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7/22

第7話 帰ってきた過去と、待っていた人

7話目になります。

少し長めになりますが、よろしくお願いします。


「おかえり」


その声を聞いた瞬間。


久世透真の身体は、


逃げろ。


と判断した。


頭ではない。


理屈でもない。


もっと深い場所。


生き物としての本能。


十年前。


自分が捨てた何かが。


目の前に立っている。


空き地。


古びたフェンス。


伸びた雑草。


その向こう。


黒いコートを着た男。


御影廻斗(みかげ かいと)


そして。


男の背後には。


十年前に焼け落ちたはずの建物が立っていた。


炎に包まれている。


窓から火が噴き出している。


黒煙。


雨。


崩れ落ちた外壁。


なのに。


熱はない。


煙の匂いもない。


音だけが。


遠くから聞こえている。


誰かの悲鳴。


消防車。


割れるガラス。


そして。


泣いている子供。


透真は動かなかった。


逃げられる。


そう思った。


この景色から。


廻斗から。


十年前から。


記憶から。


すべて。


今すぐ。


それでも。


足は動かなかった。


「透真さん」


後ろからアリスの声。


透真は答えない。


大場泰然が車のドアを閉める。


大きな身体が、透真の横へ並んだ。


「久世」


「はい」


「見えてるよな」


「はい」


「俺にも見えてる」


「そうですか」


「そうですかじゃねえ」


大場は燃える建物を見る。


「何だ、あれ」


「分かりません」


「お前」


透真を見る。


「最近そればっかりだな」


「実際、分からないので」


「便利な言葉だな」


「社長に言われたくありません」


「何でだよ」


いつものやり取り。


ほんの一瞬。


透真の緊張が緩む。


それを。


廻斗は遠くから見ていた。


そして。


少し笑った。


「変わってないな」


声。


五十メートル。


いや。


もっと離れている。


なのに。


はっきり聞こえる。


透真の目が細くなる。


「何をしてるんですか」


廻斗へ問い掛ける。


「何って?」


「この建物です」


透真が指す。


「あなたが出してるんですか」


廻斗は後ろを見る。


炎。


雨。


建物。


そして。


首を傾げた。


「俺が?」


「違うんですか」


「違う」


即答。


透真は黙る。


アリスが横から見る。


廻斗の言葉。


嘘か。


本当か。


数秒。


「本当です」


アリスが言った。


透真が見る。


「この人、嘘ついてません」


廻斗の視線が。


初めて。


アリスへ向いた。


長いプラチナブロンド。


黒い瞳。


廻斗は。


一瞬。


息を止めた。


「……白峰」


アリスが目を瞬く。


「私を知ってるんですか?」


廻斗は答えない。


その顔には。


驚き。


懐かしさ。


そして。


少しだけ。


困ったようなものが浮かんでいた。


「そうか」


廻斗が小さく呟く。


「お前が連れてきたのか」


「何をですか?」


「これを」


廻斗は燃える建物を見る。


アリスも振り返る。


透真の瞳が動く。


「アリスが?」


「正確には」


廻斗は言った。


「こいつの周りにあるものが、だな」


透真の表情が変わる。


混沌。


事件を引き寄せる。


偶然を寄せる。


本来なら交わらないものを。


一つの場所へ集める。


もし。


それが事件だけではないなら。


過去。


記憶。


人間。


それすら。


引き寄せる?


