第9話 開けてはいけない扉
9話目になります。
よろしくお願いします。
三度目のノックが、焼け焦げた廊下の奥に響いた。
一度目よりも、二度目よりも、その音は妙にはっきりしていた。
燃え続けているはずの壁からは炎が立ち上り、天井には黒煙が溜まっている。それなのに、透真たちの周囲だけは不自然なほど静かだった。火が爆ぜる音も、遠くで鳴っていた警報も、十年前の雨音さえも、一瞬だけ遠ざかったように聞こえる。
廊下の突き当たりにある扉は、全体が黒く焼け焦げていた。表面には細かなひびが走り、縁は熱で歪んでいる。
ただ一つ。
金属製のドアノブだけが、ほとんど焼けていなかった。
久世透真は、その一点を見つめていた。
「そこは、開けちゃいけない部屋だ」
背後から聞こえた御影廻斗の声は、今までより明らかに低かった。
透真は振り返らない。
「理由は?」
「聞くな」
「聞きます」
「透真」
廻斗の声に、僅かな震えが混じる。
「今だけは、本当にやめろ」
そこで初めて、透真はゆっくりと廻斗を振り返った。
十年前の火災が再現されても、存在しないはずの建物が目の前に現れても、廻斗は動揺しながらどこか冷静だった。少なくとも、自分は何が起きたのか知っているという立場を崩してはいなかった。
今は違う。
顔から血の気が引いている。口元には力が入り、右手は無意識に拳を作っていた。
「この部屋を知ってるんですね」
廻斗は答えなかった。
それだけで十分だった。
白峰アリスが、閉ざされた扉と廻斗の横顔を交互に見る。
いつもの明るい笑みは消えている。
「廻斗さん」
「何だ」
「嘘はついてません」
廻斗は僅かに眉を寄せた。
「そうか」
「でも、全部話してませんよね」
廻斗はまた黙った。
少し離れた場所に立っていた相良修司が、一歩前へ出る。革靴の底が濡れた床を踏み、小さな水音を立てた。
相良は扉ではなく、廻斗を見ていた。
片方の目を閉じる。
人間を観察するときの癖だった。
「御影さん」
「何です」
「この部屋は、十年前にもあったんですね」
廻斗は少し間を置いたあと、頷いた。
「あった」
「使われていた?」
「ああ」
「誰が?」
廻斗は相良を見る。
「刑事って、本当に面倒ですね」
「よく言われます」
透真が相良へ一瞬だけ視線を向けた。
返し方が妙に自分と似ている。
少し気に入らない。
「それで」
相良は気にした様子もなく続けた。
「誰が使っていたんです」
廻斗の目が扉へ向く。
炎が扉の表面を舐めるように揺れている。それでも、扉そのものには火が燃え移らない。
「白峰家だ」
アリスの表情が僅かに変わった。
「私の家ですか?」
「ああ」
「父が使っていた?」
「正確には、白峰家が管理していた」
「何のために?」
廻斗は答えなかった。
また、沈黙が落ちる。
透真はその間に、無意識に周囲を確認していた。
後方の廊下まで約十七メートル。
そこから曲がり角を抜け、建物の入口まで二十メートル強。
自分の右斜め後ろにはアリス。
その三メートルほど後ろに大場泰然。
相良は廻斗のすぐ近く。
何か起きた場合、アリスを連れて外へ出ることはできる。
大場は体が大きい分、少し時間が掛かるかもしれない。
相良は自力で動ける。
廻斗は――。
「久世」
大場が突然言った。
透真は振り返る。
「何ですか」
「今、逃げる順番を考えてただろ」
透真の目が僅かに開く。
アリスも大場を見る。
「分かるんですか?」
「顔に出てる」
