15. 敵なき初陣
「うわあああっ」
紙のような白さに染まっている小さな顔の中で、濃緑の瞳孔がぎゅっと窄まる。
次の瞬間、小さな身体が発条のように跳ね上がった。
「どけ、タイラ、ニース」
不意の絶叫にぎょっとなった二人を押しのけるようにして、リファートは前に出た。
甥が振り上げ、振り下ろしてきた一撃を受け止め、弾いて、真横に剣先を滑り込ませる。
肩先を叩かれた少年が横転する。だが、アストラードは、今度はすぐに起き上がった。そのまま、意味をなさない叫びを上げながら、めちゃくちゃに剣を振り回す。
「癇癪を起こして暴れるだけなら、領民の子にも出来ることだぞ」
リファートは、そんなアストラードの剣を難なく受け止め、捌き、切り返した。
「兄上の子に生まれて良かったと言っただろう。ならば、逃げるな。考えろ。己れはどうしたいのか。兄上に護られたその命を、この先、何の為に、どう使っていくのか。辛くとも苦しくとも、己れの頭と心で考えろ」
畳みかけながら、その合間に、少年の手首や二の腕、脇や背中などを打ち据え、突き飛ばし、ぬかるんだ石畳の上を転がせる。
その度に、まだ柔らかい子供の皮膚にはいくつもの擦り傷が生じて、滲んだ血が雨と泥に混じっていく。三日間も飲まず食わずで、まともに眠ってもいなかったのだから、アストラードの足元はすぐふらつき始めた。軽く打ち返されただけでもよろめき、転んでしまう。
だが、それでも、少年は立ち上がった。先刻までの虚脱の様子が嘘のように、両眼を血走らせ、追い詰められた獣のような形相になりながらも、立ち上がり続けた。
「わ、若様……」
加速度的にぼろぼろになっていく姿に、ニースがおろおろと手を伸ばしかける。
その肩を、メテインが押さえた。今にも泣き出しそうな妻の顔に視線を合わせ、ゆっくりと首を左右に振ってみせる。
「いいのか、セルマン」
その横では、タイラが青ざめた顔で、家軍長に詰め寄っていた。
「リファートが何を考えているのか、俺にはさっぱりだ。だが、あいつは、やると言ったことはやるぞ。だから、もし若が剣を手放そうものなら、本当に……」
「落ち着け、タイラ殿」
セルマンが息を吐いた。
「その時は、その時だ」
「本気か⁉」
「だから、落ち着け。――見てみろ」
軽く顎をしゃくる。
「この雨の中、あれだけの動きを重ねていれば、どうしても呼吸が大きくなる。息を吸う度に、若は雨を飲んでいる。それでも、これまでのように吐き戻す様子はない」
「は?」
タイラが、虚を突かれたような表情を浮かべた。
「まさか、あいつ、その為にあんなことを……?」
「人間、食い物がなくても二十日程度は生きていられるが、水を飲まなければ三日が限界だからな」
息を吐いて、セルマンは両腕を組んだ。
「確かに、一瞬はわしも肝が冷えたが――ご舎弟は、急所に入りそうな時は寸前で止めているし、骨が折れたり腱が切れたりするような打ち方もしていない。違うか?」
「それは……」
戸惑ったように中庭に目を移してから、タイラは、がしがしと片手で後ろ髪を掻き回した。
「だとしても、やり過ぎじゃないか? あの様子じゃ、立ち直られたとしても、数日は起き上がれなくなるぞ」
「どうせ、明日からは移動だ」
だが、セルマンは事も無げに言った。
「箱馬車にたっぷりクッションを詰めて、ゆっくり休んで頂けばいい。体調が悪くて寝込んでおられるとあれば、ナキル卿とやらを若から遠ざける理由にもなる」
「まさか、そこまで考えて?」
「さて、な。どちらにしても、そんなことは些事だ。本質は別のところにある。見ろ。若の顔つきが変わってきた」
確かに、少年はいつしか、闇雲に叫ぶことを止めていた。全身を引き絞るようにして、ふいごのような呼吸音だけを響かせながら、憑かれたような眼差しで対面に立ち続ける叔父を見据え続けている。
その眸には、もはやセルマンたちなど映ってはいないだろうと思えた。
その耳にも、周囲の人々の声はおろか、雨音さえ届いていないに違いなかった。
そして、その手は、未だしっかりと木剣の柄を握りしめていた。
「顔が、何だと?」
「わからんか? あれは、生まれて初めて死の恐怖に向き合っている顔だ。一度戦場に立てば、年齢など関係ない。自ら立って、走り、戦わねば、死ぬ。その自覚を促されている、初陣の子の顔だよ」
「初陣って――ここは帝都ですよ。デイエ・アフィールでも、アンディア平原でもありません」
ニースが涙声を絞り出した。
「そもそも、エランでは、初陣は十五歳からと定められている筈でございます。なのに、どうして、七つの若様が、帝都などで初陣を踏まねばならないのですか。おかしいではありませんか」
「全くもってその通りだ、ニース殿。到底、真っ当とは言えない。だが、この国そのものがもはや真っ当とは言えない以上、是非もない」
セルマンが苦い息を吐いた。
「戦場は、遠い国境線だけの話ではなくなった、ということだ。日常そのものが戦いの場となるなら、若が自ら戦い、生きようとされぬ限り、我らが如何に庇ったところで限度がある。ご舎弟の言葉は、何も間違ってはいない」
「だから、『初陣』だというのか。若の。これが」
タイラが呻き、両の拳を固める。
「酷い初陣があったものだ……」
「全くだ。我々ですらそう思うのだ。ご舎弟は、もっとやりきれまい」
セルマンの表情が、沈痛なものになった。
「皆、知っている筈だ。ご舎弟は二歳で母君を、五歳で父君を喪われ、その後は兄であるファルハード様に育てられてきた。まして、つい昨年に妻子まで失ったばかりだ。今の若のお気持ちを――家族を全て失って独り遺される辛さを、ご舎弟以上に理解できる者は居まい」
だからこそ、憎まれ役を引き受けてでも、促しているのだ。絶望の底に突き落とされたままで居るな。這い上がれ――と。
セルマンの低い呟きに、タイラがぐっと奥歯を鳴らす。ニースが祈るように両手を握り合わせ、メテインはそんな妻の肩をそっと抱きかかえた。
雨足は収まらない。
それどころか、ますます強くなっていく。
だが、もう誰も、何も言わない。タイラもセルマンもメテインもニースも、バリスやベルカントやケネスも、回廊のあちこちに集まった従騎士たちや従僕たちや侍女たちも。誰もが痛ましさに耐え、息を詰めて祈りながら、アストラードの『初陣』の行方を見守り続ける。
その中、アストラードの足が石畳を蹴って、今までになく大きく前に踏み込んだ。
正眼からの一撃を、リファートの木剣が正確に弾く。
これまでなら、そこで打ち倒されていた。
だが、少年は踏みとどまった。弾かれた勢いのままにそれを手元に引き付けると、左手を柄頭に添えて腰を落とした。同時に、全身を使った渾身の突きが、年長者の喉元を狙った。
「お?」
「あ!」
セルマンですら驚いたように目を瞠り、タイラも声を上げた。
リファートが、咄嗟に右腕を跳ね上げて、喉元を庇う。
その腕に、アストラードの剣尖が鋭く突き込まれた。
「やったぞ!」
「一撃、返しなさった!」
回廊のあちこちで息を殺していた人々が、わあっと声を上げた。




