3. 永遠の別れ
貴族たちの列から、四十代前半の男が進み出てきた。
髪油をたっぷり塗り込んで梳き上げた、ダークブラウンの髪。暗褐色の眸。金糸銀糸で刺繍がほどこされた豪奢な礼装に包まれた身体は、長年の飽食を物語るようにでっぷりと肥えている。
その名を、ジョモレ・セレス。皇帝家を支える五大公家の一つ、セレス大公家の当主にして、今上帝アルワン・サマド・ヤンシャーの義兄。そして、十七年前から、この国――ヤンシャー朝カールスバードを実質的に支配している宰相である。
「時間だ」
その眸がアストラードたちを睥睨し、冷ややかにそう告げた。
びくっと全身を引き攣らせた息子を、もう一度だけ強く抱きしめてから、父の腕が解かれる。そのまま、静かに立ち上がる。
「父上!」
追いすがりかけたアストラードを、リファートの腕が捉える。引き攫うようにして抱き止め、強く包み込んだ。
「嫌だ。やめて。お願い……!」
「煩い」
それでも暴れ、もがきながら叫んだアストラードに、宰相は酷薄な笑みを向けた。
「躾のなっていない小童だ。畏れ多くも、皇帝陛下のご裁定に異を唱えおるか? なれば、父親共々、その細首もここで打ち落としてくれてもよいのだぞ?」
「――リファート」
一歩下がったファルハードが、声をかける。懇願の口調に、叔父がぎりと奥歯を噛みしめ、その掌でアストラードの口元を覆った。
「ファルハード・キルタール!」
声も動きも封じられ、ただ双眸を見開いていることしかできなくなった少年の眼前で、宰相の横に並んだ別の男が、声を上げた。
こちらは、三十代の後半。癖のある灰色の髪を首の後ろで一つに束ね、大柄で筋肉質の体躯に臙脂色の軍装を纏い、その上に真紅の円套を羽織っている。
男の名は、ヒュセイン・シンジャール。ジョモレ・セレスと同じ五大公の一人にして、現在は、国軍のトップたる皇帥の地位にある。
「貴様は、カルス諸侯貴族の列に連なる者でありながら、宿敵サギス王国に通じ、畏れ多くも皇帝陛下に弓引かんと謀った!」
「んーっっ‼」
居丈高な宣告に、アストラードは千切れるほど強く、首を左右に振った。
嘘だ、違う、と、声にならない声で、何度も叫ぶ。そんなことは、この場に居る者の殆ど全員が知っている筈だった。その証拠に、皇帥の宣告に嗤って頷いたのは、宰相を始め、ほんの数人だった。残りの者たちは、関わり合いになるまいというように目を逸らしているか、居たたまれないように俯いているかの、どちらかだ。
「大逆の謀叛人なれば、本来なら一族郎党共々ウズンの丘に引き出し、斬首とすべきところを、寛大にして慈悲深き皇帝陛下は、無い訳でもない貴様の功績を鑑み、毒杯での自裁をお許しあった。また、潔く罪を認めたれば、処罰は己れ一人に留め、エラン辺境伯家の爵位と家門も安堵するとの御諚だ。蒙昧の身に過ぎたるご厚情を感謝し、己が大罪を悔い改めるが良い」
ヒュセイン・シンジャールの鳶色の眸が、悦に入ったようにファルハードを睥睨する。
だが、ファルハードの表情は、髪の毛一筋ほども動かなかった。ただ、冷めた目で、己れを誣告し続ける相手を見返している。
「――その目だ。その目が、昔から心底気に食わなかった」
皇帥がふと顔を歪め、低く吐き捨てた。
「たかが辺境貴族の分際で、旧エタナ王国王家の血筋に連なるこのわしを莫迦にしおって。この結末は、敬うべきを敬わなかった貴様自身の愚かさが招いたことだ」
「敬われたければ、血筋や地位ではなく、自らの行いを省みるべきだな、シンジャール大公」
ファルハードは、むしろ面倒くさそうに応じた。