「最近みんなそれを言いますね」
透真は少し嫌そうに視線を逸らした。
大場はそんな透真を見ながら、今度は扉へ視線を向ける。
「それよりさ」
「何です」
「誰がノックしてんだ?」
誰も答えなかった。
単純な疑問だった。
あまりにも単純すぎて、誰も口にしていなかった。
十年前の記憶。
存在しない建物。
逃避。
混沌。
正義。
そんなものばかりを考えていて、一番当たり前の疑問を忘れていた。
扉の内側に。
誰かがいるのか。
相良が低く言う。
「大場さん。今のはいい質問です」
「だろ?」
「褒めてはいません」
「何でだよ」
アリスが小さく笑った。
その瞬間だった。
扉の向こうから、もう一度だけ音がした。
こん。
一回。
全員の表情が戻る。
透真は耳を澄ませた。
呼吸音はない。
衣擦れもない。
床を踏む足音もない。
人間がいるような気配は、何一つ感じない。
それでも。
ノックの音だけは、確かに内側から聞こえた。
「アリス」
「はい」
「中に誰かいますか」
アリスは扉を見つめた。
何かを感知する能力ではない。
ただ、自分の中で問いを事実として捉えようとする。
数秒後。
アリスの眉が僅かに寄った。
「……分かりません」
透真が彼女を見る。
「分からない?」
「はい」
アリスの声が少し硬くなる。
「中に誰かいる、と思うと……事実なんです」
「ならいる」
「でも」
アリスは首を横に振った。
「いない、と思っても、それも事実です」
相良が閉じていた片目を開いた。
大場も表情を強張らせる。
透真だけは、逆に感情が薄くなった。
いる。
いない。
相反する二つの事実。
「昨日の透真さんと似てます」
アリスが小さく言った。
透真は返事をしなかった。
知っている。
知らない。
忘れている。
覚えている。
自分自身が、既に同じ矛盾を抱えている。
「開けるな」
廻斗がもう一度言った。
今度は強かった。
透真は彼を見る。
「十年前にも、ここでノックがしたんですか」
廻斗は息を吐いた。
「……した」
「誰も入っていない部屋から?」
「ああ」
「火事の前ですか」
相良が尋ねた。
廻斗は答えるまでに少し時間が掛かった。
「前だ」
透真の瞳が細くなる。
火災より前。
相良は閉ざされた扉を見る。
「なら、この部屋と火災が無関係とは言い切れない」
「警察の記録では電気系統の異常ですよね」
アリスが言う。
「そうなっている」
相良の返事。
透真がアリスを見る。
「その記録は嘘ですか」
アリスは首を横へ振った。
「記録そのものは本当です」
「記録そのもの」
相良が小さく笑う。
「便利な表現だな」
「事実なので」
透真は扉へ歩き出した。
一歩。
廻斗の身体が反応する。
「透真」
二歩。
「やめろ」
三歩。
扉まで、残り五メートル。
「聞こえてるか」
「聞こえてます」
「なら止まれ」
「嫌です」
廻斗の顔が僅かに険しくなる。
「何でだよ」
透真はそこで足を止めた。
扉まで二メートル。
短い距離。
逃げるなら一瞬。
なのに、透真は前を見たまま言った。
「知りたいので」
その言葉を口にした自分自身に、透真は少し驚いた。
危険だから確認する。
必要だから動く。
今まではそうだった。
ただ知りたい。
そんな理由で危険へ近づいたことは、ほとんどない。
「透真さん」
アリスが呼ぶ。
透真は振り返った。
彼女は追いかけてこない。
少し離れた場所から、ただ透真を見ている。
「怖くないですか」
