17. 共に往く
ひく、とアストラードの唇が震えた。
「叔父上、頭の怪我は、大丈夫ですか……?」
片方の手が剣の柄を離れ、リファートの頭に伸びて来る。三日前、自分を庇ってジェンキズに撲られた時の、打撲の痕跡へ。
「大事ない」
「――良かった」
ゆるりと首を振ってやれば、幽かな安堵が零れる。
「ごめんなさい……」
瞳孔の奥で、小さな光が瞬く。
色濃く澱む不安と恐怖の影を払拭するには、まだ足りない。だが、それは確かに光だった。
「だ、大嫌いなんて言ったことも、ごめんなさい。僕……」
「心配をかけたことは、後でニースたちにこそ謝れ。だが、俺への謝罪は不要だ。嫌われても文句は言えないことをした」
小さく零された苦笑に、アストラードは、ふるふると何度も首を左右に振った。
その眸の中で、光が広がる。心を満たし、瞳孔を満たして、目尻から溢れ始める。
同時に、手の中から、木剣が滑り落ちた。
「父上……、母上……」
か細い声で両親を呼んで――ようやく、少年は泣き出した。
泣き出すことができた。目の前の現実を受け入れて。全身を打つ雨の中に座り込んだまま、泣いて泣いて泣きじゃくった。
波打つ背に手を添えてやれば、両手を伸ばしてしがみついてくる。黙って抱えてやれば、跳ね上がる泣き声が大きくなった。
「――うっうっ、良かった。一時はどうなることかと」
「莫迦。お前が泣いてどうする、バリス」
「そう言うお前こそ、目の縁が赤くなってるじゃないか、ベルカント」
「つまり、どっちも同じということですね」
「煩いぞ、ケネス」
回廊の一角で、親衛士の二人が小突き合い、それをケネス少年がからかって、二人から同時に雷を落とされている。同じように、あちこちで男たちがほっと息を吐き、女たちがもらい泣きを始めた。
「死にたいなら殺してやるなんて、結局、そんなつもりなど無かったんじゃないか」
タイラが溜息を吐いた。
「けど、それで本当に若が絶望に敗けていたらどうするつもりだったんだ、あの莫迦は」
「若であれば敗けはしないと、信じておられたのではないかな」
セルマンがしみじみと呟いた。
「わしらはただ若を憐れみ、無力な子供として庇うことしか考えていなかったが、ご舎弟だけは違った訳だ……」
「確かに、あいつにしか出来ないことだったな」
タイラが、片手でがしがしと後ろ髪を掻き回した。
「正気でこんな狂気じみた賭けに出るなぞ――確かにあいつは、七万のサギス軍に、最初たった四千騎で躊躇なく打って出たファル従兄上の弟だよ」
「おや、ようやくお認めになったので?」
泣いているニースの肩を抱えたまま、メテインが微かに笑った。
「タイラ様は、子供の頃から大層ファルハード様を尊敬しておられましたが、反対にリファート様とは喧嘩ばかりでしたからね。しょっちゅう、お前なんてファルハード様の弟とは認めない、などと仰って」
「ご舎弟も、普段は冷静なくせに、タイラ殿が相手だとやけに意地を張ることが多かったからな。肉饅頭をいくつまで食べられるか、なんてしょうもないことで張り合って、結局二人して腹を壊してひっくり返ったこともあったなあ」
「いくつの時の話だ⁉ 変なことを思い出さないでくれ」
くつくつと肩を揺らしたセルマンにタイラが顔を真っ赤にし、会話が聞こえるところに居た従騎士たちの何人かが小さく笑った。
「まあ、子供の頃なら笑い話で済んだが、ファルハード様をあのような形で失った今、おぬしたちが意地の張り合いを続けて対立するようでは困ると、正直思っていた。だが、そういう言い方をしたということは――良いのだな?」
苦笑を収めたセルマンが、年長者としての静かな眼差しをタイラに向けた。
「――ああ」
一呼吸の間を置いて、タイラもまた頷いた。
「異存はない」
爆ぜた嗚咽は、すぐに小さくなった。
リファートにしがみついたまま、アストラードの瞼がとろとろと落ちていく。眠ったというより昏倒したといった方がいいような有り様だったが、もともと体力的にも気力的にもとうに限界だった筈だから、無理もない。
「――ニース」
その背をそっと撫でてやってから、リファートは、肩越しに声を投げた。
