16. 共に在る
「――見事だ」
初めて後ろへ下がると、リファートは、突かれた腕を軽く振った。
当のアストラードは、木剣を突き上げた姿勢のまま、固まっていた。一撃を入れたことが信じられない様子だった。
急所を狙った本気の刺突だった。今のアストラードの力でも、まともに受けていれば、下手をすれば喉が潰れていただろう。
にもかかわらず平然と称賛したリファートに、アストラードの表情が大きく揺れた。
「頭の中で、ずっと誰かが言っていました……」
鉛色に染まっている小さな唇が、無意識のような声を絞り出した。
「諦めろ、って……」
諦めろ。諦めて、剣など棄ててしまえ。そうすれば、楽になれる。終わることができるぞ、と。
「でも、この指が、離れなかった。何を考えた訳でもないんです。ただ、離れなかった……」
命が、戦うことを、止めなかった。
「そうか」
息を吐いて、リファートは、木剣の先を下げた。
「なら、それでいい」
「――良くありません!」
弾かれたように、アストラードは頭を上げた。
「我慢できる自信なんてありません! 皇帝も宰相も皇師も大嫌いだ! あんな奴ら、今すぐみんな居なくなってしまえばいいんだ!」
一息に吐き出された悲痛な絶叫が、石畳を叩く雨音の中に反響した。
「――こんなことを考えるのは、いけないことですよね」
それが消えたところで、細い首が前に傾ぎ、血と泥にまみれた黒髪が下方に流れた。
「嫌いだから、居なくなってしまえ、なんて。それじゃ、あの人たちと同じだ。だから、父上も、『怨むな』と仰ったのですよね。だったら、僕は、あの人たちを赦さなくてはいけないんだ。そうでしょう?」
両手で木剣を握りしめたまま、少年の両膝がぬかるみの中に落ちる。そのまま、ぺたりと座り込んだ。
「でも――でも、出来ない。父上の遺言なのに。それでも、赦せない。赦したくない……!」
「そうか。そんな風に考えていたのか」
息を吐くと、リファートは木剣の先をくるりと回して脇に納め、甥の前に片膝をついた。
「アストラード、『怨まない』ことと『赦す』ことは別だ」
ファルハードは、理不尽な死を前にして、それでも、息子や弟たちに、『仇を討ってくれ』と望むのではなく、『生きて幸せになってくれ』と願った。最期の最期まで、自分のことより、遺される者たちのことを慮っていた。
「そんな人をあんな形で奪った者たちを、赦す必要などない」
きっぱりと断言し、ただ――と言葉を続ける。
「兄上が『怨むな』と言われたのは、怒りに我を忘れて、憎しみを晴らすことだけを目的にするような、狭い生き方はしてくれるな、ということだ」
最後に合わせた視線。そこに在った想いを、リファートは見誤ってはいなかった。
兄は、怒りにも憎しみにも囚われてはいなかった。宰相たちのことなど、もう心底どうでも良くなっていたのだ。案じていたのは、息子とエランのことだけ――その未来だけだった。
「憎いのは当然だ。俺だって憎い。なら、そなたは具体的にどうしたい? 居なくなってしまえばいいということは、宰相や皇帥を暗殺すれば良いか? それとも、兄上や義姉上を奪われたように、彼らから大切な存在を奪ってやるか? 例えば、シンジャール大公は、セレス大公の妹の一人を妻に迎えていて、息子と娘が居る。奴らの前で、その子たちを死体にしてやれば、満足できるか?」
矢継ぎ早に淡々と列挙した『具体的』の内容に、タイラやニースはぎょっと目を剥き、セルマンは片手で額を覆い、メテインは首を傾げた。
「ご舎弟が直に手を下されると後が大変ですから、その場合は専門の暗殺者を雇うとして、相場が……」
「メテイン殿……、真面目に計算しなくていいから」
「そもそも、暗殺者に当てなんかあるのか?」
セルマンが溜息と共にメテインの肩に手を置き、タイラが再び目を剥く。
アストラードも大きく眸を見開き、ごくりと息を呑んだ。
一瞬、その眸の奥に影が滲んだ。復讐という名の、昏く甘い蜜の影が。
だが、少年はぎゅっとその眸を瞑ると、頭を左右に振った。