「あなた」


透真が言う。


「アリスについて何を知ってるんですか」


廻斗は笑った。


「何も」


「今、白峰と言いました」


「姓くらい知ってる」


「なぜ」


「十年前に会ってるからだ」


透真の目が止まった。


アリスも。


「私と?」


「お前は覚えてないだろうな」


廻斗が答える。


「十一歳だった」


アリスの笑顔が消える。


「火事の日ですか」


「そうだ」


大場が透真を見る。


透真は。


何も言わない。


廻斗がフェンスへ近づく。


鍵。


錆びた南京錠。


廻斗はポケットから鍵を出した。


普通の鍵。


差し込む。


回す。


金属音。


フェンスが開いた。


あまりにも。


普通だった。


透真は逆に警戒した。


「入らないのか?」


廻斗が言う。


透真は動かない。


「十年ぶりだぞ」


「私は覚えてません」


「知ってる」


「なら、久しぶりでもありません」


廻斗は少し笑った。


「そういうところも変わってないな」


「私を知っているように話しますね」


「知ってるからな」


「誰ですか」


廻斗の笑みが。


少しだけ消えた。


透真を見る。


その目。


敵意はない。


怒りも。


殺気も。


何もない。


あるのは。


長い時間。


透真には。


そう見えた。


「そうか」


廻斗が言う。


「そこからか」


透真は黙る。


「名前は」


男が自分を指す。


「御影廻斗」


「それは知っています」


「今はな」


「今は?」


「昔は」


廻斗が言った。


「久世廻斗だった」


透真の呼吸が止まる。


アリスが透真を見る。


大場も。


「久世?」


透真の声。


初めて。


少し揺れた。


「そう」


廻斗は答える。


「お前の父親の兄だ」


沈黙。


世界が。


一度止まったように感じた。


叔父。


言葉の意味は分かる。


父親の兄。


血縁。


家族。


久世。


自分が逃げたもの。


透真は廻斗を見る。


顔。


目。


輪郭。


何も。


思い出せない。


「……証拠は?」


廻斗が笑った。


「最初にそれか」


「普通でしょう」


「まあ、お前ならな」


財布。


廻斗が一枚の古い写真を取り出す。


透真には渡さない。


そのまま。


見せる。


家族写真。


若い男女。


小さな子供。


その横。


今より若い廻斗。


子供。


アッシュグレーに黒が混じった髪。


エメラルドグリーンの瞳。


久世透真。


幼い自分。


透真は。


写真を見た。


何も感じない。


懐かしいとも。


悲しいとも。


思わない。


知らない人間の写真を見るように。


ただ。


身体だけが。


僅かに震えた。


「嘘じゃないです」


アリスが小さく言った。


透真が見る。


「聞いてません」


「でも確認したでしょう?」


「してません」


「顔に出てました」


最近。


顔に出ると言われすぎている。


「久世」


大場の声。


「大丈夫か」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「それは」


アリスが口を開く。


透真が即座に睨む。


「言わなくていいです」


アリスは口を閉じた。


少し楽しそうだった。


大場が眉を寄せる。


「何なんだよ」


「気にしないでください」


「一番気になる言い方すんな」


廻斗が笑った。


「いい会社だな」


透真の表情が少し変わる。


「知ったように言わないでください」


「そうだな」


廻斗は。


否定しなかった。


そして。


「安心したよ」


「何がですか」


「一人じゃなくて」


透真は答えない。


その言葉から。


逃げたかった。


廻斗はフェンスの中へ入る。


「来い」


透真は動かない。


「命令ですか」


「違う」


「なら断ります」


「いいぞ」


透真の眉が動く。


「いい?」


「ああ」


廻斗は振り返る。


「帰りたいなら帰れ」


透真が黙る。


「逃げたいなら逃げろ」


「……」


「お前ならできる」


その声には。


皮肉がない。


挑発もない。


本当に。


逃げていいと言っている。


それが。


透真には。


少しだけ腹立たしかった。


「止めないんですか」


「止められないだろ」


「物理的には止められます」


「お前を?」


廻斗は笑う。


「昔から無理だったよ」


昔から。


透真の奥で。


何かが動く。


「俺は」


廻斗が続ける。


「お前が逃げたことを責めに来たわけじゃない」


透真は見る。


「じゃあ何のために」


「教えるためだ」


「何を」


廻斗は。


炎の建物を見る。


「始まりを」


風。


炎が揺れる。


だが。


雑草は燃えない。


熱もない。


アリスが一歩。


フェンスの中へ入った。


透真が見る。


「何してるんですか」


「行きます」


「なぜ」


