第二章 松東院の陰謀 六
松東院の女たちはすべてがキリスト教徒という訳ではない。万が一にも企てが露見しないように、旗指物の拵えは部分ごとに小分けして進められることになった。
「マグダレナは御針が達者やからの。木瓜紋の縫い取りを頼む」
メンシアが赤い生地に金糸銀糸を包んで渡してきた。
部屋へ戻ったマグダレナは、品をみな櫃に収めてから、早々に床についた。何ともいえず重苦しく、心が酷くざわついて仕方なかった。
主殿の語った平戸の未来はマグダレナにも魅力的ではあった。
しかし、そのために太閤の遺児を援けるというのが、朝鮮人のマグダレナにはどうしても受け入れがたいのだった。
太閤秀吉はその昔マグダレナの故郷、朝鮮に大征服を仕掛けた男である。
勝敗が決する前に老いた太閤が死んだために征服戦争は止んだが、その頃まだほんの若い娘だったマグダレナは――朝鮮半島南部の熊川生まれの娘は、日本側の指揮官の一人だった松浦法印の軍勢に捕まり、そのまま法印の妾にされたのだった。
そうはいっても法印様は妾にそう酷いことはしなかったとマグダレナは自分に言い聞かせた。何より息子の三之丞は法印の子だ。松浦一門が栄えれば三之丞も引きたてられるだろう。だから従うべきだ。
いくらそう自分に言い聞かせても、マグダレナの心はなかなか晴れなかった。
ああでうすよと、床の中でマグダレナは呼びかけた。
でうすよ、私は一体どうすればよいのでしょう?
すると暗がりから優しい男の声が応えた。
お聞き娘よ――
地上のことはみな移りやすい仮初の色と形、虚ろな夢に過ぎぬ――
お前の故郷を焼いた太閤もすぐに駿河に敗れ、大阪も今灰燼に帰した――
かくも移りやすい夢幻を怨んで何になろう――
怨みと怒りはお前の心を苦しめるだけだ――
まことの生は天にある――
地上の怨みに縛られずに姉妹との愛に生きなさい――
はい御父様と娘は応えた。
貴い御教えでございます。
怨まず怒らず愛だけを抱いて生きられればさぞ心安らかでしょう。
私はずっとそう生きて参りました。
けれど教えてください。
地上のことがみなすべて虚ろな夢に過ぎぬなら、なぜこの苦しみの多い地上に、私は生きていなければならないのですか――
暗がりの声は応えなかった。
もう二度と答えはしないだろうと娘は悟った。
長く忘れていた――忘れようとしていた戦禍の記憶を思い出してしまうと眠れなくなった。目を開いたまま暗がりを眺めているうちに、障子の外が少しずつ明るんでいくのが分かった。じきにカタリと音がして、外から蔑みを含んだ声が聞こえる。
「御部屋様、朝餉や。まあだお眠りかの!」
その蔑みはマグダレナの半生に常に付きまとってきたものだった。あまりにもいつも向けられ過ぎていて、屈辱と感じることさえ忘れてしまっていた。
足音が遠ざかるのを待って障子を開ければ、いつものように水の桶と冷えた膳とが並んでいた。固く絞った手拭で汗ばんだ膚を拭ってから朝餉をとり、厠へ立つついでに膳を廊へと戻しておく。しばらく耳を澄ましても足音は感じられなかった。聞こえるのは蝉の鳴き声ばかりだ。マグダレナはほっと息をつくと、櫃から布を取り出して針仕事に取り掛かった。
障子を細く開け、白く射しこむ陽の傍でひたすらに針を動かしていると、どういうわけか六年前、今はEIC商館に仕えるあの若い通詞と出会った夜のことが思い出された。
その夜、マグダレナはまだ存命していた法印に命じられて夕過ぎから朝鮮風の衣装を身に着けていた。
婢たちに手伝わせて真白い裳を巻き、緑の絹地に金糸で刺繍を施した華やかな赤古里を纏って部屋を出ると、待ち構えていた法印に手を引かれて舟手門まで連れていかれた。そこから艀に乗って港へ出ると、北岸に大きな黒い船が停まっているのが見えた。三本の檣を十字架のように掲げた南蛮船だった。
「オランダ黒船よ」
法印が得意そうに囁いた。「のう熊川、黒船が毎年入るようになれば平戸はまた栄えるぞ! こん法印ん孫子ん代には長崎ば凌ぐやろう――」
そのとき、黒船ほうから爆発音が響いて船腹から煙が噴き出した。
マグダレナが悲鳴をあげると、法印は愉快そうに笑って教えた。
「黒船ん作法や。戦やなか」
やがて艀が黒船の真横まで漕ぎ寄せたときにも暗がりにうっすらと硝煙の臭いが漂っていた。その匂いはマグダレナに遠い昔の戦場の惨禍を思い出させた。
舷梯を登って甲板へ降りるなり、黒っぽい形をした若い異人が帽子を脱ぎながら駆け寄って来た。
――フォイン・サム、よく来てくれた! その美しい貴婦人はどなただ?
