↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/27

第5話 存在しない社員と、逃げられない日常

5話目になります。

よろしくお願いします。

8/13 一部改訂


「逃げんな!」


大場泰然の怒鳴り声が、六階の廊下まで響いた。


久世透真はドアノブに手を掛けたまま止まる。


振り返らない。


「外回りです」


「予定表にねえ!」


「今できました」


「作んな!」


「営業活動は会社にとって重要です」


「お前、営業じゃねえだろ!」


透真は少し考えた。


「では、取引先への挨拶に」


「座れ」


「……」


「久世」


低い声。


大場の声はもともと大きい。


身長百九十五センチ。


熊のような体格。


強面。


腕を組んで立たれると、普通の人間なら謝罪する前に自分が何をしたのか考え始める程度には威圧感がある。


さらに今日は伊達メガネまで掛かっている。


本人としては知的に見せたいらしい。


透真からすれば。


熊がメガネを掛けているようにしか見えない。


「何だその顔」


「何も」


「今、失礼なこと考えただろ」


「考えていません」


「嘘くせえ」


「社長までそれを言うんですか」


「まで?」


透真は黙った。


大場の眉が動く。


その横で。


廉沙莉が口元を押さえている。


笑いを堪えていた。


「沙莉」


「はい」


「笑うな」


「笑ってません」


「肩が揺れてる」


「地震です」


「この階だけか?」


「局地的ですね」


大場が頭を抱える。


「お前らな……」


透真はその隙に外へ出ようとした。


「久世」


背中を向けたまま。


「はい」


「次に一歩動いたら」


大場が言う。


「今日一日、俺の横で仕事させる」


透真の足が止まった。


「……それは業務命令ですか」


「そうだ」


「パワハラでは」


「座れ」


「はい」


透真は席へ戻った。


沙莉がとうとう吹き出した。


「久世さん、弱点そこなんですね」


「違います」


「社長の隣が嫌?」


「集中できません」


「俺がうるせえってことか?」


「はい」


「そこは否定しろ!」


朝から騒がしい。


いつも通り。


そう見える。


だが。


机の上にあるものだけは。


いつも通りではなかった。


社員名簿。


四人。


大場泰然。


廉沙莉。


久世透真。


そして。


もう一人。


知らない名前。


透真は画面を見た。


「これは?」


大場が腕を組む。


「こっちが聞きてえ」


「昨日までいました?」


「いねえ」


沙莉が隣から言う。


「少なくとも私が昨日確認した時は三人だけです」


「追加履歴は?」


「ないです」


「管理者ログ」


「ないです」


「外部アクセス」


「見た範囲ではありません」


透真は沙莉を見る。


「詳しいですね」


「一応、事務ですから」


笑顔。


だが。


目は真面目だった。


この辺りが廉沙莉という人間だった。


普段はよく笑う。


冗談も言う。


だが。


仕事となれば切り替わる。


「名前は?」


透真が聞く。


沙莉が画面を指す。


表示されている名前。


――御影廻斗。


透真は止まった。


一秒。


それだけ。


だが。


大場は見逃さなかった。


「知ってるのか」


「いいえ」


「今止まっただろ」


「読みました」


「名前をか?」


「はい」


「四文字読むのに一秒かかんのか?」


「漢字なので」


「お前、俺を馬鹿にしてんのか」


「してません」


している。


少しだけ。


大場が透真へ顔を近づける。


「本当に知らないんだな?」


透真は画面を見る。


御影廻斗。


知らない。


その名前自体に記憶はない。


だが。


気になるものがある。


入社日。


十年前。


十年前。


自分が過去から逃げた年。


偶然。


そう言ってしまえば、それまで。


しかし。


最近。


偶然という言葉を信用できなくなっている。


「久世さん?」


沙莉が呼ぶ。


透真は視線を外す。


「知らないです」


「本当に?」


「はい」


嘘ではない。


知らない。


ただ。


気になるだけ。


大場はしばらく透真を見ていた。


そして。


「分かった」


意外にも。


それ以上は追及しなかった。


「警察に連絡する」


「待ってください」


透真が即座に言った。


大場の目が細くなる。


「何でだ」


「説明できません」


「なら連絡する」


「もう少し確認してからでも」


「昨日」


大場の声が低くなる。


