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8/24

第8話 燃えた場所に、残っていたもの

8話目になります。

よろしくお願いします。


フェンスの向こう。


十年前に焼け落ちたはずの建物は、雨の中でまだ燃えていた。


正確には。


燃えているように見えた。


炎は柱を舐め、窓から吹き出し、黒煙が空へ昇っている。


それなのに。


熱はない。


焦げた臭いもない。


雨粒が炎へ落ちても、蒸気すら上がらない。


ただ。


音だけがある。


ぱちぱちと木材が焼ける音。


遠くで鳴るサイレン。


誰かが走る足音。


泣き声。


怒鳴り声。


そして。


絶え間なく降り続ける雨。


現在の空は晴れている。


夏の午後。


青空。


風。


雑草の青い匂い。


なのに。


建物の中だけ。


十年前の夜が残っていた。


久世透真は入口の前に立っていた。


右足。


あと半歩。


それだけ進めば。


中へ入る。


後ろを振り返れば。


空き地。


フェンス。


大場の車。


道路。


その先には。


普通の大阪がある。


帰れる。


会社へも。


家へも。


どこへでも。


むしろ。


この出来事そのものから逃げればいい。


一歩。


後ろへ下がるだけでいい。


透真は。


動かなかった。


「行くぞ」


御影廻斗が先に入る。


黒いコートの裾が。


存在しない雨に揺れた。


床。


本来なら焼け落ちているはず。


だが。


足場はある。


廻斗の靴が。


濡れた床を踏む。


音。


ちゃぷ。


水。


ある。


透真が眉を寄せる。


「触れるんですか」


廻斗が振り返る。


「俺にはな」


「私には?」


「知らん」


「便利ですね」


「何が」


「知らないで済むの」


「お前に言われたくない」


大場が入口で立ち止まる。


身長百九十五センチ。


大柄な身体。


古い建物。


入口が妙に狭く見える。


「……俺、これ入れるのか?」


アリスが大場を見る。


「縦には入れます」


「横は?」


「少し斜めに」


「俺は家具か」


アリスが笑う。


透真も。


ほんの少しだけ。


口元を緩めた。


その瞬間。


建物の奥で。


何かが倒れた。


全員。


止まる。


木材。


金属。


鈍い音。


そのあと。


子供の泣き声。


透真の表情が消える。


アリスも笑うのをやめた。


「行きましょう」


アリスが先へ進む。


透真が腕を伸ばす。


止める。


「待ってください」


「何ですか」


「私が先に行きます」


アリスが目を瞬く。


大場も。


廻斗も。


一瞬。


透真を見る。


「何ですか」


透真が聞く。


「いや」


廻斗が少し笑う。


「昔もそうだったな」


「何が」


「危ない時だけ前に出る」


透真が眉を寄せる。


「記憶にありません」


「知ってる」


透真は。


入口を越えた。


一歩。


その瞬間。


空気が変わった。


夏の風が消える。


代わりに。


冷たい。


雨の夜。


温度。


匂い。


煙。


焦げた木。


濡れたコンクリート。


血。


全部。


一気に。


肺へ入ってきた。


透真の足が止まる。


「……」


さっきまで。


熱も。


匂いもなかった。


境界。


建物の内側。


ここだけ。


十年前。


「透真さん?」


アリス。


透真は答えない。


床を見る。


自分の靴。


濡れている。


本物の水。


一滴。


二滴。


ジャケットの肩。


雨。


落ちてくる。


天井が。


一部崩れている。


そこから。


十年前の雨が降っている。


透真は手を出す。


掌。


水。


冷たい。


「どうなってるんだ」


大場が後ろから入ってくる。


肩を少し斜めにして。


実際。


入口が狭かった。


「今、何か言いました?」


「言ってない」


「顔に出てました」


「お前まで言うな」


大場が室内を見る。


顔。


強張る。


「これ……」


壁。


焦げている。


机。


倒れている。


避難誘導灯。


赤い光。


点滅。


奥。


炎。


大場が手を伸ばす。


今度は。


壁に触れた。


「触れる」


アリスも。


柱へ手を置く。


「本物です」


「でも」


大場が言う。