「気になるので」


「危険かもしれません」


「そうですね」


「なら」


「でも」


アリスが振り返る。


「透真さん、一人だと逃げそうなので」


「逃げますよ」


「でしょう?」


「だったら来ないでください」


「逆です」


アリスが笑う。


「逃げてもいいです」


透真の目が止まる。


「私が残るので」


一瞬。


透真は言葉を失った。


「……それ」


少し間。


「一番面倒なやつです」


「知ってます」


大場が横を通る。


フェンスへ。


「社長?」


「俺も行く」


「なぜ」


「社員と、その知り合いの若い女の子を」


大場は廻斗を見る。


「よく分からんおっさんと二人で行かせられるか」


廻斗が少し傷ついた顔をする。


「おっさん……」


「何歳だ」


「四十六」


「おっさんだろ」


「お前は?」


「四十三」


「お前もだろ」


「俺は社長だ」


「関係ある?」


「ある」


「ないだろ」


透真は。


二人を見る。


初対面。


なのに。


なぜか会話が成立している。


「……帰りたい」


小さく呟く。


アリスが聞いた。


「帰ります?」


透真は答えない。


フェンス。


開いている。


反対方向。


駅。


会社。


家。


逃げ道。


無数。


どれを選んでも。


ここから離れられる。


十年前。


もう一度。


忘れることもできる。


それが。


一番簡単。


透真は。


フェンスを見る。


一歩。


進んだ。


自分から。


中へ入る。


廻斗は何も言わなかった。


ただ。


ほんの少し。


表情を緩めた。


燃える建物。


近づく。


距離。


四十メートル。


三十。


二十。


近づくほど。


現実味が増す。


壁の亀裂。


黒く焼けた柱。


割れた窓。


雨。


火。


けれど。


触れられない。


大場が手を伸ばす。


指が。


壁を通り抜けた。


「映像……か?」


「違います」


アリスが言う。


「存在してます」


大場が振り返る。


「これが?」


「はい」


「触れられないのに?」


「存在することと、触れられることは同じじゃありません」


大場が透真を見る。


「分かるか?」


「聞かないでください」


「お前なら分かると思った」


「最近、私を何だと思ってます?」


「よく分からん奴」


「正解です」


廻斗が。


建物の入口前で止まる。


「これは」


アリスを見る。


「たぶんお前が引っ張り出した」


アリスの目が細くなる。


「私?」


「ああ」


「私、そんなことできません」


「知ってる」


「じゃあ」


「意識してないからな」


アリスが黙る。


廻斗は。


透真を見る。


「十年前もそうだった」


「アリスが?」


「違う」


廻斗は首を振る。


「お前だ」


透真の瞳が僅かに動く。


「私?」


「あの日」


廻斗の声が。


初めて。


少し重くなる。


「お前の存在意義が出てきた」


炎。


透真の耳に。


小さな音が響く。


心臓。


自分の。


「存在意義」


大場が言った。


透真は。


大場を見る。


説明していない。


「後で話します」


「逃げんなよ」


「努力します」


「もう信用しねえぞ、その努力」


廻斗は建物へ視線を戻す。


「あの日までのお前は」


少しだけ笑う。


「変なガキだった」


「褒めてます?」


「全然」


「そうですか」


「頭は良かった」


「ありがとうございます」


「人の話は聞かなかった」


「今もですね」


アリスが言った。


「黙っていてください」


「はい」


「危ないことばっかりして」


廻斗は続ける。


「なのに、自分では絶対に危ないと思ってなかった」


「……」


「何でもできると思ってた」


廻斗の表情。


少し。


懐かしそうだった。


「でも」


炎を見る。


「普通の子供だった」


透真は何も言わない。


「存在意義なんて」


廻斗が続ける。


「俺も知らなかった」


「あなたには?」


透真が聞く。


「何が」


「存在意義」


廻斗は。


首を横へ振った。


「ない」


透真が。


初めて少し驚く。


「ない?」


「ああ」


「本当に?」


「何で驚く」


「いえ」


透真は。


考える。


正義。


終焉。


アリス。


自分。


最近。


異常ばかりに囲まれすぎた。


重要人物なら。


何かを持っている。


どこかで。


そう思い始めていた。


廻斗は。


ただの人間。


「普通ですよ」


アリスが笑う。


「普通」


透真が廻斗を見る。


「この状況に一人で立って待ってた人を普通とは」


「失礼だな」


「褒めてません」


「知ってる」


廻斗が。


建物の奥を見る。


「十年前」


空気が。


変わった。


冗談が消える。


「この建物で火事が起きた」


透真。


アリス。


大場。