「お前のパソコンが勝手に動いた」


透真は黙る。


「一昨日は会社で銃まで出た」


「それは私の」


「関係ないって言うんだろ」


先を読まれた。


「でもな」


大場が透真を見る。


ヘーゼルの瞳。


厳しい。


ただ。


怒っているわけではない。


「俺には関係ある」


透真の眉が僅かに動く。


「ここは俺の会社だ」


大場が続ける。


「沙莉も」


沙莉を見る。


「久世も」


透真を見る。


「俺の社員だ」


「社長」


「何だ」


「言い方が少し」


「何が」


「部下を所有物みたいに」


「そういう意味じゃねえ!」


沙莉が笑う。


「いいところだったのに」


「お前も笑うな!」


透真は少しだけ口元を緩めた。


大場がそれを見る。


「……何だ」


「何でもありません」


「久世」


「はい」


「俺はな」


大場が伊達メガネを外した。


強面がさらに強くなる。


「お前が何を隠してるかは知らん」


透真は黙る。


「聞いても言わねえだろ」


「はい」


「そこは否定しろよ」


「言わないと思います」


「だろうな」


大場はため息をつく。


「ただ」


少しだけ声を落とす。


「会社まで巻き込まれてるなら、俺にも判断させろ」


透真の目が止まる。


判断。


それは。


逃げることと少し似ている。


残る。


離れる。


戦う。


逃げる。


それを誰が決めるのか。


透真はいつも。


自分で決める。


だから。


他人にも。


本来。


同じ権利がある。


「分かりました」


透真が言う。


大場が少し驚いた。


「素直だな」


「いつも素直です」


「嘘つけ」


「最近、その言葉嫌いなんですよね」


「何で?」


「知り合いがよく言うので」


沙莉がすぐ反応する。


「白峰さん?」


透真が止まる。


沙莉がにやっと笑う。


「分かりやすい」


「違います」


「嘘」


「あなたまで」


沙莉は楽しそうだった。


「で?」


大場が社員名簿へ戻る。


「この宮城って奴、どうする」


透真は画面へ近づく。


「まず確認します」


「何を」


「本当に存在するのか」


沙莉の笑顔が消えた。


大場も黙る。


「社員データとしてじゃありません」


透真が言う。


「人間としてです」


「……どうやって」


透真は社員情報を開く。


住所。


電話番号。


生年月日。


緊急連絡先。


給与振込口座。


普通なら。


個人情報が並ぶ。


だが。


御影廻斗。


住所。


空欄。


電話番号。


空欄。


生年月日。


空欄。


口座。


空欄。


唯一。


入力されている項目。


入社日。


十年前。


そして。


所属部署。


透真は目を細める。


沙莉が読む。


「……第零営業部?」


「そんな部署あったか?」


大場が聞く。


「ありません」


沙莉が答える。


「今も?」


「ありません」


「昔は」


「設立時からありません」


「なら何だこれ」


誰も答えない。


透真がマウスを動かす。


第零営業部。


クリック。


開かない。


もう一度。


反応なし。


右クリック。


反応なし。


削除。


できない。


「久世さん」


沙莉が言う。


「ちょっと退いてもらえます?」


「どうぞ」


沙莉が操作を代わる。


キー入力。


管理画面。


コマンド。


透真は少し驚いた。


「本当に詳しいですね」


「事務員を舐めないでください」


「舐めてません」


「顔に出てました」


「そんなに顔に出ます?」


「最近すごく」


透真は少し嫌そうな顔をした。


沙莉が笑う。


数分。


「……駄目ですね」


沙莉の指が止まる。


「存在はしてる」


「でも消せない?」


大場が聞く。


「というより」


沙莉が首を傾げる。


「データとして存在してるのに、ファイルが存在しない」


大場が眉を寄せる。


「どういう意味だ」


「説明難しいですけど」


沙莉が画面を見る。


「名簿上では確実にいるんです」


「うん」


「でも、元の情報がない」


「うん」


「誰かが登録した痕跡もない」


「うん」


「なのに」


沙莉が振り返る。


「最初からいたことになってる」


静かになる。


その言葉。


透真は聞き覚えがあるような気がした。


最初から。


いた。


存在していた。


世界は。


後から理由を作る。


存在しているのなら。


最初からそうだったことにする。


昨夜。


顔のない男。


何度も別の人間へ姿を変えた存在。


――世界は秘密が好きなんだ。


