薄明の女神 ふたたび
油断してしまっていた。オスティンがカサンドラを振り返った一瞬を狙い、薬売りが荷車を引いて走り出したのだ。痩せぎすの肉体のどこにそんな力があるのか、腕の血管を張り上がらせてすさまじい脚力で走る。
体力勝負ならそれなりに自信のあるオスティンも、出遅れてしまったらどうしようもない。だが放っておけば確実に事故が起こる。たび重なる面倒にオスティンは悪態をついた。
パニックに陥っているアザリアを揺さぶり、正気に返らせる。
「怪我はないな? アザリア。追うぞ」
アザリアはさり気なくかけられた気遣いにコクコク頷き、「あっ」と商人を指差した。
「! オスティンさん、あれ!」
わき目も振らず疾走した商人の前を、1本の太い樹が立ち往生する。街の通りのあちこちに植えられている樹だ。危うくぶつかりかけ、商人の足が泳ぐ。
突如カサンドラが動いた。『控えの間』の壁に立てかけていた弓矢を素早く取り上げ、一息で構える。伸ばした弓の真ん中に矢をつがえた瞬間、風が鮮やかな長髪をふわりと持ち上げた。
かすかに弓がしなった音。すでに矢は飛び出していた。
放たれた矢はマジュリート商人の鼻先をかすり、太い樹の幹に音なく突き刺さる。樹の枝がミシリとしなり、若い葉が何枚か散った。
矢は商人の動きをも止めた。男の顔からは血の気が引き、白目を剥いている。
騒動に目ざとい街の人々は、好奇心まる出しで商人の許へ遠巻きに集まる。そして矢の射たれた方向を目で引き返し、唖然とした。おお、というかすかな喚声が漏れる。
今まさに追いかけようとしたアザリアも、その姿に意識を奪われた。
『控えの間』から少し出た場所。ひさしのない強い陽光に照らされた彼女が、弓を持つ腕を下ろす。
深く淀んだように暗い蒼の瞳は、明るい日差しを透かしているせいかひらひらと澄み、商人の横顔を見据えている。その眼光が全てを見通しているみたいで、周りの目を惹きつけた。
雲一つない空の光が彼女を包み、しなやかな身体が淡くかげろう。慎ましいドレスに風がまとわりついて、ただそこに佇む彼女の存在感を引き立てた。
「【薄明の女神】……」
カサンドラの後ろ姿を眺め、息をつくテオ。
「すごい! サーシャ、すごーい!」
テオの横で呆気にとられていたチャロも、しばらくしてワッと手をたたいてはしゃぐ。
「デンさん………今、カサンドラさんが弓を………?」
一気に目の前を駆け抜けた光景が信じられず、確かめるノエル。『控えの間』の長椅子から立ち上がり、伸びをしつつウォーデンが平然と答えた。
「ノエルとアザリアは知らねぇがな、サーシャは弓の使い手なんだよ。狙いを定める暇もないのに、相手をちゃんと仕留められるんだ。今のはサーシャ、手加減したろ?」
いまだ立ち尽くすカサンドラの肩に、ウォーデンがいたわるようにポンポンと手を置く。カサンドラはにっこり微笑み、彼に弓を預けた。
「本当に密売業者かどうか、判じかねますからねぇ」
「いきなり逃げた時点で確定だろう」
いつの間にか傍にまで来ていたオスティンが鼻を鳴らす。
どうやら我らが頑固な長官は、あの商人を犯罪者だと決めつけているらしい。
「というか女神。昨日まであそこに弓はなかったはずなんだが。今、ちょうど良くあったということは、お前、もとからすでに視えて……」
「ふふふ。どうでしょうか」
口元に手を当て、嘘くさくはぐらかすカサンドラにオスティンは空を仰いだ。俺の苦労はいったい…………と疲れきった美貌は訴えている。
「まあまあ。事も収まったんですし、いいじゃないですか。あとの裁量は代官に任せましょう。オスティン長官。あの男だけに時間を割いていては間に合いません」
テオがもっともな意見を言う。確かに門を出入りする客足は絶えない。正午を過ぎると多少は落ち着くものの、商人1人に余計な時間を費やしていたせいで、門の付近では通行人たちが待ちくたびれてしまっていた。
「あ! じゃあ私、やってきます!」
元気よく手を挙げ、アザリアが再び検問所の門に戻る。
入ったばかりの新米に容赦なく文句を浴びせ、ひしめく客の群れ。偉そうにトゥルネイへ踏み込む訪問者たちを嫌そうな目つきで観察し、オスティンは重い息を落とす。
「テオの言うとおりだな。取るモノは取ったし」
「そっすよね。って…………何をですか、ちょーかん?」
上司より飛び抜けた身長のウォーデンが、ぐるりと見下ろす。
ウォーデンは自然と引き寄せられた先の物体に目を見張った。
女みたいに繊細で長い手。色白な上司の掌に信じられないモノが乗っている。
丈夫そうな紐できつく縛られた、分厚い布の袋。その袋の表面には、ごつごつと丸い形状がはち切れんばかりに浮き出ていた。これは、まさか…………。
「え、ええぇぇ――――っ!? ちょっと何やってんすかアンタ!! なんで、ちょーかんの手に、……手に、あいつの財布……っ」
「いやあ。手癖が悪くて困るなあ俺の指先は」
「悪いどころじゃないっすよ犯罪者をシメる役人が罪犯すって大事っすよ!! 逆にアンタが牢屋行きだよ!」
「大丈夫だ。非は奴にある。それに、いつの間にか有り金がなくなったところで俺たちを疑うことはない。せいぜい、この騒動の間に落としたと思うくらいだ」
あっはっはっはと不気味すぎる笑いを流しながら、青年は収穫した男の財布をもてあそぶ。財布が軽く飛び上がるごと、涼しげな音がチャリチャリ鳴った。
「心配するな。中身の一部は返す。罰金分を抜き取ってから、あとで代官に届けるさ」
「オスティン~。おぬしも悪よのぅ~」
「ふっふっふ。お代官様ほどではありますまい」
「こら――――っ!! 事の重大さを思い知らんかあぁぁぁ!!」
チャロの絡みに口調を変えて乗るオスティン。必死に怒鳴るも、空しくなっているウォーデンがいた。




