第6話 逃げなかった先にあるもの
6話になります。
よろしくお願いします。
8/13 一部改訂
「もう少し詳しく聞かせてください」
久世透真がそう言った瞬間。
事務所の空気が変わった。
白峰アリスは、少し驚いた顔をしていた。
大場泰然も。
廉沙莉も。
誰もすぐには口を開かない。
透真はそれが気に入らなかった。
「何ですか」
最初に反応したのは沙莉だった。
「いや」
「はい」
「久世さんが、自分から聞くって言ったから」
「私も質問くらいします」
「そうですけど」
沙莉が笑う。
「逃げなかったなーって」
透真は黙った。
最近。
周囲にその言葉を使われる機会が増えている気がする。
大場が腕を組む。
「で?」
アリスを見る。
「電話の話だ」
「はい」
アリスはスマートフォンを机へ置いた。
「今朝、九時少し前です」
「番号は?」
透真が聞く。
「非通知でした」
「録音は」
「してません」
「通話時間」
「十三秒」
短い。
アリスは画面を見せる。
履歴には。
非通知。
十三秒。
確かに残っている。
透真の会社へ掛かってきた電話とは違う。
こちらには記録がある。
「声は?」
「男の人です」
「年齢」
「分かりません」
「若い?」
「若いと思います」
「昨日の偽物と同じ声?」
アリスが少し考える。
「違います」
透真の目が細くなる。
「確実ですか」
「はい」
「事実として?」
「はい」
アリスは即答した。
つまり。
顔のない男。
宮城冬真。
少なくとも。
同じ存在ではない可能性が高い。
「何と言われました」
透真が聞く。
アリスは一度。
言葉を確認するように間を置いた。
「白峰アリス」
自分の名前。
「久世透真に伝えろ」
透真の指が止まる。
「十年前の続きを始めよう」
それだけ。
「そのあと?」
「切れました」
「あなた自身に何か言った?」
「いいえ」
「なぜ私に直接掛けない」
「私に聞かれても」
「そうですね」
透真は考える。
会社には直接電話してきた。
アリスには伝言。
理由。
分からない。
「十年前」
大場が言う。
「お前、本当に何も覚えてねえのか」
透真は大場を見る。
「はい」
「何も?」
「断片だけです」
「例えば」
透真は答えようとして。
止める。
炎。
雨。
崩れる建物。
少女。
差し出された手。
そして。
――この子だけは、逃がして。
「……火事」
アリスの目が動いた。
「火事?」
「たぶん」
「どこで」
「分かりません」
「誰と」
「分かりません」
大場が眉を寄せる。
「それ、記憶喪失とかじゃねえのか」
「少し違います」
「何が」
透真は黙る。
自分で逃げた。
記憶から。
過去から。
説明すれば。
当然。
次が必要になる。
どうやって。
なぜ。
何から。
透真はその説明をしたくない。
だが。
大場は言った。
会社に危険があるなら判断させろ。
アリスにも。
もう一部を話した。
何からでも逃げられる。
死からも。
記憶からも。
「自分で忘れました」
大場が止まった。
沙莉も。
「……自分で?」
大場が聞く。
「はい」
「どういう意味だ」
「そのままです」
「人間、自分で好きに記憶消せねえだろ」
「普通は」
大場の目が変わる。
透真は気づく。
言いすぎた。
逃げようと思う。
説明から。
会話から。
追及から。
けれど。
アリスが何も言わなかった。
嘘です。
とも。
本当です。
とも。
ただ。
透真を見ている。
それが。
少しだけ逃げにくかった。
「久世」
大場の声。
「お前」
一度。
止まる。
「何者なんだ」
昨日までなら。
会社員です。
と答えただろう。
嘘ではない。
今日も。
それで逃げられる。
透真は口を開いた。
「分かりません」
大場が眉を動かす。
「自分のことだろ」
「自分だからです」
「……」
「分からないんです」
透真は静かに言った。
それは。
本当だった。
自分の存在意義が。
逃げること。
それは分かっている。
どうしてそうなのか。
なぜ自分なのか。
いつからなのか。
誰が決めたのか。
何も知らない。
大場はしばらく透真を見ていた。
そして。
大きく息を吐いた。
「分かった」
「信じるんですか」
「信じてねえ」
即答。
透真が少し驚く。
「でも」
大場は続ける。
「嘘ついてる顔でもねえ」
「社長、人の嘘が分かるんですか?」
沙莉が聞く。
「分からん」
「じゃあ何で」
「勘だ」
アリスが笑う。
「便利ですね」
「お前に言われたくねえよ」
「私のこと知ってるんですか?」
「久世から聞いた」
透真が止まる。
「話してません」
「あれ?」
大場。
「じゃあ昨日なんか聞いた気が」
沙莉が笑う。