透真は少し考えた。
扉を見る。
廻斗を見る。
出口を見る。
最後にアリスを見る。
「怖いですよ」
アリスの黒い瞳が少し柔らかくなる。
「でも」
透真は再び扉へ向き直った。
「怖いから逃げるとは限らないでしょう」
アリスが一瞬言葉を失った。
そして。
少しだけ笑う。
「それ、私のです」
「何が」
「怖いから負けるとは限らないって、私が言ったやつ」
透真は思い出す。
「借りました」
「返してください」
「使ったので無理です」
「ひどい」
後ろで大場が大きく息を吐いた。
「こんな時まで何やってんだ、お前ら」
透真はドアノブへ右手を伸ばした。
その瞬間。
廻斗が動いた。
透真の手首を掴む。
思ったより速い。
能力ではない。
ただの人間。
それでも、指にははっきりとした力が込められている。
何としてでも止める。
その意思だった。
「離してください」
「嫌だ」
「叔父だから?」
「そうだ」
「便利ですね」
「何が」
「血縁」
「お前な……」
透真は手首を僅かに捻った。
簡単に廻斗の手から抜ける。
武術の技術。
ただそれだけ。
けれど。
透真はそのままドアノブへ手を伸ばさなかった。
廻斗を見る。
掴んでいた右手が。
小さく震えていた。
「そんなに怖いんですか」
廻斗は答えない。
視線の先は、十年前に向いているようだった。
「俺は」
やがて。
廻斗が乾いた声で言った。
「十年前、その扉を開けた」
透真の表情が変わる。
「中に誰がいたんです」
「誰も」
「じゃあ何があった」
「何もなかった」
「何も?」
「ああ」
廻斗は扉を見つめたまま続けた。
「何もない部屋だった。少なくとも、俺にはそう見えた」
炎が廊下の奥で大きく揺れる。
「その日の夜」
廻斗の声が少し落ちる。
「火事が起きた」
誰も口を挟まなかった。
「因果関係は分からない」
相良が静かに言う。
「分かってる」
「なら」
「それでも嫌なんだよ!」
廻斗の声が廊下に響いた。
全員が止まる。
廻斗は拳を握っている。
「俺には分からない。透真が死にかけた理由も、アリスがここにいた理由も、火事が起きた理由も、この部屋が何だったのかも。何一つ分からない」
呼吸が少し乱れていた。
「でも」
廻斗が扉を見る。
「俺がここを開けた数時間後に、全部が始まった」
透真は何も言わなかった。
能力者ではない。
未来も因果も見えない。
ただ一人の人間が。
十年間。
もし自分が開けなければ。
その可能性だけを抱え続けてきた。
「廻斗さん」
「何だ」
「それは、あなたの責任ですか」
廻斗が透真を見る。
返事はない。
透真は扉から一歩離れた。
「相良さん」
「何だ」
「刑事としてはどう思います?」
相良が眉を寄せる。
「雑な聞き方するな」
「時間がないので」
相良は廻斗を見る。
いつものように片目を閉じる。
「扉を開けたことと火災の因果関係は、現時点では証明できない」
「なら」
「御影さんが火事を起こしたという事実はない」
アリスが静かに続ける。
「本当です」
廻斗は視線を落とした。
「……慰めてんのか?」
「違います」
透真は即答した。
「事実確認です」
廻斗が苦笑する。
「お前、昔からそういうところ可愛くねえよな」
「覚えてません」
「だろうな」
僅かに空気が緩んだ。
透真はもう一度扉を見る。
「それでも開けるのか」
廻斗が尋ねる。
「まだ決めてません」
「珍しいな」
「何が」
「お前ならもう開けてると思った」
