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黄金天秤の王とエランの鷹  作者: ささなぎ
Ⅲ アストラード・絶望の闇の中から
13/17

13. 転がる正義

「エランは、北でハンカと、東でサギスと国境を接している。我らキルタール家の先祖は、有史以前から彼の地に根を張り、二つの暴威から土地と民を護ってきた。その結果、六王国時代から、『王だけが居ない七番目の王国』と言われるほど、独自の勢力を保ってきた」

 リファートは恬淡と言葉を続けた。

「それ故に、六王国時代もヤンシャー朝の時代になってからも、カルスの中央からは、国境の護り手として重宝される一方、警戒もされてきた」

 六王国時代、エランは、タルハンド王国の傘下に入っていた。だが、内政に関してはほぼ完全な自治を保ち、王家の支配は限定的だった。かのニカエア帝国侵攻の際も、タルハンドが敗北して尚十五年の長きに渡って抵抗を続けた。最後には北アドラスの一角まで追い詰められることにはなったが、それでも、キルタール家は、祖皇(そおう)シマス・ヤンシャーの蜂起まで、自らの旗――天を飛翔する黒鷹(シア・シャヒーン)の旗を、地に倒すことなく凌ぎ切った。

 その後の十六年戦争でも、キルタール家は、数多の戦場で数多の貢献を果たした。

 時の当主ラースバルド・キルタールは、開戦当時はまだ二十歳そこそこの若者だったが、その勇猛果敢さと誠実さを祖皇に信頼され、ヤンシャー朝成立後は、エラン全域の領有と初代辺境伯への叙爵を認められた。

 ただ、彼はこの時、祖皇から直々に乞われた中央での要職への就任は、固辞している。

『エランの黒鷹は、石の都の籠の中で王の為に謳(うた)う鳥に非ず。炎天に灼(や)かれ、氷雪に傷もうとも、辺土の空をこそ舞うものなり』

 祖皇に向かって堂々とそう宣い、中央での立身出世には背を向けて、同胞たちと共に故郷に戻った。

 敬いはしても、阿(おもね)らず――。ラースバルドの言葉は、従うべき秩序と、盲従を強要する支配の間に、線を引くという宣言だった。

 だからと言って、それが必ずしも王朝への反抗や謀叛に繋がる訳ではない。祖皇シマス・ヤンシャーや明賢帝スライマン一世などは、きちんとそれを区別していた。だが、今のアルワン・サマド帝や宰相(ワジーレ)や皇帥(サルダール)は区別しない。いや、できないのだ。

「宰相たちは、考えずにいられないのだ。兄上のように、武力と才覚と人望を持つ者が、もし自分たちに取って代ろうとしたら――と」

「父上は、そんなことしない……」

「そうだな。俺たちからすれば、わかりきったことだ」

 ファルハードは、中央での権力にも富にも、興味などなかったのだから。

 だが、宰相たちには、それがわからない。彼らは、権力と富とをこよなく愛している。どのような手段を使ってでも手に入れ、持ち続けていたいと思っている。だから、自分たちがそう思うなら、他人も皆そうに違いないと、思い込んでいるのだ。

「そんなことで……」

「そうだ。そんなことで、兄上は殺された」

 エランから見れば、悪逆以外のなにものでもない。

 だが、ジョモレ・セレスやヒュセイン・シンジャールから見れば、違う。彼らにとって、自分たちの権勢や栄耀栄華に水を差すかもしれない者を、そうなる前に排除することは、『正義』なのだ。

「そんなの、『正義』なんて言わない!」

「俺もそう思う。だが、『正義』とは、事実と違って、人の数だけあるものだ」

「た、正しいことは、一つでしょう?」

「いいや、何を正しいと思い、何が間違っていると考えるかは、人によって違う。――そなたも知っているのではないか? 私がアイヌを妻に望んだ時、『キルタール家の直系が赤目の蛮族の娘を正妻に迎えるなどあり得ない』と言った者たちがいたことを。アイヌが初産の床で亡くなった時、『身の程しらずの罰が当たったのだ』と言った者たちがいたことを……」