「相変わらず、肝の小さい男だ。俺が気に入らないから殺してやると言うなら、宰相のように堂々とそう嘯いてみせろ。自分から恥知らずな真似を選んでおいて『俺は悪くない』と言い訳するなぞ、滑稽なだけだぞ」
「っ、黙れ‼ 最後の最後まで、口の減らない奴だ‼」
厳つい顔を赤黒く浮腫ませると、皇帥は片手を挙げた。
応じて、全身を黒の布で覆って白い仮面を付けた、三人目の死刑執行人が現れる。両手には、銀色の盆。それを捧げ持つようにして、音もなく鉄の椅子の前に歩み寄ってくる。
その上には、素焼きの粗末な高坏が乗せられていた。
目の前に差し出されたそれを、ファルハードは黙って取った。そして、何の気負いもなく口元に運び、一息に煽った。
塞がれたままのアストラードの口から、声にならない悲鳴が迸った。
ファルハードが、やはり黙って、高坏を銀の盆に戻す。そのまま、どかり、と背後の椅子に腰を落とす。
すると、左右に控えていた仮面の男たちが素早く屈み込んで、両手首に荒縄を回し、椅子の肘置きに括り付けて、固定した。
この処刑方法で裁かれる罪人の中には、手指を喉に突っ込んで飲まされた毒を吐こうとする者が少なからず居るという。座らせて固定するのはそれをさせない為であり、その椅子が鉄製なのは、罪人が暴れて椅子ごと逃げ出したり、周囲の見届け人たちに危害を及ぼしたりすることを防ぐ為だった。
だが、わざわざそんなことをしなくても、ファルハードは、迫る死の顎から逃れようとはしなかった。ただ静かに呼吸を繰り返しながら、家族と家臣たちを見つめている。最期の最期まで、その姿を目に焼き付けておこうとするように。
アストラードの耳に、自分を抱きすくめている叔父の切迫した息遣いが届く。タイラやセルマンが、迸りそうな激昂を堪える為に、ぎりぎりと奥歯を噛みしめている音が聞こえる。メテインが、声にならない声で祈りの言葉を唱えている気配を感じる。
「叔父上、離してください」
「――駄目だ」
「お願い!」
泣きながら、アストラードは懇願した。
嘘なのに。何もかも偽りなのに。その上、冷たい鉄の椅子で、一人きりで、荒縄に括りつけられて最期を迎えさせられるなんて、あんまりだ。変えられない運命なら、せめて体温を届けられる近くまで行きたかった。傍らで、手を握っていたかった。
そんな息子を見つめるファルハードの双眸が、ふと揺れた。
***
「すまない……」
目の前に迫った死の顎。その息吹を感じた時、ファルハードの心に、一点の影が落ちた。
宰相たちとの間に確執を生んだきっかけなど、数が多すぎて、もはやどれがそうだかわからない。
帝都の祥学院で学んでいた頃、街中で年端もいかない少女に乱暴しようとしていた年上の少年たちを、『大公家の息子だから何だ!』と言い放って殴り倒した時からか。
皇帥が、自身の指揮の失敗による敗戦の責任を、最も立場が下の将校に押し付けようとした時、他の将軍たちのように黙って従うのではなく、断固として偽証を拒否した時からか。
宰相が、諸侯や皇宮の文武百官を前に、『珍しい鹿を手に入れた』と言って馬を曳いて来させた時、皆が『確かに珍しい鹿だ』とほめそやす中、『誰が何と言おうと、馬は馬だ』と応じた時だったか。
――『馬』を『鹿』だと言うことぐらい、どうってことは無いでしょうに。
――あなたはもっと賢くならなければ。口では言うとおりにしておいて、腹の中で舌を出していればいいんですよ。
――他人がどうなろうと関係ない。己が家門さえ安泰なら、それで良いではないか。
あちこちで、そんな忠告もされた。
