第二章 松東院の陰謀 七
「――御部屋様、もう膳下げてもよかか?」
障子の外から声をかけられてマグダレナははっとした。気が付けば親指の先に針の頭が食い込んでいた。
「下げれ。それから水ば持ってきてくれ」
「残り水ではいかんのか?」
「いかん。新しか水や」
冷ややかな声音で命じると障子の外から大仰な溜息が返った。マグダレナは気に留めずに針道具を片付けると、文机を部屋の真ん中に据えて書き物の支度をした。やがて婢が水の桶を抱えて戻ってきた。
「ご苦労。文使いば頼むけん、仕上がるまで待っておれ」
硯に水を差して墨を擦りながら権高に告げると、婢はフンと鼻を鳴らしたものの、不貞腐れた狗のような従順さで頷き、障子の外に膝を揃えて坐りこんだ。
マグダレナは筆を取ったものの、ここでハタと困った。
手紙を書く相手は決まっている。
ミゲルの話していた唐津の寺澤志摩守だ。駿河の大御所様の重鎮で、先の長崎奉行だったというお偉方に松浦家の反乱を報せれば容易く平定されるだろう。しかし、一体どんな文字で書けばいいのか?
マグダレナに書けるのは、漢文が少しばかりと、これもほんの少しのポルトガル語、それに故郷の女文字だけだ。
マグダレナはしばらく考えてから、唯一自在に操れる女文字で書くことにした。唐津の志摩守はこの文字を読むために領内の有力な朝鮮人を召し出すことだろう。そこから必ず三之丞に繋がる筈だ。
――あの子は松浦の血筋だ。
――法印様の実の子だ。主殿様が断罪され、肥前様が連座したら、その叔父にあたるあの子が家を継いでも何の不思議もない。
志摩守のためにこの手紙を読む朝鮮人が誰であれ、太閤の遺児を復位させる陰謀に賛同する者はいないだろう。もしもミゲルが読んだ場合も――彼もまた朝鮮人だし、主君は駿河の寵臣だ。何がどう転んでも、三之丞には利益しかもたらされない筈だ。
引き換えは主殿様の首だけだ。
あの傲慢で無邪気な貴婦人の――行き場を失くした先代藩主の妾を快く屋敷に迎え入れてくれた、親切で大らかな姉妹の愛し子の首だけだ。
できるだけ三之丞のことだけを考えるようにしながら筆を動かすうちに手紙が仕上がった。文箱はあったが手ごろな紐がない。マグダレナは舌打ちをすると、三之丞の寄越した陶器の像を包んでいた更紗でしっかり包んだ。
「さてこれでよか。小千代、こン文ばエゲレス屋敷ん若か通詞に届けて参れ。唐津ん御方に陶器とともに差上げてくだされとな」
障子を開けながら命じると、婢は眉をよせた。
「何だかややこしかとわい。そっちも書いてくだされ」
「しょんなか。待っていろ」
「はいはい御部屋様」
「そん呼び方はよせ!」と、マグダレナは細い手で婢の頬を打った。「こん熊川は朝鮮ん両班ん娘や。熊川様と呼べ」
小千代は文箱を受取りながらフンと鼻を鳴らした。
「はいはいこむぎさまぁ」
間延びした口調で答えながら背を向けてしまう。コムギ様は怒りに唇を戦慄かせながらまた針仕事にかかった。
小千代のほうも歩きながら怒りに震えていた。
御部屋様とは法印様の日ノ嶽城にいたころからの長い付き合いだが、頬を打たれたのは初めてである。大人しくってぼんじゃりしたお人形みたいな方だったのに、何でああ急に強気になってしまったのか!