「社長、もう混乱してますね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「久世さん?」
「大体そう」
「私ですか」
「半分くらい」
透真はため息をついた。
いつの間にか。
この会社で自分が異常の中心として扱われ始めている。
逃げたい。
かなり。
「とにかく」
透真は話を戻す。
「御影廻斗について調べます」
「どうやって」
沙莉が聞く。
「名前」
「だけ?」
「十年前という時期」
「はい」
「第零営業部」
「はい」
「そして」
透真がアリスを見る。
「白峰」
アリスの笑顔が薄くなる。
「私の家ですか?」
「家というより」
透真は少し迷う。
「あなたの姓です」
白峰。
あの名前を聞いた瞬間。
記憶が反応した。
御影廻斗。
それも十年前。
なら。
繋がっている可能性は高い。
「アリス」
「はい」
「十年前」
「はい」
透真は聞く。
「何か大きな事故に遭ってませんか」
アリスの表情が止まった。
その変化を。
透真は見逃さなかった。
大場も。
沙莉も。
気づく。
数秒。
「……あります」
アリスが答えた。
透真の身体が僅かに硬くなる。
「何が」
「火事です」
音が消えたように感じた。
透真の奥で。
何かが軋む。
炎。
雨。
崩れる建物。
また。
同じ景色。
「どこで」
透真の声が少し低くなる。
「覚えてます」
「場所を」
アリスが透真を見る。
黒い瞳。
「大阪です」
「詳しく」
「昔、父が所有していた建物です」
透真の呼吸が僅かに変わる。
「十年前」
「はい」
「何月」
「六月」
透真の指先が震えた。
ほんの僅か。
「何日」
アリスは答えた。
「十八日」
その瞬間。
透真の視界が暗くなった。
違う。
暗くなったのではない。
記憶。
炎。
煙。
雨。
人の叫び声。
小さな少女。
手。
誰かが叫んでいる。
――透真!
知らない声。
知っている声。
――逃げろ!
次。
誰かの手が。
透真の肩を掴む。
男。
顔が見えない。
そして。
名前。
口が動いている。
――冬真。
透真の目が開く。
「久世!」
大場の声。
机に手をついていた。
息が少し乱れている。
アリスが目の前にいる。
「透真さん」
「……大丈夫です」
「大丈夫に見えません」
「気のせいです」
「嘘です」
透真は答えなかった。
大場が椅子を引く。
「座れ」
「大丈夫です」
「業務命令だ」
「……」
透真は座った。
沙莉が水を置く。
「はい」
「ありがとうございます」
「珍しいですね」
「何が」
「素直」
「今日はよく言われます」
透真は水を一口飲む。
六月十八日。
場所。
そこに。
何かがある。
「その建物」
透真が言う。
「今は?」
アリスが首を横へ振る。
「ありません」
「取り壊された?」
「はい」
「跡地は」
「残ってます」
透真を見る。
「行きますか?」
即答すればいい。
行かない。
過去だ。
関係ない。
警察へ任せればいい。
十年前から。
もう逃げた。
二度と戻る必要はない。
透真はその答えを探す。
見つかる。
いくらでも。
でも。
言わなかった。
「今日」
大場が口を挟む。
「行くのか?」
透真は見る。
「仕事があります」
「休め」
「急ですね」
「有給」
「申請してません」
「今承認する」
「横暴では」
「社長権限だ」
「便利ですね」
「お前が言うな」
沙莉が笑う。
「私も行っていいですか?」
大場と透真が同時に見る。
「駄目だ」
大場。
「駄目です」
透真。
沙莉が少し口を尖らせる。
「二人とも即答」
「仕事」
大場が言う。
「久世さんも仕事ですよね」
「私は」
透真が言いかける。
大場が睨む。
「有給」
「……はい」
「私は?」
「仕事」
「差別」
「会社は誰かが回さねえといけねえんだ」
「社長が残れば?」
「俺も行く」
透真が見る。
「なぜですか」
「社長だからだ」
「理由になってません」
「お前、昨日から会社巻き込んでんだろ」
「私が巻き込んでるわけでは」
「そういう話じゃねえ」
大場は伊達メガネを押し上げる。
「部下が十年前の火事の話聞いた瞬間に倒れかけた」
「倒れてません」
「じゃあ倒れかけた部下だ」
「同じです」
「一人で行かせると思うか?」
「思います」
「思うな」
透真はため息をつく。
「大場さん」
アリスが言う。
「はい」
なぜか大場の声が少し丁寧になる。
透真は気づく。
「私がいますから」
アリスが笑う。
「透真さんは大丈夫です」
「いや」
大場は即答。
「それが一番不安だ」
アリスの笑顔が止まる。
透真は少しだけ。
大場に同意した。
その頃。
大阪府警。
相良修司は。
昨日の事件資料を見ていた。
襲撃した四人。
理由は分からない。
誰かを車へ押し込もうとしていた。
白峰アリスが声を掛けた。