誰も喋らない。


「原因は」


廻斗が言う。


「電気系統の異常」


相良が見つけた記録と。


同じ。


「少なくとも」


廻斗は続けた。


「警察の記録ではそうなってる」


「違うんですか」


アリス。


「違う」


廻斗は即答した。


「火事が先じゃなかった」


透真の目が細くなる。


「何が先です」


廻斗が。


透真を見る。


「お前が逃げた」


一瞬。


意味が分からなかった。


「……火事から?」


「違う」


「じゃあ」


廻斗は。


ゆっくり。


首を横へ振った。


「死からだ」


炎が。


一瞬。


大きく揺れた。


透真の頭。


痛み。


記憶。


子供の自分。


床。


血。


誰かの叫び。


「っ……」


透真が額へ手を当てる。


アリスが近づく。


「透真さん」


「大丈夫です」


「嘘」


「今は」


「大丈夫じゃない」


透真は。


何も言わなかった。


廻斗が近づこうとする。


透真の身体が。


反射的に一歩下がった。


廻斗が止まる。


その一歩。


廻斗は。


少し悲しそうに見えた。


「悪い」


透真は眉を寄せる。


「なぜ謝るんです」


「忘れてるんだったな」


「……」


廻斗は距離を保つ。


近づかない。


「透真」


呼び方。


久世でも。


お前でもなく。


透真。


その響きに。


胸の奥が。


また。


軋む。


「お前はあの日」


廻斗が言う。


「一度死ぬはずだった」


大場の表情が変わる。


アリスも。


透真だけ。


動かない。


「はずだった?」


「そうだ」


「実際には?」


廻斗が。


笑わずに答える。


「死ななかった」


「なぜ」


「逃げたからだ」


透真の瞳が。


僅かに見開かれる。


「死という結果から」


廻斗。


「お前は逃げた」


雨。


炎。


床。


少年。


その身体へ。


何かが落ちてくる。


鉄骨。


逃げられない。


避けられない。


死ぬ。


その瞬間。


何かが。


世界から外れた。


映像が。


透真の頭に流れ込む。


自分。


幼い自分。


目を閉じている。


そして。


ただ一言。


――嫌だ。


次。


鉄骨が。


少年を潰すはずだった。


なのに。


結果がない。


少年が。


そこにいない。


数メートル先。


別の場所。


何も理解できない顔で。


立っている。


透真が息を呑む。


「最初は」


廻斗が言う。


「偶然だと思った」


透真は。


黙っている。


「でも二度目」


炎が広がる。


「お前は火から逃げた」


三度目。


崩れる階段。


「落下から逃げた」


四度目。


煙。


「窒息から」


そして。


廻斗の声が低くなる。


「最後に」


小さな少女。


白峰アリス。


泣いている。


「その子を」


透真が見る。


アリス。


現在の。


彼女も。


自分を見ている。


「逃がした」


透真の呼吸が止まった。


「私が?」


「そうだ」


「でも」


透真は言う。


「私の存在意義は」


逃げる。


自分が。


逃げる。


そのはず。


「俺もそう思ってた」


廻斗が答える。


「でも」


視線を。


アリスへ。


「お前はこの子を逃がした」


透真の中に。


言葉。


――この子だけは、逃がして。


誰の声。


分からない。


そして。


小さな手。


少女。


自分。


「どうやって」


透真が聞く。


「分からない」


廻斗。


「今でも」


「あなたは見てたんでしょう」


「見てた」


「なら」


「見てても分からないものはある」


透真が黙る。


その言葉。


相良が言いそうだ。


廻斗は続ける。


「ただ」


「はい」


「あの日から」


少しだけ。


表情が変わった。


「お前は変わった」


「どう」


「逃げ始めた」


透真が。


自分を見る。


「それまでも逃げる子供だった」


廻斗は苦笑する。


「怒られそうになれば逃げる」


「普通では」


「宿題から逃げる」


「それも普通です」


「歯医者から逃げる」


「……普通です」


「俺の車の鍵隠して怒られたら三日帰ってこなかった」


「それは」


透真が少し止まる。


「普通じゃないですね」


アリスが笑った。


「かわいい」


「どこがですか」


ほんの少し。


空気が緩む。


だが。


廻斗は。


すぐに真顔へ戻る。


「でも」


「……」


「あの日からは違った」


炎。


「嫌なものから逃げるんじゃない」


透真を見る。


「自分から逃げ始めた」


透真の瞳が揺れる。


「家族」


一つ。


「過去」


二つ。


「記憶」


三つ。


「約束」


四つ。


「最後は」


廻斗が言う。


「久世透真という人間そのものから逃げようとした」


沈黙。


透真は。


否定しない。


否定できない。