 幼い眸が、ハッと小さく見開かれた。

「もし、皇帝が、『カルスの貴族は異民族の娘を正妻にしてはならない』と定めれば、それがこの国の『正義』となる。喜んでアイヌを認めてくれた兄上が間違っていて、反対した者たちが正しいということになる。個人の正義を国の正義に昇格させるもの――これが、権力だ」

 万民の行動を統制し、死をも強制し得る力。用い方次第で多くの者を幸福にもできるが、逆に不幸にもし得る力。

「だから、祖皇(そおう)シマス・ヤンシャーは、皇帝として立たれた際、自らの施策を支える合議機関、五華院(ハムサト・ザフラ)を創られた」

『五華』とは、シマス・ヤンシャー以外のカルス六王国王家の子孫たち、すなわち、五大公のことである。

 ニダロス王国の、セレス大公家。

 エタナ王国の、シンジャール大公家。

 メゼキア王国の、コルクト大公家。

 パルヴィン王国の、ハシヴ大公家。

 タルハンド王国の、ナスタラーン大公家。

 つまり、シマス・ヤンシャーは、己れの正義をそのまま国の正義とする体制――すなわち、独裁を選ばなかった。五大公との合議を重視し、その上に積み上げた自身の判断を『公の意志』として、それによって執行されるものを『国の正義』としたのである。

 その心は、ヤンシャー朝の皇帝旗にも表れている。『五つの花弁を持つ花の中央で翼を広げる、三本足の烏(セ・パ・ゴラーグ)』。花弁は五大公のことで、三本足の烏は、ヤンシャー家の紋章なのだ。

「だが、祖皇の理念と理想は、既に潰えた」

 今の五華院は、皇帝ではなく、五大公でもある宰相と皇帥によって統制されている。ファルハードに対する審判も、宰相と皇帥、そして、十七年前に前当主が粛清されて以来、彼らの傀儡と化しているコルクト大公の三人の賛成を以て、有罪として可決された。

 反対したのは、ナスタラーン大公のみ。もう一人のハシヴ大公は、採決を棄権している。

 今のヤンシャー朝では、そうやって五華院で用意された勅書に、アルワン・サマド帝が御璽を押せば、それが国の正義となるのだ。

「だから、アルパー殿とジェンキズ殿は、そなたの祖父と伯父であることを辞め、義姉上まで取り上げた。それほどの恐怖に襲われたんだ。ここでエランとの縁戚関係を断たなければ、自分たちも巻き添えになるかもしれない、と」

 びく、とアストラードが全身を跳ねさせた。


 ***


 ファルハードが処刑され、ザーレ伯家から一方的な離縁状が突きつけられた、あの日。

 その後、宰相府の国吏たちがやってきたり、国軍(シバーフ)の正騎士たちが門前を固めたりし始めて、エランの大人たちが対応に追われていた間、アストラードは一人、下邸を抜け出していた。

 気付いたリファートは、すぐさま、タイラやバリスたちと共に、同じ街区内にあるザーレ伯家の下邸に向かって馬を走らせた。

「――出ていけ!」

 そこで見たのは、貴族の略礼装に身を包んだ大柄な男が、開け放った門扉から小さな人影を路上へ蹴り出す光景だった。

「スレヤはもう、お前の母親ではない。二度と来るな!」

 余裕のない、裏返った怒号と共に、その男が、近くに居た門衛の手から、警邏用の長棒をひったくる。それは、槍に似た形状の太く長い木の棒で、先端には刃先ではなく、丸く削った木の球が取り付けられているものだ。殺傷能力は低いが、だから良いというものでもない。

「――ジェンキズ!」

 背後に立ち尽くしていた初老の男が、引き攣った声を上げた。

「よせ! 何もそこまで……!」

「甘いことを仰るな、父上! こ(・)れ(・)はもう、あなたの孫ではない! ここで判断を誤れば、スレヤばかりでなく、ザーレ伯家も終わりなのですよ!」

 吐き捨てるような言葉と共に、その男が両手で長棒を振り上げる。『母に会わせてください』と、路上に両手をついて懇願する、幼い少年の頭上へと。

「怨むなら父親を怨め。疫病神の小倅め! お前など、生まれてこなければ良かったのだ‼」

 浴びせられた怒号に、少年の顔が漂白される。

「アストラード!」

 青鹿毛の愛馬が、主の心情に呼応するように速度を上げた。

「ジェンキズ殿‼ 若に何をする‼ やめろ‼」

 背後でタイラが怒鳴った。

 その声に、初老の男や門衛たちは、ハッとしたようにこちらを見た。

 だが、ジェンキズ本人は反応しなかった。タイラの声にも、往来を疾駆する馬蹄の響きにも気づかない様子で、呆然と座り込んでいる少年を血走った眼で睨み、躊躇なく長棒を振り下ろした。