透真はドアノブを見た。
「選んでるんです」
廻斗の表情が、ほんの少しだけ変わった。
逃げるのか。
開けるのか。
どちらかを誰かに決められるのではなく。
自分で選ぶ。
そのときだった。
大場が扉の下へ目を向ける。
「……おい」
全員が見る。
「何です」
「これ」
大場がしゃがんだ。
身長百九十五センチの身体が廊下に収まりきらず、妙に窮屈そうだった。
扉の下の僅かな隙間。
そこから。
黒い液体が流れ出していた。
雨水ではない。
油でもない。
光をほとんど反射しない。
大場が指を伸ばす。
「触らないでください」
透真の声に、大場の手が止まった。
黒い液体は床をゆっくり流れている。
しかし。
廊下を流れる雨水とは混ざらない。
まるで黒いものを避けるように、雨水が左右へ分かれていく。
相良がポケットから白いハンカチを出した。
その先端を液体へ近づける。
「刑事さん」
大場が言う。
「何で自分はいいんだよ」
「仕事です」
「便利だな、それ」
相良はハンカチを引き上げた。
何も付いていない。
濡れてすらいなかった。
「触れない」
アリスがその場にしゃがみ込み、黒い流れを見つめる。
「でも」
透真が続ける。
「存在する?」
アリスはゆっくり頷いた。
「はい」
黒いものが増えていく。
扉の向こうで。
何かが動いた。
透真は息を止める。
今度はノックではなかった。
爪のようなものが。
扉の内側をゆっくり引っ掻いている。
ぎ。
ぎぎ。
ぎぎぎ。
大場が立ち上がった。
「これはさすがに」
いつもの軽さはない。
「開けない方がいいんじゃないか?」
透真はすぐには答えなかった。
右手が無意識にジャケットの内側へ動く。
ライト。
カード。
金属棒。
必要なものを確認する。
逃げる準備。
いや。
違う。
何かが起きたら。
全員を逃がすための準備。
そこまで考えて。
透真自身が止まった。
自分だけではない。
全員。
「久世」
相良が言った。
「一ついいか」
「何です」
片目を閉じた相良が、透真の手元を見ている。
「お前、さっきから自分の逃げ道じゃなくて」
一拍。
「全員の逃げ道を見てるだろ」
透真の目が僅かに開く。
大場も。
廻斗も。
アリスも。
透真を見る。
「違います」
言った瞬間。
「嘘です」
アリスが答えた。
透真は彼女を見る。
「……」
アリスが少し笑う。
「見てましたよね」
「癖です」
「誰の?」
「私の」
「だから、何の癖です?」
透真は答えない。
廻斗が長く息を吐いた。
「昔と同じだ」
透真が振り返る。
「何が」
「お前」
廻斗は懐かしいものを見るような目をしていた。
「逃げる時、自分だけの逃げ道なんて一度も探してなかった」
透真の身体が固まる。
記憶はない。
でも。
身体は覚えている。
アリスを逃がした。
自分だけではなかった。
自分の存在意義は。
本当に。
「自分が逃げる」だけなのか。
「透真さん」
アリスが小さく呼ぶ。
「もしかして、あなたの『逃げる』って――」
その先は。
扉の向こうから響いた衝撃音に遮られた。
ドン。
全員が反射的に身構える。
二度目。
ドン。
三度目。
ドン。
扉の中央が、僅かにこちら側へ膨らんだ。
廻斗の顔が変わる。
「離れろ!」
今度は全員が従った。
透真はアリスの腕を掴んで後ろへ引く。
大場は自分で距離を取る。
相良は壁際へ。
廻斗は最後まで扉を見ていた。
距離。
約六メートル。
そして。
四度目。
ドン!
