の印章が押されている。つまり、神殿が公に発行した、正式の離縁状だ」

「――セイフティン大神官だって?」

「――何故、ここで皇帝の従弟が出て来る?」

 絶句する大人たちの中、リファートは覚悟を決めたように、真っすぐアストラードの目を見ながら、教えてくれた。だが、七歳のアストラードには耳慣れない言葉が多すぎて、やはりすぐには意味が取れなかった。

「それは、どういう意味ですか?」

「義姉(あね)上は、今日を限りにエラン辺境伯家から出て行く――そうさせると、そなたのおじい様が言って来た、ということだ。兄上の妻であること、そして、そなたの母であることを辞めさせて、ザーレ伯家に戻す、と」

「え?」

 叔父が噛み砕いてくれた言葉を咀嚼するには、少し時間が必要だった。それを呑み込むには、更に時間が必要だった。

 母が、エランから出て行く。

 母が、母ではなくなる。

「嘘――」

 もはや泣くことも出来ず。

 アストラードは、ただ呆然と、その場に座り込むことしかできなかった。


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