「この建物、もうねえんだろ」


廻斗が。


入口付近で止まっている。


「ない」


「じゃあ何だよ」


「知らん」


「お前、待ってたんだろ?」


「待ってただけだ」


「役に立たねえな」


「初対面の人間に厳しくないか?」


「見た目が怪しい」


「お前にだけは言われたくない」


透真は。


二人の会話を。


ほとんど聞いていなかった。


廊下。


奥。


見覚えがある。


違う。


見覚えがある気がする。


壁の染み。


曲がった掲示板。


左側。


三つ目の扉。


右。


消火器。


その先。


階段。


透真の足が。


勝手に。


左へ向く。


「透真さん」


アリスが呼ぶ。


透真は止まらない。


「どこへ」


「分かりません」


「でも歩いてます」


「身体が」


一度。


止まる。


「覚えてるみたいです」


アリスが。


少しだけ。


悲しそうな顔をした。


透真は見ない。


左。


三つ目の扉。


手を掛ける。


開かない。


鍵。


透真の指。


ポケット。


細い金属棒。


いつも持っている。


バッグには入っていない。


だが。


バッグへ手を入れる。


大場が後ろにいる。


いつもの癖。


そこから取り出したように見せる。


廻斗が。


それを見て。


笑った。


「まだやってんのか」


透真が止まる。


「何が」


「バッグ」


「……」


「昔からそうだった」


透真の目が動く。


「昔から?」


「ああ」


「いつから」


「小学生」


「小学生が何を隠すんです」


「色々」


「例えば」


「鍵開け道具」


透真が黙る。


大場が。


ゆっくり。


透真を見る。


「久世」


「はい」


「今の、それ」


「仕事道具です」


「何の仕事だ」


「会社員です」


「会社員にピッキングいるか?」


「場合によります」


「どういう会社だよ、うち」


アリスが笑いそうになり。


やめた。


音。


また。


奥で。


何か。


今度は。


叫び。


女性。


透真の手が止まる。


声。


知っている。


知らない。


胸が。


痛い。


「……」


鍵。


一秒。


開く。


扉。


ゆっくり。


押す。


部屋。


暗い。


窓。


割れている。


床に。


古い机。


小さな椅子。


壁。


子供の絵。


クレヨン。


家。


太陽。


人。


三人。


そして。


もう一人。


少し離れて。


描かれている。


透真が近づく。


絵。


紙。


濡れている。


それでも。


色は残っている。


大場が。


後ろから覗く。


「子供の絵か」


廻斗が。


入ってくる。


顔。


変わる。


「これ……」


透真が見る。


「知ってるんですか」


廻斗は。


答えない。


絵を見る。


小さな家。


男。


女。


子供。


そして。


離れた場所。


もう一人。


「誰が描いた」


透真。


廻斗が。


ゆっくり。


指を差す。


右下。


文字。


子供の字。


かすれている。


でも。


読める。


『ありす』


アリスの目が。


大きくなる。


「私?」


「そうだ」


廻斗。


「ここ」


部屋を見る。


「昔、白峰家が子供向けに使ってた部屋だ」


「私、ここに来てたんですか」


「ああ」


「透真さんも?」


廻斗は。


透真を見る。


「何度も」


透真。


何も。


浮かばない。


絵。


四人。


その一人。


髪。


灰色。


子供。


透真。


もう一人。


黒髪。


大人。


廻斗。


家族。


ではない。


白峰。


久世。


どういう関係だった。


「アリス」


透真が聞く。


「この絵」


「はい」


「嘘ですか」


「絵に嘘とかあります?」


「あなたなら分かるかと」


アリスは。


少し考える。


絵を見つめる。


「……事実です」


「絵が?」


「これを描いた時」


アリスが。


指を。


幼い透真の絵へ。


「私は、この人を知ってました」


透真の呼吸が。


少し。


浅くなる。


知っていた。


アリスは。


十年前。


火事の日に初めて会ったんじゃない。


その前から。


「でも」


アリスが。


困惑する。


「覚えてません」


透真が。


アリスを見る。


