2. エランの少年
ヤンシャー朝カールスバード帝国の帝都ハザラースフは、東のアドラス山脈から流れ出す二つの大河、ムールヤー河とアルトパム河の間に広がる、紅の平野のただ中にある。
東西距離、およそ二四ミーレ(約三六キロメートル)、南北二二ミーレ(約三三キロメートル)。ラスと呼ばれる平たい頂上を持つ丘を中心としたほぼ円形の都で、二重の城壁がその周囲を巡っている。
ラスの丘の頂きにあるのが、帝国の物心の中心、皇宮である。
その外れに、周囲を鬱蒼とした森に囲まれた、真四角の建物があった。
西方暦二〇三年――晩冬。
「ご子息にご舎弟に、側近たちだけか?」
アストラードが、叔父のリファートと共に扉の前に立つと、脇に控えていた中年の衛士の一人が、ぎょろりと目を動かした。
「辺境伯の奥方は参られなかったのか?」
「知らないのか?」
傍に居る叔父が答えるより先に、別の衛士が嫌な嗤い方をした。
「スレヤ・キルタール・エラン辺境伯夫人は、気が触れてしまわれたそうだ。到底、別れの挨拶になど来られまいよ」
「ああ、なるほど。御身を捧げての助命嘆願も聞き届けられずとあっては、か弱い女性が心破られるも道理か。お気の毒にな」
にやにやと嗤った衛士たちに、全身が引き攣った。
同時に、アストラードの手を握ってくれている叔父の手に、強い力がこもった。
「黙れ」
低く、雷火をまとわせた声が放たれる。
たった一言。
だが、年齢こそは二十三歳と若いが、十代の頃から父と共に数多の戦場を駆けてきた叔父の一喝だ。強者の尻馬に乗って弱者を嬲るような卑怯者に、太刀打ちできる筈がない。
案の定、衛士たちは、死角からいきなり殴られたような顔になった。
それでも、七歳のアストラードは勿論、その叔父も後ろに居る三人の男たちも、この場に通される前に全員が武装を解除され、身に寸鉄も帯びてはいないことを思い出したのか、すぐに傲岸な表情と態度を取り繕った。
「では、入られよ。特別のお計らいを下された陛下のお慈悲、宰相閣下のご厚情に感謝し、粗相、失態のなきようにな」
何が慈悲か。何が厚情か。
そう叫びたい想いを堪えるアストラードの眼前で、閉ざされていた大扉が開かれる。
その向こうには、四方を厚い石の壁に囲まれた広間があった。
奥の壁に、一枚の旗が貼られている。
布地は真紅。その上に、金糸で描き出されているのは、五枚の花弁を持つ花の中央で翼を広げている、三本足の烏。ヤンシャー朝カールスバード帝国の皇帝旗である。
初冬のひんやりとした空気の中、むき出しの石の床はなお寒々しく、壁に取り付けられている燭台の灯りだけが、閉ざされた空間を薄ぼんやりと照らしている。
左右の壁際には、二十人近い男たちが整列していた。
左側に居るのは、色鮮やかで豪奢な刺繍を施した衣服をまとい、金銀宝玉をあしらった贅沢な装飾品を着けている、諸侯貴族たち。
右側に居るのは、腰に剣を佩き、右手に槍を持ち、臙脂色の軍装に同じ色合いの短筒型の帽子をかぶった、騎士たち。
彼らの視線の先、ぽかりと空いた広間の中央には、高い背もたれと肘置きが付いた椅子が一脚、置かれていた。カルス人の日常生活ではまず使わない様式のもので、装飾などは一つもなく、しかも全て鉄で出来ている。
その左右には、二人の男が控えている。
どちらも、全身を黒の布ですっぽりと覆い、顔には、目と鼻のところだけに三角の穴が空いた白塗りの仮面――すなわち、死刑執行人の証を付けている。
そして、鉄の椅子の前には、三十代半ばの男が一人、立っていた。
鍛え抜かれた長身に纏わされているのは、礼装でも軍装でもなく、裾が足首まで届く白色の貫頭衣で、腰は帯ではなく、縄のような紐で締めてある。量感のある黒髪は解かれて肩に流され、身に装飾品は一つもなく、足元も裸足だった。
「なんというお姿……。あれでは、市井の囚人と同じではないか」
「諸侯貴族としての最低限の威儀すら、認める気はないというのか」
立ちすくんだアストラードの耳に、背後の男たちの呻き声が聞こえた。
「アストラード」
その語尾に、張りのある呼び声が重なった。
白衣の男が、少年に視線を向けている。
その顔は、突然捕縛された二月前に比べると、明らかにやつれていた。それでも、向けられた眼差しは真っすぐで、何の曇りもなかった。
「父上!」
足が、勝手に走り出した。四方八方からの環視の中を、一直線に駆け抜ける。そうして、軽く身を屈めた父――エラン辺境伯、ファルハード・キルタールの腕の中に飛び込んだ。
「嫌です、父上。嫌です!」
「ああ、俺とて残念だ」
爆ぜるような声を上げた少年を、父は全身で包み込むようにして抱きしめた。
「そなたが大人になっていく姿を、見届けたかった。もっと一緒にいて、色々なことを教えてやりたかった。きっと俺に似て、いい男になっただろうからなあ。そうなったそなたと、一度酒を飲んでみたかった」
大きな手が、泣いて縋る少年の後頭部を撫でる。優しく。何度も。何度も。