だが、ファルハードには、それに従うことはできなかった。どうしても。
その結末が、これだ。
(俺はいい。全ては、自分自身の選択の結果だ。だが――)
己れの生き方が、妻を酷い目に遭わせた。息子に、哀しみと苦しみの枷を負わせることになった。弟や家臣たちに全ての後始末を押し付けて、あの皇帝と宰相と皇帥の足元に置き去りにすることになってしまった。
「俺が――もっと……」
毒とは別の痛みと苦みが、胸奥に広がりかけた時だった。
「兄上」
呼ぶ声が聞こえた。
声も動きも封じられて、ただ泣き続けるばかりの息子を抱きかかえた弟のリファートが、真っすぐ視線を合わせてくる。この短い間に、全ての激情を制御し、目の前の現実を呑み下してみせた表情で。
年齢は十二も違うが、直情径行の自覚がある自分に比べて、はるかに理性的で頭も切れる、しっかり者の弟。
ファルハードが、百騎足らずの麾下だけを率いて千を超える敵軍に突っ込んだ時も。領民から村の近くの山に金毛熊が出て困っているという話を聞いて、たった一人で退治に出かけた時も。帝都の酒楼で妓女にだらしなく絡んでいた国軍の将軍を諫めたら、何故か呑み比べの勝負をすることになり、店中の酒樽を空にしてとんでもない額の請求書を持って帰る羽目になった時も。『莫迦にも程がある!』と盛大に雷を落とされたものである。
だが。
『兄上が、揉み手をしながら宰相の機嫌を取ったり、皇帥の横暴に諂ったりするような人間なら、誰があなたを『太陽』と称えたりするものか』
一度、権力者に阿ることができない自分を――それによって、エランの立場が悪化していくことを詫びたファルハードに、リファートは苦笑して言った。
『誰が何と言おうと馬は馬だと言い切り、身分や地位を嵩に弱者を身代わりにする卑怯を赦さない――そういう兄上だから、皆があなたを信じた。『エランの太陽』と』
その信頼があればこそ、エランは、外敵の侵入にも、大嵐や地揺れや旱魃などの災害時にも、即座に一つにまとまることができた。そして、数多の災厄を、最小限の犠牲で乗り越えてきた。そうして、多くの家臣や領民が命を保ち、生活を保ち、家族や友人との当たり前の日常を送ることができる――今のヤンシャー朝カールスバードでは稀な諸侯貴族領を維持してきた。
「あなたは『太陽』であり、『鷹』だった。そうだろう?」
リファートがかけてくれた最後の言葉が、その時の会話を思い出させた。それが、幾千の雄弁よりはるかに明瞭に、弟の想いを伝えてきた。詫びる必要などない、と。
確かに、あなたは器用な人間ではなかった。人によっては、嗤うだろう。謗るだろう。
だが、ここに居る我々は知っている。その生き様が織りなした道程は、保身の為の犠牲に供した他者の屍でも、媚びの代償に施された金銀でもなく、その誠実によって護られ咲き誇った、無数の名もなき花々に彩られていることを。それは、我らの誇りでもある、ということを。
「そうか……、そうだった、な……」
肩から、余計な力が抜けた。
ファルハードが選んだ生き方――その結果としての現在を、責めるでなく、怨むでもなく、ただ深い哀惜と共に見送ってくれている、家族と家臣たち。
その姿が、光に彩られて、闇の中から切り取られたように見えた。
繰り言が止まり、沁みかけた影が消える。
その眸が、息子を見、弟と三人の家臣たちを見、もう一度息子を見――そして、にこりと柔らかく微笑んだ。
それが、最後だった。
精悍な顔に、死の翼が広がる。それに覆われて、瞳孔から光が消えていく。音もなく瞼が落ち、頭が前に傾いで、ゆるりと脱力した身体が、鉄の椅子に預けられた。