初めて。


少しだけ。


同じ顔をした。


分からない。


自分の記憶に。


穴がある。


アリスにも。


穴がある。


「廻斗さん」


アリス。


「どうして私は忘れてるんですか」


廻斗は。


すぐには答えなかった。


窓。


外。


雨。


炎。


数秒。


「それは」


口を開く。


その瞬間。


部屋の灯りが。


消えた。


暗闇。


「っ」


大場。


すぐ。


足音。


動く。


透真。


ライト。


取り出す。


点灯。


白い光。


一筋。


その先。


部屋の中央。


誰か。


立っている。


小さな少女。


十一歳。


プラチナブロンド。


白峰アリス。


過去。


現在のアリスが。


息を呑む。


「私……」


声。


小さなアリス。


泣いている。


目の前。


少年。


透真。


現在より。


幼い。


二人。


透真たちの存在には。


気づいていない。


過去の映像。


いや。


記憶。


少女が。


少年の服を掴んでいる。


火。


部屋の外。


少年が。


何かを言う。


音。


ない。


透真が。


目を細める。


読もうとする。


アリスも。


唇。


動く。


『ここにいろ』


少女。


首を振る。


少年。


何か。


怒鳴る。


でも。


音がない。


少女が。


泣きながら。


腕を掴む。


少年が。


振り払う。


その瞬間。


天井。


轟音。


崩れる。


現在の大場が。


反射的に。


二人の過去へ。


手を伸ばす。


触れない。


映像。


崩落。


少年。


少女。


鉄骨。


落ちる。


透真の頭。


激痛。


「っ……!」


膝。


床。


アリスが。


すぐに支える。


「透真さん!」


声。


現在。


過去。


混ざる。


透真の視界。


白い。


少年。


下敷き。


になる。


はず。


だが。


消える。


次。


数メートル先。


透真。


立っている。


幼い自分。


何が起きたか。


理解していない。


廻斗の声。


現在。


「そこだ」


低い。


全員。


見る。


「最初だ」


過去の透真。


手。


震えている。


少女。


鉄骨。


下敷き。


になる。


今度は。


アリス。


少年。


叫ぶ。


聞こえない。


でも。


口。


分かる。


『嫌だ』


次。


世界が。


歪む。


鉄骨。


少女へ。


落ちるという結果。


消える。


アリスが。


別の場所へ。


移る。


過去の少女。


無傷。


泣いている。


現在のアリスが。


両手で口元を押さえる。


透真。


呼吸。


乱れる。


「私が……」


「そうだ」


廻斗。


「お前は」


視線。


透真。


「最初に自分を逃がした」


そして。


アリス。


「次に、この子を逃がした」


透真の頭に。


言葉。


存在意義。


逃避。


でも。


おかしい。


自分が逃げる。


それだけじゃない。


他人。


逃がす。


「なぜ」


透真。


「私の能力で」


廻斗は。


首を振る。


「俺にも分からん」


「あなたは全部見てた」


「見た」


「なら」


「見たもの全部の意味が分かると思うな」


廻斗の声。


少し強い。


透真が。


顔を上げる。


廻斗は。


ただ。


叔父。


能力者ではない。


観察者。


証人。


「俺が知ってるのは」


廻斗。


「お前があの日」


過去。


炎。


「死から逃げた」


「火から逃げた」


「崩落から逃げた」


そして。


「アリスを逃がした」


透真。


手を見る。


今の。


自分。


同じ手。


「それから」


廻斗の顔が。


曇る。


「全部がおかしくなった」


空間。


歪む。


過去の映像。


さらに。


進む。


警報。


音。


戻る。


今度は。


爆音。


耳が痛い。


大場が。


顔をしかめる。


「うるせえ……」


炎。


広がる。


誰か。


走ってくる。


大人。


男。


透真の父親。


顔。


見えない。


煙。


影。


少年の透真。


振り返る。


父。


何か。


叫ぶ。


音。


途切れる。


一瞬だけ。


声。


――透真!


