14. 闇、来たる
カルス貴族の邸宅様式において、中庭の用途は様々である。
上邸の場合は、樹木や季節の花々を植え、社交や憩いの為の庭園として整えることが多い。一方、下邸では、従騎士たちの鍛錬や荷物の仕分けなどに使えるよう、地面を均して石畳を敷き詰めただけの、庭というより広場のような空間になっていることが多い。
降りしきる雨の中、リファートはその中庭という名の広場に出ると、アストラードを放り出した。
いつの間にか、雨足は叩きつけるようなものに変わっていた。まるで天の湖の底が抜けでもしたように。冷たい空気と雨滴とが、肌から急速に体温を奪っていく。
そこへ、ケネスが、木剣を二本携えて戻って来た。リファートは、そのうちの一本を受け取ると、もう一本を、甥の目の前に投げた。
「エランの剣の型は、一通り習い終えているな。どれを使ってもいいから、打ち込んで来い」
後を追ってきたニースやタイラたちが、『は?』と声を上げた。
「剣のお稽古でございますって?」
「何で今?」
アストラードも同じだった。木剣に手を伸ばそうとはしないまま、意味も意図もわからない様子で、呆然と叔父を見上げる。
「来ないか? ならば、こちらから行く。受けろ」
リファートは頓着しなかった。無造作に足を踏み出し、木剣を振り上げた。
「ちょ……!」
「ご舎弟⁉」
背後で、複数の叫びが上がる。
構わず、リファートは少年の小さな額を目掛け、真っすぐ木剣を振り下ろした。
本気の威圧を乗せた刃に、少年が瞳孔を見開き、咄嗟のように横に一転する。リファートはすかさず手首を返し、剣身で甥の脇腹を打った。
「受けろ、と言った」
短い悲鳴と共に倒れ込んだ甥に、リファートはしゅっと木剣を払って、構えを取り直した。
混乱の表情のまま、アストラードが反射的のように木剣を掴んだ。頭上にかざし、打ち込まれてきたリファートの木剣を受け止める。
だが、その後が続かない。動きが止まってしまう。
「受けたら、切り返す。手を抜くな」
言うなり、リファートはアストラードの木剣を跳ね上げ、がら空きになった胸部を突いた。
「げほっ……!」
吹っ飛ばされた小柄な身体が、水たまりの中に落下する。派手な水しぶきに、烈しい咳音が重なった。胸部への衝撃に息が詰まったのか、咄嗟には起き上がることもできず、背を丸め、全身を引き攣らせるようにして、咳き込みを繰り返す。
「若様‼」
「おい、リファート‼」
背後で悲鳴と怒声が上がる。
騒ぎを聞きつけたのか、バリスやベルカントを始め、邸内で引っ越し作業に勤しんでいた従騎士たちだけではなく、下働きの侍女たちや従僕たちまでが、回廊のあちこちに集まって来た。
「痛いか?」
だが、リファートは外野を気に留めることなく続けた。
「本物の刃で斬られれば、もっと痛い。死は、その先にあるものだ。それでも、そこへ行きたいか?」
アストラードがぎくしゃくと頭を上げる。血の気のない顔が苦痛に歪み、その目には生理的な涙が薄く浮いている。
その顔を、リファートは無表情に見下ろした。
「そなたが本心からそう望むなら、是非もない。今この場で、俺が兄上の元へ送ってやる」
ニースが飛び上がった。
「何でございますって⁉」
タイラも叫んだ。
「正気か、お前‼」
「勿論、正気だ」
両の眸を見開いている甥を見つめたまま、リファートは感情を消した声で言った。
「どのみち、飲まず食わずで眠りもしないというのであれば、遠からず命は尽きる。このまま緩慢と衰弱死させるくらいなら、いっそすっぱり終わりにしてやる方が情けというものだろう」
「そんな理屈があるか!」
「そうです! 若様はまだ七つなんですよ! し、死にたい、なんて、意味がわかって言っておられる訳ではありません!」
ニースとタイラが背後から飛びついてきて、左右からリファートの両腕を掴んだ。
「不用意な言葉は、悪意を持った人間に遭えば、容易く付け込まれる」