覚えていない。


けれど。


今の自分なら。


やりかねない。


そう思ってしまう。


「どうして止めなかったんですか」


アリスが聞いた。


廻斗を見る。


「叔父さんだったんですよね」


「ああ」


「なら」


少しだけ。


強い声。


「止めようと思わなかったんですか」


廻斗は。


アリスを見た。


「止めたよ」


それだけ。


「何度も」


「……」


「捕まえた」


廻斗は。


透真を見る。


「話した」


「怒った」


「殴ったこともある」


大場の眉が動く。


「それはどうなんだ」


「反省してる」


「ならいい」


「いいんですか」


透真が言う。


「家庭の話だからな」


「雑ですね」


廻斗が続ける。


「でも」


「……」


「全部から逃げられる奴を」


小さく笑う。


「どうやって止める?」


誰も。


答えなかった。


それが。


答えだった。


「父は」


透真が聞く。


声。


少しだけ。


小さい。


廻斗の表情が。


変わった。


透真は。


それを見て。


すぐに分かった。


何かある。


「私の父親は」


「……」


「今どこにいるんですか」


廻斗は答えない。


アリスも。


大場も。


黙る。


風。


燃える建物。


雨音。


現実には晴れている。


なのに。


雨だけが聞こえる。


「それは」


廻斗が言う。


「今日、話すつもりはない」


透真の目が細くなる。


「なぜ」


「順番がある」


「嫌いなんですよね。そういうの」


「知ってる」


「教えてください」


「まだ駄目だ」


透真の中。


何かが苛立つ。


逃げる。


ではない。


知りたい。


その感覚。


自分には。


あまり馴染みがない。


「あなたは」


透真が言う。


「父に私を託された」


廻斗の目が動いた。


「違いますか」


「……誰から聞いた」


「今」


「は?」


「あなたの反応で」


廻斗が黙る。


アリスが少し笑う。


「透真さんも人を見るの得意ですよ」


「あなたほどではありません」


廻斗は。


ため息をついた。


「そうだよ」


「いつ」


「十年前」


「火事の前?」


「後」


透真の目が止まる。


「父は生きていた」


「その時点ではな」


その時点。


言葉。


重い。


透真は。


それ以上。


聞かなかった。


聞けなかった。


違う。


今は。


聞かなかった。


自分で。


選んだ。


廻斗は。


それに気づいたようだった。


「透真」


「はい」


「お前が家族から逃げたことを」


廻斗が言う。


「俺は良いとは思ってない」


透真は。


黙って聞く。


「親父からも」


「母親からも」


「俺からも」


「全部」


「逃げた」


「はい」


「覚えてないのに謝るなよ」


「謝ってません」


廻斗が少し笑う。


「そうだったな」


そして。


「でも」


廻斗は続ける。


「恨んではない」


透真が見る。


「怒ってはいる」


「どっちですか」


「両立する」


「そうですか」


「ああ」


「それで十年」


透真は聞く。


「私を探してた?」


「探した」


「見つからなかった?」


廻斗が。


少し笑った。


「何度も見つけた」


透真が止まる。


「……何?」


「見つけてた」


「じゃあなぜ」


「会わなかった」


「なぜ」


廻斗は。


少しだけ。


透真へ近づいた。


今度は。


透真は下がらなかった。


「お前が」


廻斗。


「逃げてたからだ」


「……」


「俺から」


「家族から」


「過去から」


「それを無理やり連れ戻して」


廻斗は。


首を横へ振る。


「何になる」


透真は。


答えられない。


「親父に言われた」


廻斗。


「透真を頼むって」


「だから」


「見守った」


「十年?」


「ああ」


「何もせず?」


廻斗が少し眉を寄せる。


「何もしてないと思うか」


透真の目が動く。


「お前」


廻斗が指を差す。


「二十一の時、変な投資話に引っ掛かりそうになっただろ」


透真が止まる。


「……ありましたね」


「途中で相手が消えた」


「はい」


「俺だ」


「……」


「二十三の時、住んでたマンションの大家ともめただろ」


「少し」


「少しじゃねえよ」


「なぜ知ってるんです」


「俺が間に入ったからだ」


「記憶にありません」


「お前が逃げたからだよ!」


大場が吹き出した。


アリスも笑う。


透真は。


少し。


嫌そうな顔。


「ストーカーでは?」


「叔父だ!」


「叔父でも限度が」


「弟に頼まれたんだよ!」


初めて。


廻斗が普通に怒鳴った。


その姿。


超常的な謎の男。


ではない。


ただの。


叔父。


その瞬間。


透真の中で。


何かが少しだけ変わった。


怖さ。


警戒。


完全には消えない。