蝶番が一つ外れた。
金属が床へ落ち、激しい音を立てる。
同時に。
廊下を燃やしていた炎が。
一斉に消えた。
暗闇。
完全な闇。
雨音も。
警報も。
消えている。
聞こえるのは。
五人分の呼吸だけ。
透真がライトを点ける。
細い白い光。
半分傾いた扉。
その向こう。
黒。
何も見えない。
「誰も動かないでください」
透真が低い声で言った。
「理由は」
相良。
「分かりません」
後ろから大場の声。
「最近そればっかりだな」
「本当に分からないので」
その時。
アリスの指が。
透真のジャケットの袖を掴んだ。
ごく僅かに。
「透真さん」
「何です」
「来ます」
「何が」
アリスは答えなかった。
いや。
答えられない。
黒い隙間から。
小さな裸足が一つ。
現れた。
煤で汚れた足。
細かな傷。
もう片方の足。
そして。
少年が。
ゆっくりと扉の向こうから出てくる。
透真はライトを向けた。
濡れた。
アッシュグレーと黒が混ざる髪。
青みを帯びたエメラルドグリーンの瞳。
幼い。
十一歳。
いや。
それより少し上。
十五か。
十六。
現在よりも遥かに若い。
久世透真。
自分自身。
誰も動かなかった。
少年は最初。
透真たちを見ていなかった。
過去の再現。
そう思った。
だが。
少年は透真の前まで歩いてくる。
二メートル。
止まる。
そして。
ゆっくり顔を上げた。
現在の透真と。
目が合った。
透真の背中を。
冷たいものが走る。
過去の映像じゃない。
この少年は。
自分を見ている。
少年が。
笑った。
透真は笑わない。
昔の自分が。
こんな笑い方をしたのか。
分からない。
少年の唇が動く。
声はない。
アリスがその口元を見つめる。
表情が強張った。
「何て言ってます」
透真が聞く。
アリスはすぐに答えない。
「アリス」
少年がもう一度。
同じ言葉を口にする。
今度は。
透真にも読めた。
逃げろ。
透真の瞳が細くなる。
少年が右手を上げる。
指先が。
扉の奥を指す。
次の瞬間。
暗かった部屋の中に。
白い灯りが点いた。
眩しい。
病室でもない。
事務室でもない。
真っ白で無機質な部屋。
白い壁。
白い床。
中央に。
椅子が一脚。
そこに。
一人の男が座っている。
背中しか見えない。
透真には見覚えがない。
その横で。
廻斗が息を呑んだ。
聞こえるほど。
「……兄貴」
透真は。
ゆっくり廻斗を振り返った。
廻斗の顔が完全に止まっている。
大場も。
アリスも。
相良も。
「兄貴?」
透真の声が乾く。
「誰です」
廻斗は答えない。
部屋の中。
椅子に座る男が。
ゆっくりと振り返ろうとする。
顔は。
白い光に隠れている。
透真の心臓が。
一度。
大きく鳴った。
父。
なぜか。
そう思った。
根拠などない。
けれど。
身体だけが知っている。
少年の透真が。
現在の透真を見る。
もう一度。
口を開いた。
今度は。
音があった。
小さな。
少年の声。
「今度は」
全員が。
息を止める。
十年前の過去が。
現在へ声を届けた。
「逃げるな」
透真の表情が消えた。
昔の自分から。
逃げるな。
そう言われた。
その瞬間だった。
建物全体が。
大きく揺れた。
床に亀裂が走る。
天井が軋む。
消えていた炎が一気に戻る。
「伏せろ!」
大場の声。
建物が。
崩れ始めた。
透真は考えなかった。
アリスの腕を引く。
相良。
廻斗。
大場。
全員の位置を把握する。
出口。
遠い。
間に合わない。
普通なら。
誰かが死ぬ。
その瞬間。
透真の中で。
何かが自然に決まった。
逃げる。
自分ではない。
全員を。
この崩落から逃がす。
できる。
そう思った瞬間。
視界が白く染まった。
次に聞こえたのは。
蝉の声だった。
夏の風。
青い空。
透真は瞬きをする。
空き地。
外。
アリス。
大場。
相良。
廻斗。
全員いる。
全員。
無傷。
背後には古びたフェンス。
その向こう。
建物はない。
最初から。
そんなものなど存在していなかったように。
午後の陽射し。
揺れる雑草。
普通の大阪。
透真は。
自分の右手を見る。
さっき。
全員を。
逃がした。
意識して。
初めて。
「……出た?」