怒りながら門へと向かっていると、顔見知りの小娘が風呂敷包を抱えて門を出ようとしているのが見えた。母屋仕えの於亀である。小千代を見ると人懐っこい笑顔を向けてくる。
「小千代も御使いか?」
「ああ。エゲレス屋敷へや」
「よかねえ」
「行きたいとか?」
「弟がおるけん」
「ならこれも持っていけばよか。うっとこん御部屋様から、エゲレス屋敷ん若か通詞どんにや」
「へえ」と、於亀が目を見張った。「懸想文やろうか?」
小千代も目を見張った。
「よもやそがんこと――あっ!」
「なんや?」
「御部屋様、いまコソコソと赤か着物縫っとー。法印様が亡くなってからずっと墨染やったじょん」
小娘二人は顔を見合わせて同時に頷き合った。
「――於亀、こっそり届けれや」
「分かっている。返しん文があったらこっそり届けてやる」
於亀は力強く請合うと、こそこそと左右を気にしながら屋敷を出ていった。
ミゲルが松東院に贈物を届けた翌日、EIC商館をジョアンの姉が訪ねてきた。長細い小さな風呂敷包みを抱えた姿を初めに見つけたのはイートンだった。
長崎から持ち帰った売り上げの計算と帳簿付の息抜きに果樹園に出たとき、葡萄棚の下から母屋を伺う薄青の帷子姿を見とめたのだ。
『やあアネシャム! 元気かい。またドナ・メンシアの使いで来たのか?』
できるだけはっきりとした発音のポルトガル語で訊ねると、娘はびくりと顔を向け、零れんばかりに目を見張ってから、首を横に振った。
『ドナ・メンシア。違う(ナウン)』
『ならジョアンに会いにきたのか?』
『違う』
娘がまた首を横に振り、包みをしっかと胸に抱いた。形からして文箱のようだった。鮮やかな黄の地に青や朱で花鳥の紋様を散らした更紗だ。おそらくバンタム渡りだろう。なかなか上等の品だ。
『手紙?』
訊ねるなり娘が頷いた。一つに束ねた黒髪の先が小馬の尾のように弾む。イートンは思わず笑った。
『誰に?』
『通訳』
『若いほう? 年上のほう?』
『若いほう』
『ミゲルだな。今はこの商館にはいない。按針様の屋敷の留守を預かっているんだ。預かるよ。届けておく』
訊ねながら手を伸ばすと、娘がさっと身を引いて文箱を抱きしめた。イートンは苦笑した。『分かったよ、じかに届けるんだね。おいで。案内しよう』
手招きをして歩き出すと娘がついてきた。唇の端を窪めて眉根を寄せた表情が怯えた子供のように見える。イートンは葡萄をひと房もいで差し出してやった。
『葡萄だ。甘い』
『葡萄?』
おずおずと差し出された掌に房を乗せてから、白い粉を吹いた一粒を毟って口に入れる。午後の陽を浴びた果肉は仄かに温んでいた。甘さに微かな渋味の混じった芳醇な果汁を味わってから、唇を尖らせて種を遠くへ吹き捨ててみせる。すると娘が瞬きをし、おずおずとした手つきで粒を抓んで口に含んだ。
ボート乗り場の畔を南へ向かう間中、娘は葡萄を口に入れては控えめに種を吐き出していた。目を向けるとはっと口を押さえる。目を逸らすとその隙に吐き出す。じっと見続けていると睨まれた。
――そがん見なしゃんな。食べにくうてかなわん。
「ごめんよ、気にせず食べてくれ」
言葉は一語も分からなかったが、内容は何となく通じている気もした。
イートンは初め相手をほんの子供だと思っていたが、しばらく並んで歩いているうちに考えを検めた。この娘はたぶんもういっぱしの娘だ。幾つくらいなのだろう?
『アネシャム、ドナ・メンシアには何年仕えているんだ?』
訊ねると娘は眉根を寄せ、しばらく考え込んでから答えた。
『三年』
『ドナ・メンシアは慈悲深いか?』
『とても慈悲深い』
娘は答えるなりまた葡萄を口に含んでしまった。
この娘が俺の言葉を解ってくれればいいのにとイートンはもどかしく思った。
イートンも多少の日本語は話せるが、大阪の商業地帯で習得した言葉は、平戸での日常会話には殆ど使えないのだ。
そもそもミゲルに何の用があるのだろう? 人の使いでないなら娘自身の用事なのだろうか? まさか恋文でも届けようとしているのか?