そんな二人を、リファートは冷厳な眼差しで見やった。
「アストラードは、それを知らねばならない。何故なら、明日からエランに張り付くことになるのは、まさしく、その悪意を持った連中だからだ」
「明日から――新しいエヴレン太守のことか?」
タイラが顔を顰めた。
「だが、宰相は、エランの家門と領地を保証したではないか。であれば――」
「甘いことを言うな、タイラ。無実の人間に嗤いながら処刑を宣告するような奴らの保証などに、何の意味があると言うのだ」
腕を掴ませたまま、リファートは冷ややかに言った。
「大逆の謀叛人は一族郎党もろとも斬首――それが、ヤンシャー朝の原則だ。奴らが、兄上を謀叛人としながら、俺たちに対してそれをやらなかったのは、温情や恥の気持ちからではない」
誰もが冤罪だと知っている相手にそこまでやってしまったら、流石に彼ら自身の足元が崩れかねないからだ。
「それに、宰相たちも、サギスやハンカに対する盾としてのエランの利用価値は、認めているのだ。だから、何かと自分たちに楯突く兄上一人を見せしめの贄とし、俺への家督相続を認めた。それはつまり、奴らの目には、俺の方が兄上より御しやすいと見えている、ということだ」
低く吐き捨てると、タイラを始め、周囲の者たちが何ともいえない表情を浮かべた。
確かに、大柄で精悍そのもののファルハードに比べると、リファートは、背丈こそは亡兄とほぼ同じだが、身体つきは細身で、顔立ちも繊細である。だから、ファルハードが『太陽』と称えられる時、比較して、リファートは『月』と呼ばれたりもする。
その所為か、初対面の人間からは、『軟弱そうな奴』と侮られることが多かった。だが、エランの者たちは皆、彼の内面が繊細とも軟弱とも無縁であることを知っている。
「それでも、俺が兄上と同じ目に遭うことを恐れて、ザーレ伯家のように這いつくばるか、それとも心中密かに逆心をたぎらせるか、監視しない訳にはいかない。だからこその、エヴレン太守交代だ」
エヴレンは、エランのすぐ南隣にある、ヤンシャー朝の直轄領である。
直轄領は、皇帝が任命した太守が統治の任に当たることになっている。ただ、その任期は特に定まっていない。よって、父親が息子を後任に『推挙』し、それが認められれば息子が新太守に『任命』されるという、限りなく世襲に近いことが行われることも多かった。
これまでエヴレンの太守を務めていたフェルザン卿もそれで、彼は父親からその地位を継承した後、既に二十年以上にわたってその地位にあった。
直轄領の太守ともなれば、やりようによってはいくらでも私腹を肥やすことができる。が、そのような汚行とは無縁で、領民を慈しみ、外敵に対してはエランと連携しながら立ち向かう、気骨ある人物だった。
だからこそ、ファルハードの捕縛を知った時、フェルザンは、自ら司法院の裁きの場に赴いた。宰相や皇帥を前にしても一歩も引かず、『ファルハード殿がサギス王と通じるなどあり得ない』と、敢然と弁護の声を上げてくれた。
だが、その義侠に対するヤンシャー朝の返答は、『エヴレン太守解任』だった。
そして、代わりに任命された新太守というのが――。
「あのカシュワール卿だ」
「――どの?」
「カシュワール・セレス。宰相の甥の一人だ」
小声で問いかけたニースに、夫のメテインがぼそりと応じた。
「宰相には実子が居ない。だから、兄弟姉妹の御子たちを実子同様に遇している。カシュワール卿はその一人で、早世した弟の一人息子だ」
「自分こそがセレス大公家の後継者だと名乗り、十代の頃から郎党を引き連れて勝手に帝都の町中を見回り、宰相たちの悪口を言う者があれば捕らえさせ、水牢に入れたり笞で打たせたりしていたとかいう莫迦だ」
セルマンが吐き捨てた。
「司法院の裁きの場でも、一際大声でファルハード様を謀叛人と罵っていた」
「そのような甥を、エランの目と鼻の先に送り込んできた。宰相の意図は明白だろう」