大場が周囲を見回す。
相良が片目を閉じる。
「五人ともいる」
アリスは。
透真だけを見ていた。
「透真さん」
透真は答えない。
廻斗も。
透真を見る。
驚き。
懐かしさ。
そして。
少しだけ。
安心したような表情。
「やっぱり」
透真が顔を上げる。
「何です」
廻斗は笑わなかった。
「お前の『逃避』は」
一度。
言葉を止める。
「お前だけのものじゃなかったんだな」
風が吹く。
透真の髪が揺れる。
返事はしなかった。
その時。
相良が足元へ目を向けた。
しゃがむ。
雑草の間。
何か。
銀色のもの。
小さな。
古びた鍵。
相良が拾い上げる。
廻斗の表情が。
一瞬で変わった。
「そんな……」
相良が見る。
「知ってるんですか」
廻斗は。
手の中の鍵を見つめた。
「十年前」
声が低い。
「俺が」
右手の指先が。
僅かに震える。
「開けちゃいけない部屋を開けた鍵だ」
透真は。
その鍵を見る。
建物は消えた。
扉も。
少年の自分も。
父親らしき男も。
全部。
消えた。
なのに。
鍵だけが。
現在に残った。
アリスが静かに言った。
「本物です」
誰も聞いていなかった。
けれど。
必要な言葉だった。
相良は鍵を透真へ渡さなかった。
ポケットから証拠袋を取り出し、慎重に中へ入れる。
「久世」
「はい」
「十年前の火事」
相良が片目を閉じた。
「正式に調べ直す」
透真が少し嫌そうな顔をする。
「面倒ですね」
「知ってる」
「逃げても?」
「追う」
「警察って」
「面倒だろ」
「はい」
大場が笑った。
アリスも少し笑う。
透真は笑わなかった。
ただ。
口元だけが。
ほんの僅かに緩んだ。
その遥か上。
大阪の高層ビル。
屋上。
白いコートの男が。
空き地を見下ろしていた。
右手には。
銀色の天秤。
一方の皿。
逃避。
もう一方。
混沌。
その中央。
今までなかった小さな重りが。
静かに揺れている。
白いコートの男は。
指先でそれに触れた。
「他者を逃がしたか」
風。
白いコートが揺れる。
男の目が。
少し細くなる。
「それは」
天秤が揺れる。
「逃避と呼べるのか?」
答えは出ない。
男が。
僅かに笑った。
「面白い」
その背後。
誰もいない。
はずだった。
「正義」
声。
白いコートの男の身体が。
初めて止まる。
表情が変わる。
「早いな」
振り返らない。
「まだ、お前の番ではない」
背後に。
暗闇。
ゆっくり広がっていく。
「誰が決めた」
低い声。
遠い。
世界の底から。
響いてくる。
銀色の天秤が。
大きく揺れた。
白いコートの男が。
目を閉じる。
「……終焉」
暗闇は。
次の瞬間。
消えた。
何事もなかったように。
空が戻る。
地上。
透真は。
なぜか。
空を見上げた。
青空。
何もない。
それでも。
背筋を。
僅かな冷気が通り過ぎる。
アリスが。
横へ並ぶ。
「何かいました?」
「いいえ」
「本当ですか」
「はい」
アリスも。
空を見る。
「じゃあ」
少し笑う。
「帰ります?」
透真は。
空き地を見る。
十年前に。
逃げた場所。
建物は。
もうない。
でも。
鍵が残った。
父。
少年の自分。
開けてはいけない部屋。
まだ。
何一つ。
終わっていない。
「会社に」
透真が答える。
大場が即座に振り返った。
「今日は帰れ」
「まだ勤務時間です」
「有給取らせただろ」
透真が少し止まる。
「そうでした」
「忘れんな」
アリスが笑う。
相良は証拠袋を確認している。
廻斗だけが。
少し離れた場所から。
空き地を見ていた。
透真は。
その横顔に気づいた。
「廻斗さん」
「ん?」
「父は」
廻斗の身体が。
僅かに固まる。
透真は。
少し間を置いた。
昔なら。
聞く前に逃げたかもしれない。
今なら。
聞くこともできる。
でも。
今日は。
聞かない。
それも。
自分で決める。
「今日は聞きません」
廻斗の目が開く。
透真は先に歩き出した。
「次にします」
廻斗は。
しばらく。
その背中を見ていた。
そして。
ほんの少しだけ。
笑った。
「そうか」
その声を。
透真は。
聞こえないふりをした。
でも。
逃げなかった。
コメント、高評価よろしくお願いします。