考えると無性に苛立った。努めてそれ以上考えまいとしながら南の門を出ると坂路の向かいに石垣が見えた。上に板壁が廻って、青々とした松の枝が張り出している。
『そこの屋敷だ』
板垣を指さして教えると、娘は軽く頷き、華奢な背を正して見あげてきた。
『エスクリヴォ、有難う(オブリガーダ)』
告げるなり頭を下げるとまた黒髪の束が弾んだ。イートンは不意に自分の本名を教えたくなった。
『エスクリヴォじゃない。ウィリアムだ』
自分を指さしながら名乗ると娘が瞬きをした。
――ヴィアーン?
「ウィリアム」
――グィアン?
「ウィ・リ・アム」
――ギ・リ・ン。
どうもだんだん遠ざかっていく気がする。諦めて頷くと娘が笑った。
――ギリン。ギリンやな? うちはな、亀や。
「カミャ?」
――カ・メ。
娘が口をはっきりと開けて発音してくれた。これはさすがに聞き取れる。イートンは嬉しくなった。
「分かった! アネシャムじゃなくてカメシャムなんだな。言えるぞ。聞いてみていてくれ。カメシャム!」
自信満々で発音したのに娘はきょとんとし、肩を震わせてくつくつと笑い始めた。
「え、違うのかい? カムシャム?」
――なんで様がついたんやろうか。亀や。亀。亀。
「だから、カメだろ? カメ・シャム。何処が違うんだ?」
――やけん……ああ、もう亀様でよか! ギリン、うちは亀様や。大家ん御寮人様ごたーなあ!
娘が自分を指さしながら改めて名乗ってくれた。そのあとで、まだ半分以上実を残した葡萄の房を差し出してきた。
『ギリン、葡萄、ジョアン、やる』
『この葡萄をジョアンに? いいよ。預かっておく』
『有難う(オブリガーダ)』
カメシャムは頭を下げるなり坂道をかけ下っていった。
母屋へ戻って召使頭に訊ねると、ジョアンは竈の掃除をしているという。
厨房へ向かえば、なるほど竈の手前に藍色の背中が蹲っていた。ジョアンである。何かしきりと呟きながら灰を掻き出している。
――さんた・まりあ、さん・じょあん・ばちすた、さん・みげる、なたう。
しきりと繰り返されているのはポルトガル語の祝祭日の名のようだった。三月二十五日の聖母の祝日、六月二十五日のセント・ジョンズ・デー、九月二十五日のミクルマス、それにクリスマスだ。並びの意味に思い至った途端、イートンは愕いた。
「ボーイ・ジョアン――」
思わず呼ぶと少年が手をとめてびくりと振り返った。灰に汚れた顏に微かな怯えが走る。イートンは慌てて笑顔を拵えた。
『叱っているんじゃない。よく働いているね。これはお前の姉妹からだ。終わったら食べるといい』
できる限りゆっくりとしたポルトガル語で告げると、分かっているのかいないのか、少年は神妙に頷いて葡萄を受取り、高く押し頂くようにして頭を下げた。
『エスクリヴォ、有難う(オブリガード)』
礼を言い、ちょっと迷ってから果物を竈の上に置くと、また膝をついて掃除を再開する。何とも真面目で熱心な子供だ。イートンは今しがた気づいたことを訊ねてみた。
『なあジョアン、さっき唱えていたのは、もしかして四半期決済日かい?』
途端、少年が顔をあげ、極まりの悪そうな笑みを浮かべて頷いた。
『そうだ(イエス)。ジョアン覚える。イギリスの暦覚える』
拙いながらも英語混じりで答える少年にイートンは拍手喝采したくなった。
何と素晴らしい向学心、そして鋭い観察力だろう。イギリス商館の下働きに入って覚える単語の手始めが、犬でも蕪でも林檎でもなく四半期決算日とは!
少年が何か言いたげにこちらを見あげていた。
誉め言葉を期待しているのではない気がする。
イートンはしばらく考えてから少年の顔を覗き込んだ。
『ジョアン、サン・ミゲルはミクルマスだ。ミクルマス』
できるだけゆっくりと発音するあいだ、少年は真摯な表情で唇の動きを注視していたが、じきにまた深々と頭を下げると、竈に向き直って灰を掻き出し始めた。
――さん・みげる。みくるます。さん・みげる。みくるます……
イートンは少年の背をしばらく眺めてから、何ともいえず暖かな気分で部屋へと戻った。