でも。


目の前の男が。


人間に見えた。


「じゃあ」


アリスが言う。


「どうして今、出てきたんですか?」


廻斗が。


アリスを見る。


「お前だ」


「私?」


「ああ」


廻斗は。


少し困ったように笑う。


「今まで」


「透真が逃げてる限り」


「俺は出るつもりなかった」


透真を見る。


「でも」


アリス。


「この子が」


周囲。


燃える建物。


過去。


「全部引っ張ってきた」


アリスが。


自分を見る。


「私が……」


「気にするな」


廻斗が言う。


「お前が悪いわけじゃない」


アリスの黒い瞳が。


廻斗を見る。


「本当ですね」


「そうだよ」


「でも」


アリス。


「良かったとも思ってますね」


廻斗の目が。


僅かに開く。


透真がアリスを見る。


「感情は分からないんじゃ?」


「言葉に出てます」


「便利ですね」


廻斗が笑った。


「そうだな」


そして。


透真を見る。


「良かったと思ってる」


「なぜ」


「やっと」


一度。


言葉を止める。


「お前が逃げずにここまで来たからだ」


透真は。


何も言わない。


逃げなかった。


それを。


褒められたいわけではない。


正しいとも。


思っていない。


ただ。


自分で選んだ。


それだけ。


「勘違いしないでください」


透真が言う。


「何を」


「今後も逃げます」


廻斗が。


笑った。


「知ってる」


「面倒なら逃げます」


「ああ」


「危険でも」


「場合によるだろ」


「責任からも」


大場が横を見る。


「それは逃げんな」


「社長」


「そこは業務だからな」


アリスが笑う。


廻斗も。


ほんの少し。


笑った。


その瞬間。


燃える建物が。


揺れた。


全員が見る。


炎。


壁。


窓。


世界。


歪む。


アリスの表情が変わる。


「何か」


「はい」


「変です」


廻斗が。


建物を見る。


「俺じゃないぞ」


透真が即答。


「分かってます」


「疑っただろ」


「少し」


「叔父だぞ」


「会って十分です」


「血縁だぞ」


「記憶がありません」


「強いな、お前」


炎の建物。


入口。


暗闇。


その奥。


人影。


小さい。


子供。


透真の目が。


大きく見開かれる。


少年。


十年前の。


自分。


そして。


その隣。


小さなアリス。


さらに。


もう一人。


若い廻斗。


三人。


過去の光景。


現在の廻斗が。


表情を変える。


「……ここまで出るのか」


過去の少年。


透真が。


何かを抱えている。


少女。


アリス。


建物が崩れ始める。


声。


遠い。


聞こえない。


アリスが。


集中する。


「何か言ってます」


「分かるんですか」


「唇」


過去の透真。


口。


動く。


アリスが。


読み取る。


そして。


顔が変わった。


「何て?」


透真が聞く。


アリスは。


すぐには答えない。


「アリス」


「……」


「何て言ったんですか」


アリスが。


透真を見る。


「俺が」


小さく。


「全部から逃げればいい」


透真の中で。


世界が。


一瞬。


止まった。


過去の自分。


炎。


少女。


廻斗。


そして。


もう一つ。


聞こえる。


声。


今度は。


透真自身にも。


――俺が全部から逃げればいい。


頭。


痛み。


記憶。


何かが。


開きかける。


透真は。


反射的に。


逃げようとした。


記憶を閉じる。


思考を切る。


過去との接続を断つ。


できる。


いつでも。


なのに。


廻斗が言った。


「透真」


透真は見る。


廻斗。


叔父。


十年前から。


自分を知る男。


「思い出したか?」


透真は。


数秒。


黙った。


そして。


「……いいえ」


嘘ではない。


まだ。


思い出していない。


廻斗は。


少しだけ笑った。


「そうか」


過去の映像。


建物の奥。


少年の透真が。


小さなアリスを連れて。


さらに奥へ進んでいく。


炎。


崩落。


その先。


何かがいる。


人間。


なのか。


分からない。


透真の目が細くなる。


廻斗が。


それを見る。


そして。


フェンスの奥。


存在しないはずの建物へ。


一歩。


踏み出した。


「じゃあ」


振り返る。


「お前が何から逃げたのか」


炎の向こう。


十年前。


すべての始まり。


「見に行こう」


透真は。


入口を見る。


逃げ道は。


後ろにある。


いつでも戻れる。


いつでも。


逃げられる。


だから。


一歩。


前へ進んだ。

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