現在の透真。


身体。


固まる。


「父……」


初めて。


その言葉が。


自然に出た。


廻斗が。


見る。


何も言わない。


過去の父。


少年へ。


走る。


次。


建物。


大きく。


揺れる。


壁。


崩れる。


父。


消える。


映像。


切れる。


暗闇。


透真。


立ち上がる。


「続きを」


「駄目だ」


廻斗が。


即答。


透真の目。


変わる。


「なぜ」


「今はここまでだ」


「あなたが決めることじゃない」


「そうだ」


「なら」


「建物が決めてる」


透真。


止まる。


廻斗が。


奥を見る。


廊下。


炎。


その先。


暗い。


「俺たちが出してるわけじゃない」


「アリスが引き寄せた」


「たぶんな」


「なら」


「アリスにも制御できない」


現在のアリス。


自分の手を見る。


「私が……」


廻斗が。


すぐ言う。


「責任感じるな」


アリス。


見る。


「でも」


「違う」


廻斗。


「引き寄せたことと」


「起こしたことは違う」


透真が。


廻斗を見る。


その言葉。


妙に。


残る。


引き寄せる。


起こす。


逃げる。


捨てる。


責任。


全部。


似ているようで。


違う。


大場が。


突然。


後ろを見る。


「……誰か来た」


全員。


止まる。


足音。


建物の外。


砂利。


一人。


ゆっくり。


近づく。


透真。


耳。


集中。


歩幅。


成人男性。


靴。


革靴。


呼吸。


落ち着いている。


迷いがない。


フェンス。


開く音。


廻斗が。


眉を寄せる。


「誰だ」


透真は。


もう分かっていた。


入口。


人影。


灰色のジャケット。


短い。


白髪混じりの黒髪。


鋭い目。


片目。


少し。


閉じている。


相良修司。


刑事。


建物の入口で。


止まる。


燃えているはずの建物。


十年前に消えた場所。


その中。


透真。


アリス。


大場。


廻斗。


相良は。


数秒。


何も言わなかった。


ただ。


片目を閉じたまま。


全部を見る。


そして。


「……なるほど」


低い声。


透真は。


ため息をついた。


「何がなるほどなんですか」


相良。


ゆっくり。


中へ入る。


「分からん」


「分からないのに?」


「ああ」


一歩。


雨。


相良の肩を濡らす。


目。


少し。


見開く。


「でも」


燃える廊下。


過去。


現在。


全員。


「ようやく」


相良が言う。


「偶然じゃないことだけは分かった」


透真は。


目を閉じた。


警察。


叔父。


アリス。


社長。


十年前。


逃げた過去。


全部。


一つの場所へ。


集まっている。


本当に。


逃げる場所が。


少なくなってきた。


その瞬間。


建物の奥。


暗闇。


誰か。


立っている。


透真だけ。


気づく。


人影。


細い。


白い。


顔。


見えない。


廻斗ではない。


相良でも。


大場でもない。


男。


白いコート。


手。


銀色。


天秤。


透真の瞳が。


細くなる。


正義。


男は。


何も言わない。


ただ。


こちらを。


見ていた。


次の瞬間。


炎。


大きく揺れる。


姿。


消える。


透真は。


追わなかった。


いや。


追えなかった。


胸の奥。


一つだけ。


確信。


十年前。


この場所に。


いたのは。


自分たちだけではない。


「久世?」


相良が呼ぶ。


透真は。


暗闇を見る。


「何でもありません」


言った。


でも。


今回は。


逃げるためではなかった。


まだ。


確信がない。


それだけ。


建物のさらに奥。


焼けた廊下。


閉じた扉。


その向こうから。


小さく。


音。


三回。


ノック。


一回。


二回。


三回。


全員。


振り返る。


廻斗の顔から。


血の気が引いた。


透真は。


それを見た。


「知ってる音ですね」


廻斗は。


答えない。


「廻斗さん」


「……」


「何があるんです」


廻斗が。


閉じた扉を見る。


十年前。


まだ。


終わっていない。


そして。


低い声で。


言った。


「そこは」


一度。


息を吸う。


「開けちゃいけない部屋だ」


透真は。


扉を見る。


なら。


開けたい。


そう思った。


自分でも。


少し。


驚いた。


逃げることが。


存在意義の男が。


今。


初めて。


知らないものへ。


自分から。


近づこうとしていた。

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