第4話 逃げる男と、逃げない理由
4話目になります。
よろしくお願いします。
久世透真は走っていた。
夜の大阪。
人混みを抜ける。
信号を渡る。
狭い路地へ入る。
普段なら、こんな走り方はしない。
目立つからだ。
久世透真という人間は、目立たないことを好む。
急がない。
騒がない。
争わない。
誰かの記憶に残らない。
必要なら遠回りもする。
それが彼の日常だった。
だが今は違う。
スマートフォンの画面には、数分前に届いたメッセージが残っている。
白峰アリス。
『私の家の前に、透真さんがいます』
そして。
『たぶん、透真さんじゃないです』
意味は分からない。
ただ一つ。
確かなことがある。
何かがアリスのところへ来た。
それだけで十分だった。
透真は交差点へ差しかかる。
赤信号。
車が流れている。
待てば三十秒。
透真は止まった。
三十秒。
普通なら短い。
今は長い。
「……面倒だな」
小さく呟く。
信号から逃げる。
そう考えた瞬間。
透真にとって、
赤信号で待つという結果が消えた。
気づけば交差点の向こう側にいる。
誰かが驚いたように振り返った。
だが透真はもう走り出していた。
その頃。
白峰アリスは、自宅マンションのエントランスに立っていた。
自動ドアの向こう。
一人の男がいる。
身長百七十センチほど。
白いシャツ。
ネイビーのジャケット。
細身の黒いスラックス。
黒いビジネスバッグ。
アッシュグレーに黒が混ざった髪。
そして。
青みを帯びたエメラルドグリーンの瞳。
久世透真。
どう見てもそうだった。
男が自動ドアの前まで歩いてくる。
アリスは動かない。
ガラス越しに見つめる。
男が笑った。
透真は、あんな笑い方をしない。
「アリス」
声まで同じ。
アリスは首を傾げた。
「何ですか?」
「開けてくれ」
「嫌です」
男の笑顔が止まる。
「どうして?」
「透真さんじゃないので」
即答だった。
「俺だよ」
「違います」
「顔も」
「はい」
「声も」
「はい」
「服も同じだ」
「そうですね」
「なら、どうして違うと思う?」
アリスは少し考えた。
「思ってません」
男が眉を動かす。
「分かるんです」
「何が」
「あなたが久世透真ではないことが」
アリスの黒い瞳が男を捉える。
「事実なので」
数秒。
沈黙。
男が笑った。
今度は透真に似せることすらやめた笑い方だった。
「面白い」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「よく言われます」
男が自動ドアへ手を触れる。
鍵が掛かっている。
だが。
ガラスの向こうで何かが歪んだ。
アリスの表情から笑みが消える。
男の指先。
皮膚が揺れる。
顔が変わる。
若い男。
老人。
女。
子供。
そして。
また透真。
「君は」
男が言った。
「何を見ている?」
「事実です」
「事実?」
「はい」
「そんなもの、本当に存在すると思うか?」
アリスは答えない。
男の手がガラスをすり抜けた。
物理的に破壊したわけではない。
ガラスそのものが、そこにある男を拒めなかった。
腕。
肩。
身体。
男が自動ドアを通り抜ける。
アリスは一歩下がった。
「それ」
男が笑う。
「嘘か?」
アリスの瞳が僅かに揺れる。
目の前にいる。
それは事実。
だが。
ガラスを通り抜けた。
それも事実。
矛盾している。
昨日。
透真に感じたものと似ていた。
存在しているのに、
世界の法則から外れている。
「あなた」
アリスが言う。
「普通じゃないですね」
「君もだろう?」
男が一歩近づく。
アリスは構えない。
両腕を自然に下ろしたまま。
重心だけを僅かに落とす。
「戦う気か?」
「できれば嫌です」
「怖い?」
「はい」
男が止まる。
予想していなかった答えらしい。
「怖いのか」
「普通に怖いですよ」
アリスは笑った。
「でも」
右足を半歩引く。
「怖いから負けるとは限りません」