リファートは恬淡と頷いた。
「ちょうどいいから、皆にも伝えておく。先ほど宰相府で申し渡されてきたことだが、カシュワール卿は、エランに対する監察官も兼任することになった」
「何だって?」
タイラとセルマンが、少し強張った顔をする。
諸侯貴族領の内治には、皇帝も国府も、基本的には口を出さない。それが、開闢以来の不文律である。
ただ、よほどの素行不良があったり、家臣や領民などから訴えがあったりして、国による監視の必要があると認められた場合のみ、監察官が派遣される。ただ、それを隣在の直轄領の太守が兼任するなどというのは、聞いたことがない話だった。
「本人の赴任は来春になるそうだが、それまでは、副官のナキル卿が、監察官代理となる。早速、明日から俺たちに貼りついて、エランまで同行するそうだ」
「ナキル卿?」
「ナキル・キニア。今は宰相府の書記官で、カシュワール卿とは、祥学院時代からの友人だとか」
「友人、な」
セルマンが、うんざりした表情で首を振った。
「なるほど。そのような輩が貼りつくとなれば、確かに、さぞ鬱陶しいことになるだろうな。と言って、細切れにして家畜の餌にする訳にもいかんし」
「家畜が気の毒でございますからね」
「メテイン殿……、そっちではなく」
国吏に害を及ぼせば、それこそ問答無用で謀叛と受け取られるから、だ。
エラン辺境伯家そのものが討伐対象となれば、国軍の襲来を招くことになる。その数は、各地の諸侯貴族の私家軍を合わせれば、最大で二十万に達する。
「常日頃、調練もせず、安全な帝都で無辜の民を相手に威張り散らしているだけの正騎士など、わしらの敵ではない。だが、その数を、エランだけで退けることは不可能だ」
「そうだ」
憤懣混じりのセルマンの慨嘆に、リファートも頷いた。
「だから、兄上も、騙し討ちのように捕縛された時、一切の抵抗を放棄された」
他の諸侯貴族たちとて、全員が全員、宰相と皇帥の専横を是としている訳ではない。
だが、それらはまだ、反抗や変革の意志として噴出するほどではない。
だから、仮にファルハードが捕縛された時、エランが兵を挙げたとしても、後に続く者は居なかっただろう。となれば、先に待つのは、一族郎党を巻き込んでの滅びのみだ。
だから、ファルハードは、自らの生存の為には戦わなかった。それを棄ててでも、家族や家臣たちに、そして、何より大切な一人息子にこそ、未来を遺そうとした。それが、彼が最後に選んだ戦いだった。
「その想いを知るなら、我らは、どれほど鬱陶しかろうと、臓腑が煮えくり返ろうと、今は耐えるしかない」
でっち上げだと知っていても、ファルハードにかぶせられた『罪』を認め、償う姿勢を示さなければならない。
「エランを――その未来を護る、その為に、這えと言われれば平伏し、戦えと言われれば戦い、理不尽な命令も許容する。明日から我らを待っているのは、そういう日常だ。そして、それは、アストラードも例外ではない」
「父上の『罪』を、認める……?」
少年の双眸が凍った。
「本心から認める必要は無い。ただ、公には、そのふりをしなければならない、ということだ」
タイラとニースの手をするりと解いて、リファートは座り込んだままの甥の前に立った。
「司法院の裁きを経て、五華院が『有罪』とし、皇帝がそれを認めた以上、兄上の『謀叛』は『事実』となった。だから、そなたにも、もう、公の場では、思うままに怒ることも泣くことも、許してやることはできない。人前で父を悼み、追慕することすら、認めてやることはできない」
代わりに課されるのは、『謀叛人の息子』という烙印を背負って、父を殺した者たちに平伏して見せることだ。父の『罪』を償うという姿勢を繕うとこで、これ以上の弾圧や暴力を防ぐことだった。
「既に宰相府からは、兄上の『罪』に対する謝罪金の要求が来ている。ざっくり言うと、二年分の租税とほぼ同額だ」