それとは違う。


だが。


似ている。


透真が思考を続けた。


そのとき。


電話が鳴った。


会社の固定電話。


沙莉が取る。


「はい、お電話ありがとうございます。大場企画です」


いつもの声。


明るく。


丁寧。


数秒。


沙莉の表情が変わった。


「はい?」


透真が見る。


大場も。


「……どちら様でしょうか」


間。


沙莉が透真を見る。


顔から笑みが消えている。


「少々お待ちください」


保留。


沙莉が受話器を押さえる。


「久世さん」


「はい」


「あなたに」


「誰ですか」


沙莉が少し迷う。


「御影廻斗さん」


誰も動かなかった。


空気だけが変わった。


「本人が?」


大場が低い声で聞く。


「そう名乗ってます」


透真は電話を見る。


黒い受話器。


普通。


何も変わったところはない。


それなのに。


妙に遠く感じる。


「出るな」


大場が言った。


透真は大場を見る。


「でも私宛です」


「だからだ」


「理由になってません」


「嫌な予感がする」


「奇遇ですね」


「お前もか」


「はい」


「じゃあ出るな!」


透真は受話器へ手を伸ばした。


「久世!」


「社長」


透真は静かに言う。


「逃げるにしても」


受話器を取る。


「何から逃げるのかくらいは知っておきたいので」


耳へ当てる。


「お電話代わりました。久世です」


沈黙。


雑音。


遠く。


風の音。


「もしもし?」


返事はない。


透真の目が細くなる。


そして。


声。


若い男。


年齢は分からない。


落ち着いた声。


『久世透真』


「はい」


『ようやく見つけた』


透真は黙る。


昨日も聞いた。


似た言葉。


ただ。


声は違う。


「どなたですか」


『御影廻斗』


「そうですか」


『驚かないんだな』


「驚いています」


『そうは聞こえない』


「よく言われます」


電話の向こうで。


笑った気配。


『十年』


透真の指が止まる。


『長かった』


「何の話ですか」


『お前には』


一瞬。


雑音。


『十年でも』


音が歪む。


『俺には――』


切れた。


透真は受話器を耳から離す。


「久世?」


大場。


「何て?」


透真は答えない。


通話履歴を見る。


着信。


ない。


番号表示も。


記録も。


何もない。


沙莉が確認する。


「電話……鳴りましたよね?」


「鳴った」


大場が答える。


「私も取りました」


沙莉。


透真。


三人とも。


覚えている。


なのに。


記録がない。


透真が受話器を置く。


「十年前」


大場が聞く。


「何があった」


透真は動きを止める。


「電話、聞こえてました?」


「少しだけな」


大場は透真を見る。


「十年前って言っただろ」


「……」


「久世」


透真は答えない。


十年前。


炎。


雨。


崩れる建物。


少女。


白峰。


忘れた記憶。


逃げた過去。


そして。


存在しない社員。


御影廻斗。


透真は目を閉じる。


記憶を探ろうとする。


何もない。


自分で消した。


逃げた。


だから。


分からない。


「覚えてません」


透真が言った。


大場の眉が動く。


沙莉も見る。


「知らない、じゃなくて?」


沙莉が尋ねる。


透真は少し間を置く。


「覚えてません」


それだけ。


大場は何かを言おうとした。


だが。


やめた。


「そうか」


それ以上は聞かなかった。


その反応が。


透真には少し意外だった。


「聞かないんですか」


「今聞いて答えんのか」


「答えません」


「なら聞かん」


透真が見る。


大場は伊達メガネを掛け直す。


「言いたくなったら言え」


「……」


「その代わり」


大場の声が低くなる。


「会社に危険があるなら、それだけは言え」


「はい」


「本当だな」


透真は少し考える。


「努力します」


「そこは約束しろ!」


「約束は苦手なので」


「ほんっとお前は……!」


沙莉が笑う。


緊張していた空気が。


少しだけ戻る。


午前九時二十六分。


社員名簿から。


御影廻斗の名前が消えた。


何の前触れもなく。


沙莉が画面を更新すると。


三人。


元通り。


大場。


沙莉。


透真。


それだけ。


履歴もない。


最初から。


四人目など存在しなかったように。


「……消えましたね」


沙莉が言う。


「良かったじゃねえか」


大場。