「それは、違う。違います」
「違うか?」
「暗殺なんて、無実の人を死刑にするのと同じくらい、卑怯なことでしょう? それじゃ、あの人たちが父上にやったことと、同じだから……」
リファートの冷涼な眉目に、薫風が舞った。
「では、そなたの怒りは、何を願う?」
「怒り、が、願う……」
「指が離れなかったと言ったな。それは、そなたの怒りが何かを望んで、終焉を願った絶望を上回ったからだ。でなければ、あの一撃は出ない。それは何だ? どんなに荒唐無稽に思えることでもいい。言ってごらん」
「――父上は、何も悪いことは、していない」
数呼吸分の沈黙の後、アストラードは再度リファートを見上げ、震え声を絞り出した。
「父上の名誉を取り戻したい。そして、父上を陥れた奴らに償わせたい。暗殺とかそういうのじゃなくて、もっとその、ちゃんとした――『正しい』方法で。その為に、この国に、それができる国になって欲しい」
リファートの表情が深くなった。
「なら、そなたは、兄上の『怨むな』という言葉の意味を、ちゃんとわかっている。その願いが、怒りと憎しみを発散させることではなく、嘘と偽りが正されることであるなら」
「でも、僕は、叔父上みたいに強くありません」
俯いて、アストラードは涙声で言った。
「あの人たちが憎い。赦せない。でも、同じくらい、怖くて仕方ないんです。何を言っているのかわからないし、何をしてくるかもわからない。だから、ちゃんとできる自信なんてない……」
「それは当然だ。俺だって怖い」
さらりと言えば、少年が顔を跳ね上げる。両眼を真ん丸にして思い切り驚いている表情に、リファートは苦笑した。
「全ての過去と未来を見通すという『イェスイムの眼』ならともかく、ただの人の眸に未来を見ることはできない」
まして、これからエランが往くのは、一寸先も見えない闇路。そこで待ち構えているのは、『正義』の立ち位置が違うからこそ、言葉も気持ちも通じない者たちだ。
「こんな状況、怖くない方がおかしいというものだ。だがな、それでいいんだ。恐怖を知らぬ猪突猛進など、ただの蛮勇でしかない。恐れるべきを恐れ、それでも踏みとどまったそなたは、決して弱くなどない」
手を伸ばし、未だ木剣の柄を握りしめたままの小さな手を、上から包み込んだ。
「そう――先のことなど、誰にもわからない。だから、それは恐怖であると同時に、希望でもある」
確かに、宰相や皇帥は、ファルハード・キルタールの生き方と存在を否定した。
ザーレ伯家を始め、多くの諸侯貴族もそれに倣った。
「だが、この国の人全てがそうだった訳ではない。フェルザン卿やナスタラーン大公、それに司法院のアルッシ伯など、裁きの場で兄上を弁護する為に声を上げてくれた人たちは確かに居た。危険を冒して、そなたに兄上の遺髪を渡してくれた、あの死刑執行人たちのような人々も居た」
この世は悪意と敵意に満ちている。
――だから、注意と警戒を怠ってはならない。
だが、同じくらい、善意や厚意も存在している。
――だから、信じることや願うことを、最初から諦めてしまう必要もない。
「今すぐは無理でも、いつか何かが変わり、『正義』の立ち位置が変わって、そなたの願いが叶えられる日も来るかもしれない。今、大事なのは、その日を目指す意志だ」
「目指す、意志……」
「そなたにその意志さえあれば、悪意に耐えることも敵意を躱すことも、いざという時は真っ向から戦うことも、俺が教える。困った時は助ける。倒れそうになれば支える。それでも届かなければ――その時は、共に滅びる」
アストラードが、ハッと瞳孔を震わせた。
「叔父上……」
「そなたは独りではないし、独りにさせもしない」
その眼差しを受け止めて、リファートは、重ねた掌を握り込んだ。凍えて冷え切っている小さな手に、少しでも温もりが戻るように。
「だから、今はその怒りを隠し、憎しみに耐えて、学べるだけのものを学んで大きくなれ。兄上が言うところの『俺に似たいい男』にな。その芽は、間違いなくそなたの中にある」