「湯と臥所の用意を頼む。身体を拭いて、寝かせてやってくれ」
「は、はいっ。直ちに」
泣きながら駆け寄ってきたニースが、リファートの手からアストラードを受け取る。他の侍女たちも走り寄って来て、ようやく眠りの慈悲に抱きしめられた少年を宝物のように抱え上げ、奥の棟へと連れて行く。
見送って、小さく息を吐いた時だった。
「ご舎弟――いや、主公」
聞きなれた呼び名が、別の呼び名に変わった。
首を巡らせると、目の前にセルマンが歩み寄ってきた。その後ろには、タイラとメテインの姿もあった。
目線が合うと、セルマンがその場に片膝を折る。後ろの二人も、躊躇なく、それに倣った。
「キルタール家直系のお血筋だからというだけではなく、ファルハード様のご遺命だからというだけでもなく、我ら自身の総意として、御身を主に推戴する」
思わず目を瞬いたリファートに、セルマンが重厚な声で言った。
「意志も覚悟も見届けた。なれば、我らも怒りを隠し、憎しみに耐えて、御身と若と共に往く。若の正義と願いを道標に、今この時より命尽きるまで、我らの剣は御身のものだ」
「私の場合は、剣ではなく筆でございますが」
「細かいことはいいんだよ、メテイン殿。――とにかく、そういうことだ」
メテインがひっそりと言い添え、タイラも言った。
「ロクマーン家の主として、本家の新たな当主に忠誠を誓う。あんたがエランと若を護るなら、そのあんたを護るのが分家の役目だ」
幹部三人の宣誓に、真っ先に駆け寄って来たのは、バリスとベルカントだった。タイラとメテインの背後に跪き、同じように頭を下げる。続いて、ケネスを始め、回廊や中庭のあちこちでも、従騎士たちや家吏たちはおろか、侍女たちや従僕たちまでが、その場で次々に膝を折っていった。
皆、ファルハードという太陽を喪い、この先自分たちはどうなるのかという不安に揺れていた。その顔に、新たな期待を浮かべ。絶望に沈んでいた眸に希望を乗せて。恐怖ゆえではなく信頼ゆえだとわかる態度で、雨滴の中に、ぬかるみの中に、平伏していく。
「――誓いを受ける」
そんな家臣たちの姿を順に見つめてから、リファートは立ち上がった。
「太陽は去った。夜闇が来る。冬の時代が始まる。だが、エランは敗けてなどやらない。決して」
誰よりも現実の厳しさを知り、前途の遼遠さを知りながら。責務を棄てず、希望も棄てず、恬淡と一歩を踏み出そうとしている顔で。
「アストラードとエランを護り、必ずや朝を待ち、春を迎える。その為に、皆の力を貸して欲しい」
「望むところ」
「お仕え申し上げます」
「あんた一人じゃ無理だろうからな」
セルマンは実直に、メテインは淡々と、そしてタイラは、まだ少しだけ素直になれずにいるような顔で。ファルハードの下では同輩だった三人が、一斉に叩頭する。
それを受けて、リファートは微かに笑い、そして、瞑目した。
曇天と雨の所為で分かりにくいが、そろそろ陽が落ちる頃合いだった。
となれば、三日間さらしものにされていたファルハードの遺体も、今頃はムールヤー河に運ばれ、投げ込まれていることだろう。
その光景を想えば、臓腑がねじ切れそうになる。誰よりもリファート自身が、今すぐ剣を手に、皇宮へ乗り込みたくなる。
それでも、誰よりそれを望む資格を持っている甥が、血で血を洗う報復ではなく、偽りが正されることをこそ願うというなら。
(お別れを申し上げる、兄上。どうか安らかに――)
無念を晴らすと叫ぶのではなく、ただその冥福だけを祈った。
その頬を、雨にまぎれて一滴の水滴が伝う。それもまた、リファートがようやく兄の為に流すことができた、涙だった。
西方暦二〇三年も終わりに近づいた、その日。
冬季には珍しい大雨がカールスバードを席捲した。
その同じ雨の中で、二つの魂が、それぞれの運命を掴み取った。
理不尽を引き裂くことを欲した少年と、理不尽が改まることを願った少年。『黄金天秤の王』と『エランの鷹』――後にカールスバードの歴史を変転させることになる二人の邂逅までは、まだしばらくの歳月が必要だった。