 同時に、リファートは鞍を蹴って、アイシェの背から飛び出した。ジェンキズの前に飛び込み、ぎりぎりでアストラードを腕の中に庇い込むことに成功する。

 だが、自分自身を救う余裕はなく、振り切られた長棒に、したたかにこめかみの辺りを撲られる羽目に陥った。

 尤も、その光景を見たジェンキズが、流石に冷水を浴びせられたような表情になって手を引いたので、リファートはもとより、それ以上、アストラードが傷つけられることもなかった。むしろ、激昂したタイラたちと、その怒りに恐れをなしたザーレ伯家の従騎士たちの間が一触即発の雰囲気になり、そちらを抑える方に苦労したぐらいだったのだが……。

 ともあれ、ザーレ伯家が、ファルハードの運命に心底から恐怖したことは確かだった。

 その時、彼らの中では、冤罪で父親を殺された七歳の子供から母親まで奪うという鬼畜の所業が、家門を護る為の『正義』に変転したのだ。


 ***


「――嫌」

 俯いたまま、アストラードが両手で両耳を押さえた。

「聞きたくない」

「否定すれば、起こってしまったことが無かったことになる訳ではない」

 リファートはその手を掴み、引き剥がした。

「現実から目を背けるな。それでは、これから先を生き抜いていくことはできない」

「父上に逢えるなら、死にたい……」

 掠れた喘ぎと共に、まだ細い首が強く左右に振られた。

「ジェンキズ伯父上も、僕は生まれて来なければ良かったって、言った……」

 全身を突っ張り、頑なに顔を上げようとはせぬまま、リファートの手を振りほどこうと身をよじる。

「若様!」

「我々は誰も、そんなことは思ってはいません!」

「あの脳筋猿の妄言など、忘れておしまいなさい!」

 ニースが悲鳴を上げ、タイラやセルマンが顔を真っ赤にして叫ぶ。

 その中、リファートは、つかの間、動きを止めていた。

 掴んだ手首も、小さな身体も、ぶるぶると震えている。父の死からたった三日で一回り以上痩せた少年の全身から、無音の悲鳴が噴きこぼれている。

 一瞬で家族を全て失った上に、実の伯父から最悪の言葉を浴びせられたのだ。たった七つの子供が、全ての現実を否定し、逃げ出したいと思ったところで、誰に責めることができる? あまりに当たり前すぎて、納得してしまいそうになるほどだ。

 だが。

「――来い」

 リファートはぐっと奥歯を噛みしめると、力任せにアストラードを引き起こした。もがく細い胴に腕を回し、小脇に抱え上げる。

「ご舎弟様?」

「どこへ?」

 おろおろとしているニースや案じ声をかけてくるセルマンたちの前を無言で通り過ぎ、戸口から回廊へ出る。

「ケネス」

「――はい?」

 呼ばれて足を止めたのは、ちょうど回廊の角の向こうを、両手に大きな荷物を抱えて通り過ぎようとしていた、十三、四歳の少年だった。

 ベルカントと同じ、鉄紺色の髪と炎色の眸。引き締まった体躯にエランの軍装を纏い、やはり首には緋色の布を巻いている。入軍が認められる年齢ぎりぎりの若年ながら、中々精悍で、不敵な顔つきをしていた。

「木剣を持って来い。二本だ」

「へ? 今、ですか?」

「そうだ」

 唐突な命令に、ケネスと呼ばれた少年は一瞬目を丸くした。が、リファートとその脇に抱えられているアストラードを見やると、それ以上反問することなく身を翻した。

「木剣? 何をするつもりだ?」

 むしろ目を剥いたのは、タイラやセルマンたちだった。それには答えず、リファートは弱々しくもがき続けている甥を抱えたまま回廊を横切り、中庭へ出た。


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