男の腕が伸びた。
速い。
アリスの顔へ。
アリスは手首を取る。
身体を回す。
相手の力を流す。
合気道。
そのまま床へ投げる。
はずだった。
男の腕が消えた。
「――っ」
掴んでいた感触そのものがなくなる。
次の瞬間。
背後。
「綺麗な技だ」
アリスが振り返る。
男がいる。
距離。
一メートル。
逃げられない。
男の手が伸びる。
その瞬間。
「それ以上近づかない方がいいですよ」
声。
男の手が止まった。
アリスが振り返る。
エントランスの入口。
久世透真が立っていた。
呼吸は少しだけ乱れている。
珍しい。
アリスの顔に笑みが戻った。
「本物」
透真が眉を寄せる。
「分かるんですか」
「はい」
「便利ですね」
「でしょう?」
男が透真を見る。
同じ顔。
同じ服。
同じ瞳。
二人の久世透真が向かい合う。
「来たか」
偽物が言う。
「呼ばれたので」
「逃げなかったんだな」
「走ってきました」
「なぜ?」
透真は答えない。
偽物がアリスを見る。
そして再び透真。
「この女が大切か?」
「違います」
「嘘ですね」
アリスが即答した。
透真が横を見る。
「今は黙っていてください」
「はい」
嬉しそうだった。
「大切なのか」
偽物がもう一度聞く。
「質問を変えても答えは同じです」
「なら帰ればいい」
「そうします」
透真はアリスを見る。
「行きましょう」
「はい」
「待て」
偽物が言う。
透真は止まらない。
「お前は俺が怖くないのか」
「怖くありません」
「正体を知りたくない?」
「特には」
「目的も?」
「聞けば説明するんですか」
「しない」
「なら時間の無駄です」
男の笑みが消えた。
「本当に逃げるんだな」
透真が止まった。
振り返る。
「勘違いしています」
「何を」
「逃げるというのは」
透真のエメラルドグリーンの瞳が、静かに男を見る。
「負けることじゃない」
男が黙る。
「あなたと戦う理由がない」
「……」
「正体を暴く理由もない」
「……」
「あなたの目的を知る必要もない」
透真はアリスを指す。
「この人が無事なら、今はそれでいい」
アリスが透真を見る。
男は数秒間、黙っていた。
そして。
笑った。
「なるほど」
顔が変わる。
透真。
アリス。
相良。
知らない男。
知らない女。
次々と。
最後に。
何もない顔。
「だから、お前なのか」
透真の眉が動く。
「何の話ですか」
「いずれ分かる」
「そういう言い方をする人、多いですね」
「世界は秘密が好きなんだ」
「私は嫌いです」
「だろうな」
男の身体が薄くなる。
透真は追わない。
「また会おう」
「できれば二度と」
「無理だ」
「それは」
透真が言う。
「私が決めます」
男が消えた。
完全に。
気配すらない。
静寂。
アリスが透真を見る。
「追わなくていいんですか?」
「なぜ追うんですか」
「敵ですよね?」
「分かりません」
「私を襲いました」
透真の表情が少し変わる。
「怪我は?」
「ありません」
「ならいいです」
「心配してくれたんですか?」
「確認です」
「嘘です」
「……」
アリスが笑う。
透真は大きく息を吐いた。
「帰ります」
「もう?」
「あなたが無事だと確認できたので」
アリスの笑顔が少しだけ変わった。
「やっぱり」
「何ですか」
「私のために来たんですね」
「違います」
「嘘です」
「……帰ります」
透真は歩き出す。
「待ってください」
「嫌です」
「五分だけ」
「嫌です」
「三分」
「嫌です」
「一分」
「嫌です」
「三十秒」
透真が止まる。
振り返る。
「何ですか」
アリスは少し驚いた。
「止まってくれるんですね」
「三十秒です」
「じゃあ」
アリスは透真の前へ立った。
「昨日、聞けなかったことがあります」
「何ですか」
「透真さんの力」
透真の目が僅かに細くなる。
「何から逃げられるんですか?」
沈黙。
「銃弾?」
アリスが一歩近づく。
「事故?」