そして。
追いかけた。
そこまでは。
全員一致。
だが。
押し込もうとしていた相手。
それが。
誰だったのか。
誰も覚えていない。
「相良さん」
若い刑事が声を掛ける。
「はい」
「照会してた件」
「出たか」
「一件だけ」
資料。
十年前。
大阪市内。
建物火災。
死者。
三名。
重傷者。
二名。
軽傷者。
四名。
相良は目を細める。
事件性。
なし。
原因。
電気系統からの出火。
そう処理されている。
「これが?」
「白峰アリス」
若い刑事が指す。
「当時、現場にいました」
相良の指が止まる。
「何歳」
「十一」
相良は資料を見る。
生存者。
白峰アリス。
そして。
もう一人。
名前。
黒塗り。
「これは」
「当時未成年だったので、一部記録が非公開扱いです」
「照会できるか」
「理由要りますよ」
「作る」
「作るんですか」
相良は片目を閉じる。
写真を見る。
燃えた建物。
雨。
救急車。
その端。
少年。
顔は見えない。
アッシュグレーにも見える。
黒にも見える。
濡れた髪。
「……久世」
相良が呟く。
午後三時二十一分。
透真。
アリス。
大場。
三人は。
大阪市内を走る車の中にいた。
運転。
大場。
助手席。
透真。
後部座席。
アリス。
「大場さん」
アリスが言う。
「何だ」
「車、大きいですね」
「俺が普通の車乗ると狭いんだよ」
「なるほど」
「身長百九十五あるからな」
「すごい」
「久世」
「はい」
「お前、さっきから何見てんだ」
透真は窓の外。
街。
「逃げ道です」
「は?」
アリスが身を乗り出す。
「逃げるんですか?」
「念のためです」
「どこから?」
「分かりません」
「分からないのに?」
「だからです」
大場が呆れる。
「お前、旅行行っても非常口確認するタイプだろ」
「当然です」
「ホテルでも?」
「はい」
「映画館」
「はい」
「電車」
「はい」
「面倒くせえな」
「生存率は上がります」
「お前の場合、そういう問題じゃねえだろ」
透真は大場を見る。
「何か?」
「いや」
大場は前を見る。
まだ。
聞いていない。
透真が何者なのか。
でも。
分かっている。
普通ではない。
それだけ。
アリスが窓から外を見る。
「もうすぐです」
透真の胸の奥が。
僅かに痛む。
記憶ではない。
拒絶。
身体が。
行くなと言っている。
ここから離れろ。
戻るな。
忘れろ。
逃げろ。
それは。
透真にとって。
何より簡単なことだった。
「透真さん」
アリス。
「何ですか」
「嫌なら」
少し。
声を落とす。
「戻ってもいいですよ」
透真が振り返る。
「行きたいから来てるわけではありません」
「知ってます」
「なら」
「でも」
アリスは笑う。
「逃げるかどうかは、透真さんが決めるんでしょう?」
透真は黙る。
昨日。
顔のない男に。
自分で言った。
他人に決められるのが一番嫌い。
アリスは。
覚えていた。
「そうですね」
透真は前を見る。
「なら」
大場が言う。
「どうする」
車。
赤信号。
止まる。
目的地まで。
あと二百メートル。
透真は。
ドアを開ければ。
帰れる。
この出来事から。
逃げられる。
記憶からも。
過去からも。
十年前からも。
全部。
また。
捨てられる。
青信号。
車が動く。
透真は降りなかった。
数十秒。
大場が車を止める。
「着いたぞ」
透真は。
窓の外を見た。
空き地。
古いフェンス。
雑草。
何もない。
建物など。
どこにもない。
なのに。
透真には。
見えた。
炎。
雨。
崩れる壁。
そして。
フェンスの向こう。
誰かが立っている。
若い男。
黒いコート。
背中だけ。
風に揺れる髪。
男が。
ゆっくり振り返る。
距離。
五十メートル。
顔は。
見えない。
だが。
透真は。
なぜか。
名前を知っていた。
「……廻斗」
男が。
笑った。
アリスが息を呑む。
「透真さん」
「見えますか」
「はい」
大場が目を細める。
「誰だ、あれ」
三人とも。
見えている。
つまり。
幻覚ではない。
男は。
片手を上げた。
まるで。
十年ぶりに。
友人へ挨拶するように。
そして。
その背後。
何もなかったはずの空き地に。
炎に包まれた建物が。
ゆっくりと姿を現した。
十年前に。
焼け落ちたはずの建物。
透真の瞳が見開かれる。
逃げたはずの過去が。
向こうから。
戻ってきた。
が。
御影廻斗。
口を開く。
声は。
五十メートル離れているはずなのに。
透真の耳元で聞こえた。
「おかえり」
久世透真は。
生まれて初めて。
その言葉を。
恐ろしいと思った。
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