「こん熊川は朝鮮ん王族ん娘や。太閤様ん唐入りンみぎりに城から奪うてきた!」
法印が秘蔵の宝物を自慢する口調で告げた。マグダレナは王族ではなく、貴族階級である両班の生まれに過ぎなかったが、若い異人は信じたらしく、通訳を介して答えを聞くなり恭しく腰を折り、マグダレナの手を取って甲に唇を寄せてきた。
――姫君、お会いできて光栄です。
異人のゆっくりとしたポルトガル語はマグダレナにも理解できた。法印が目を細めて嬉しそうに見ていた。
じきに宴会が始まると、異人たちはみなマグダレナを「姫君」と呼び、常に周りに群がっては色々と話しかけてきた。そのとき、新たな来客が現れたのだった。
「按針! 久しいのう!」
法印が親しげに腕を広げて迎えたのは日本風の服装をした風変りな異邦人だった。よほど重要な客人なのか、オランダ人たちが一斉にそちらへ行ってしまう。当の客人はマグダレナに一瞥を寄越したきり、何の興味もなさそうに目を逸らしてしまった。
新客の登場の後にはマグダレナは放っておかれた。言葉は分からないし焼いた肉の臭いは胸が悪くなる。たまに思い出したように勧められる赤い葡萄酒を呑んでいるうちに気分が悪くなったマグダレナは、喧騒の届かないところを捜して中部甲板に降りていた。
すると、階段のすぐ下に輝く何かが落ちていたのだった。
それは短剣だった。
銀色に輝く十字型の短剣だった。
誰が落としたのか鞘のない剣を拾い上げた瞬間、マグダレナは自分の手が震えていることに気づいた。
同時に思い出されたのは麦畑のなかの恐怖だった。
背よりも高いまだ青い麦畑の中で、少女の頃のマグダレナは膝を抱えて息を潜めていた。頭上を熱い夏の陽が照らして、白い裳の下の脚が汗ばんでいた。畑の外からときおりパン、パンと乾いた音が響いていた。
銃声だ。
日本人たちが笑いながら誰かを殺している。
じきに目の前の麦の穂がガサガサと動き出したとき、あまりの恐怖に耐えかねて少女は立ち上がっていた。
――殺さないで。お願い。殺さないで。
命乞いをすると男は嗤った。
誰とも知れない大きな男、血まみれの刀を持った男が。
「……――殺してやる!」
気が付くとマグダレナは故郷の言葉で叫んでいた。
震える手で柄を握りしめて刃を甲板に突き立てる。その下に麦畑の少女がいた。怯えて男に跪いたあの愚かな子供が、泣きじゃくりながら仰のいて夏の陽を見あげていた。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる! 倭奴はみな殺してやる……!」
叫ぶうちに涙が溢れていた。蹲ったまま柄を握って唇を戦慄かせていたとき、背の後ろから控えめな声に呼ばれた。
「……――公主」
母語で王女を意味する言葉で呼ばれてはっと顔を向けると、階段の前に南蛮風の身形の少年が立っていた。
客人の連れていた通詞である。
マグダレナの手許の短剣を見とめて眉をよせる。慌てて手を離すと、跪いて丁重な手つきで立たせてくれた。
「オランダかぴたんがお捜しや。騒がしか席やが、堪えてお戻りくだされ」
「のう通詞どん、こん婢は公主やなか。妾や。もしまこと公主であってん、親兄弟殺した倭奴ん妾んなって贅沢三昧している公主など犬畜生にも劣る。そがんへりくだりなしゃんな」
わざと雑駁な口調で告げて嗤うと、前を行く少年が俯いたまま囁いた。
「熊川様、ミゲルも朝鮮人や。もう名も忘れてしもうたばってん、今でも朝鮮人ばい」