「良くはないでしょう」


透真が答える。


「何でだ」


「消えたということは」


画面を見る。


「向こうが必要な時だけ、存在できるということです」


大場の表情が変わる。


沙莉も笑わない。


「つまり?」


「分かりません」


「そこまで言っといてか?」


「推測です」


透真は席へ戻る。


メールを開く。


仕事を始める。


大場が呆れた。


「お前、この状況で普通に仕事するのか?」


「仕事中なので」


「切り替え早すぎんだろ」


「考えても分からないことを考えても、仕事は終わらないので」


「それはそうだけどよ」


沙莉が自分の席へ戻る。


「久世さんらしいですね」


「褒めてます?」


「半分」


「残りは」


「呆れてます」


「そうですか」


午前十時。


何も起きない。


十一時。


何も起きない。


十二時。


何も起きない。


昼休み。


大場は牛丼の特盛を二つ食べた。


沙莉はコンビニのサンドイッチ。


透真は蕎麦。


いつもの昼。


午後一時。


電話。


普通の取引先。


午後二時。


書類。


普通。


午後三時。


来客。


普通。


透真は少しだけ。


錯覚し始めていた。


朝の出来事も。


昨日までのことも。


全部。


普通の日常へ溶けていくのではないか。


異常は。


ずっと続くわけではない。


世界は。


元に戻ろうとする。


午後四時十七分。


エレベーターが六階へ到着する。


透真の指が止まる。


昨日。


同じ時間。


午後四時十二分。


アリスが来た。


今日は。


五分違う。


ただの偶然。


足音。


軽い。


歩幅。


狭い。


スニーカー。


透真は目を閉じた。


「まさかな」


二度。


ノック。


沙莉が立つ。


「はーい」


扉を開ける。


そして。


満面の笑顔。


「久世さーん」


透真は立ち上がった。


帰る。


今なら非常階段。


「逃げないでくださいね」


聞こえた。


まだ姿すら見ていない。


透真が止まる。


沙莉が笑う。


「白峰さん来ましたよ」


白峰アリスが入ってくる。


プラチナブロンドの長い髪。


黒い瞳。


薄いブルーのパーカー。


昨日と変わらない笑顔。


「こんにちは」


「なぜ来たんですか」


「遊びに」


「帰ってください」


「嘘です」


「何が」


「遊びに来たのが」


「自分で言ったんでしょう」


「本当は用事があります」


アリスの笑顔が少しだけ消える。


透真はそれを見る。


「何ですか」


「今朝」


アリスがスマートフォンを取り出す。


「知らない人から電話が来ました」


透真の表情が変わる。


「名前は?」


「言ってました」


透真は聞く前から。


嫌な予感がした。


アリスが答える。


「御影廻斗」


大場が立ち上がる。


沙莉の手が止まる。


透真だけが。


黙っていた。


「何を言われました」


透真が尋ねる。


アリスはスマートフォンを見る。


「一言だけです」


「何と」


アリスが顔を上げる。


黒い瞳。


「十年前の続きを始めよう」


透真の中で。


何かが軋んだ。


一瞬。


炎。


雨。


崩れる壁。


少女の泣き声。


そして。


自分ではない。


誰かの手。


透真は机へ手をつく。


「久世さん?」


沙莉が声を掛ける。


「透真さん」


アリスが一歩近づく。


透真は顔を上げた。


記憶はない。


でも。


身体が覚えている。


御影廻斗。


その名前を。


知らない。


はずなのに。


逃げろ。


頭の中で。


何かが言った。


今すぐ。


ここから。


この名前から。


この出来事から。


逃げろ。


透真は目を閉じる。


逃げようと思えば。


逃げられる。


記憶から。


過去から。


恐怖から。


今すぐ。


全部。


また忘れればいい。


なのに。


透真は目を開いた。


「アリス」


「はい」


「その電話」


透真が言う。


「もう少し詳しく聞かせてください」


アリスの瞳が僅かに見開かれる。


大場も。


沙莉も。


何も言わない。


透真自身も。


気づいていなかった。


今。


自分は。


逃げられるものから。


逃げなかった。


窓の外。


大阪の街。


青い空。


いつもと変わらない景色。


だが。


その遥か上。


誰にも見えない場所で。


何かが。


静かに。


笑った。

コメント、評価よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。