周囲の大人たちの唸り声を聞くまでもなく、アストラードにも、それがとんでもない額になるであろうことは、想像がついた。
「か、勝手に作った罪で、父上を殺しておいて、お金まで払え、って?」
「そうだ」
「叔父上は、それでいいの⁉」
「良くはない。だが、今は受け入れるしかない」
ファルハードが死んで終わりではない。
むしろ、始まりなのだ。
「媚びる必要はない。ただ、耐えねばならない。俺たちが対応を誤れば、そのしわ寄せは、徴税や徴兵、暴力という形で、家臣たちや領民たちにも及ぶ。これから始まるのは、そういう類の戦いだ」
「――嫌だ……」
アストラードが掠れた声を上げた。
「そんなこと、出来ない。嫌だ」
「出来る出来ないではない。やらねば、そなたに未来はない」
アストラードはエランの直系。そして、あのファルハード・キルタールの一人息子だ。
宰相たちは考えていることだろう。父の死を恐怖の教訓として心に刻ませることができれば、忠実な飼い犬とすることが期待できるだろう、と。だが、刻まれたものが、恐怖を上回る怒りと憎しみであれば、父親に引き続いて、将来の脅威となるかもしれない、と。
だから、監察官たちに見張られるのは、リファートだけではない。アストラードもだ。
もし、心と行動を切り離すことができず、反抗的な態度を取り続けたら。それが、『子供だから』という理由で許容される範囲を踏み越えてしまったら――。
「だとしても、嫌だ‼」
アストラードの絶叫が爆ぜた。
「父上は、ずっとずっと、エランを――この国を、護って来たんです! いつだって、一生懸命に、命がけで……! なのに、よりにもよってそのサギス王に内通したなんて……! ふりだけでも認めるのは嫌です‼ そんなことをするぐらいなら、死んだ方がましだ‼」
全身全霊を振り絞った、魂そのものの叫び。それを否定できる者など、この場には一人も居ない。だが。
「――そうか」
リファートは、ぎゅっと両の拳を握り込んだ。
「ならば、そうするがいい」
ひゅっ、と少年の喉が鳴った。
「ただし、それは、兄上が強いられた死を、そなた自身の手で無駄なものにするということだ」
エランの敗北を認め、宰相たちを喜ばせてやるということだ。理不尽に殺した男の息子が哀しみと絶望に敗けて自ら消えてくれるなら、彼らにとってこれほど安心できることは無いだろうから。
「それでも良いか?」
「――嫌だ」
再び、少年の喉が鳴った。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
ぎゅっと目を瞑り、千切れる勢いで細い首を左右に振る。
その姿は、今にも粉々に砕けてしまいそうだった。
周囲の者たちは絶句している。もう勘弁してあげてください、と呟く声も聞こえた。
「あれも嫌だこれも嫌だと喚いていても、何も解決しない」
だが、リファートは続けた。
「これが現実だ。そして、今のエランに、この現実を変えるだけの力はない。だから、そなたの道は二つに一つだ。いつか何が変わる日が来るまで全てに耐えるか、今ここで全てを棄てるか」
「知らない。そんなこと知らないっ!」
「考えることを放棄するな。その先には、虚無の深淵以外、何もない」
「嫌だ! 叔父上の意地悪! 大嫌い‼」
「酷なることは百も承知だ。だから、もはや死以外に何の希望も見いだせないと本気で言うなら、剣を棄てろ」
リファートの双眸に、冷厳な光が満ちた。
「自ら生きる意志も戦う意志も持てないなら、呼吸を続けたところで宰相たちにいいように利用され、喰いものにされて終わるだけだ。そんなことになるぐらいなら、俺が今ここで、終わりにしてやる」
「‼」
それを浴びたアストラードの表情が、分裂した。
憤懣、悲哀、憎悪、不安、恐怖、そして、絶望――そんな無数の感情が相次ぐ衝撃に打たれて四方八方へ錯綜し、膨張し、そして、爆ぜた。