「だがな、誰も何も怨むではないぞ。報復などは、尚更考えるでないぞ」
「無理です……」
嗚咽の合間に、アストラードは、小さく声を振り絞った。
「だって、父上は、何も悪いことなんて、していない……」
「そなたがそれを知ってくれているだけで、俺は満足だ。だから、俺を想ってくれるなら、そなたは生きて、自身の人生を広げることだけを考えろ」
抱き込んだ身体を少し離して、父がアストラードの顔を見つめてくる。
いつも通りの、曇りのない、明るく優しい眼差しで。
「スレヤやリファートたちの言うことをよく聞いて、よく学び、よく遊べ。そして、そなたの命は、俺の報復の為などではなく、他の誰か――これから先、いつかきっと出逢う、そなたが心から大切に想う者たちの為に費やせ」
大きな掌が、涙に濡れて震えている丸い頬を包み込んだ。
「今しばらくは、夜闇が辛かろう。冬の長さが苦しかろう。それでも、耐えて朝を待ち、春を迎えろ。信じ得る友を見つけ、愛する人と出会い、精一杯、幸せになれ。この俺が、そうだったように」
こつり、と額と額が触れ合わされる。
想いを溶かし込むように。祈るように。
「愛しているよ、アストラード。スレヤにも伝えてくれ。何があったとしても、俺は、そなたとスレヤを、誰よりも愛している、と」
「僕も、大好き……!」
ぶわりと新たな涙を溢れさせて、アストラードは、両手を父の首に回し、力の限りしがみついた。広い肩口に額を埋め、周囲を埋める男たちには聞こえないよう、精一杯の声を絞り出す。
「父上を誇りに想っています。父上と母上の子で良かったと思っています。本当です」
「ああ――知っている」
父の両腕に、ぎゅっと力が込められた。
「俺も、そう想っている。そなたのような息子を得ることができて、俺は、本当に幸せだった」
腕の中で泣き咽ぶ少年を愛おし気に見つめて。
そして、ファルハードは、視線を上げた。
「そなたたちのこともな。リファート、タイラ、セルマン、メテイン」
強い意志を宿したままの眸が、一人一人を順に見つめていく。
「こんな形で皆を置いて去らねばならぬことを、心苦しく思う。今まで、世話になった。二十年にも満たない間だったが、俺が当主としてやって来られたのは、皆の助力があってのことだった。本当にありがとう」
「――ファル従兄上」
タイラが片手で、片眼鏡をかけている目元を覆った。
彼は、ファルハード兄弟の父方の叔父の息子、すなわち従弟に当たる。弟のリファートと同じ二十三歳だが、三年前に父親を亡くし、キルタール家の筆頭分家であるロクマーン家の当主となっている。
生真面目な性格そのものの顔立ちは、今、憤怒と絶望に歪み、今にも何かを叫び出しそうだった。
「――主公」
「――勿体ないお言葉でございます」
その横で、エランの私家軍を束ねる家軍長のセルマンと、領地の内政を統括する家宰のメテインが、言葉少なにうなだれる。
セルマンは四五歳。メテインは四七歳。共に、先代辺境伯、すなわちアストラードの祖父の頃からの側近で、その早世によって、ファルハードが十七歳でエランの領主を継いだ時から、誠心誠意、その支えとなってきた。そんな二人にしてみれば、まさかこんな形で、十歳以上も若い主を見送らなければならなくなるとは、思いもしなかったことだろう。
「リファート」
最後に、ファルハードは弟に視線を向け、そして、ふと苦笑を滲ませた。
「敢えて、礼装ではなく、軍装を選んだか?」
その通りだった。
諸侯貴族家の一人であれば、公の場では礼装が基本である。
だが今、リファートは、長袖の上衣と踝丈の脚衣に袖のない膝丈の胴衣を重ね、腰を革帯で締めていた。袖の無い膝丈の胴衣は従騎士、すなわち、特定の貴族家に仕える騎士たちの標準的な軍装である。色や装飾は所属する貴族家によって違うが、エラン辺境伯家の場合、布地の色は黒で、襟と袖口と裾回りに緑の差し色が入っている。
上に甲冑を着用すれば、いざ戦場という装い――それが、弟の決意と覚悟の表れであると、兄は汲み取ったようだった。
「今、この時より、エラン辺境伯はそなただ。エランの黒鷹旗とキルタール家の家督を継いで家臣を導き、領地と領民を護れ」
「――はい」
込み上げる激情を必死に堪えている表情で、リファートは一歩前に出、兄の傍らに片膝をついた。
「アストラードが成人するまで、その席をお預かりします。どうぞ、ご案じなく」
「ああ」
それでも冷静に、確かに応じた弟に、ファルハードの眉目が、息子に向けたものと同じ笑みに綻んだ。
「何も心配はしていない。そなたが居てくれる以上、俺が居なくなっても、エランもアストラードも大丈夫だと、知っているからな」
片腕に息子を抱いたまま、ファルハードがもう片方の手を伸ばす。弟の肩に掌を置き、しっかりと包み込む。
「頼む」
「必ず」
父が掛けた信頼の言葉に、叔父が血を吐くような口調で誓った時だった。
「そこまでだ」
前方から、冷ややかな声が上がった。