さらに。
「距離?」
透真は答えない。
「運命?」
その言葉。
透真の表情が変わる。
アリスは見逃さなかった。
「運命からも、逃げられるんですか?」
透真は空を見る。
「たぶん」
アリスが目を見開く。
初めて。
透真自身の口から能力について答えた。
「たぶん?」
「試したことのないものもあります」
「死は?」
「逃げられます」
「事故」
「逃げられます」
「記憶」
透真が少し止まる。
「……逃げました」
アリスの表情が変わった。
十年前。
白峰。
忘れた記憶。
「じゃあ」
アリスが静かに尋ねる。
「何からでも?」
透真は答える。
「おそらく」
「すごいですね」
「そうでもありません」
「どうして?」
透真は少し考えた。
「逃げたものが」
アリスを見る。
「なくなるわけではないので」
アリスは黙った。
「自分がそこからいなくなるだけです」
事故から逃げても。
事故は起きる。
責任から逃げても。
誰かが責任を負う。
記憶から逃げても。
過去そのものが消えるわけではない。
死から逃げても。
誰かは死ぬ。
「だから」
透真は言う。
「便利なだけです」
「便利」
「はい」
「幸せにはしてくれない?」
透真は答えなかった。
三十秒。
とっくに過ぎている。
アリスはそれを指摘しなかった。
「じゃあ」
アリスが言う。
「私からも逃げられるんですか?」
透真の視線が止まる。
「……」
昨日。
逃げようとして。
逃げられなかった。
今日。
会社から帰ろうとして。
結局、彼女のところへ来た。
今も。
帰ると言いながら。
まだここにいる。
「分かりません」
透真は答えた。
アリスが笑う。
「初めてですね」
「何がですか」
「透真さんが、逃げられるか分からないもの」
透真は何も言わない。
「嬉しいです」
「なぜ」
「私、特別みたいなので」
「悪い意味でです」
「それでも特別です」
アリスは笑っていた。
透真はその笑顔から視線を逸らす。
そして。
「もう帰ります」
「はい」
今度はアリスも止めなかった。
透真が歩き出す。
十メートル。
二十メートル。
「透真さん!」
振り返らない。
「また明日!」
透真は片手を上げた。
否定しなかった。
アリスはそれを見て笑った。
その夜。
大阪府警。
相良修司は一人、机に座っていた。
机の上には二つの事件資料。
昨日の襲撃事件。
今日の交通事故。
共通する人物。
白峰アリス。
そして。
久世透真。
相良は写真を見つめる。
片目を閉じる。
癖だった。
視界から余計な情報を減らし、
一つのものを観察する。
久世透真。
会社員。
目立った前科なし。
特別な経歴もない。
昨日。
至近距離から四発撃たれた。
無傷。
弾丸なし。
今日。
六階にいた。
数秒後。
道路にいた。
「……」
相良は写真を机へ置く。
同僚が声を掛ける。
「相良さん、まだやってるんですか」
「ああ」
「偶然じゃないですか?」
「かもな」
「だったら」
「だから調べるんだよ」
相良は資料を閉じる。
「偶然なら」
片目を開く。
「偶然だと確認すれば終わる」
それだけだった。
怪物。
超能力。
そんな言葉は使わない。
分からないものを、
分からないまま決めつけない。
それが相良修司という刑事だった。
「それより」
相良が立ち上がる。
「昨日の連中の身元、もう一回洗うぞ」
「まだ何か?」
「四人とも供述が妙だ」
「妙?」
相良が資料を一枚渡す。
「白峰アリスを追った理由」
同僚が読む。
表情が変わる。
四人。
別々に取り調べた。
にもかかわらず。
全員が同じことを言っている。
――なぜ追っていたのか、分からない。
相良は伊達ではない老眼鏡を外す。
「事件は起きた」
低い声。
「なのに」
資料を見る。
「理由だけがない」
その頃。
透真の会社。
誰もいない事務所。
午後十一時四十二分。
当然。
大場泰然も。
廉沙莉も。
透真もいない。
電気は消えている。
静かな室内。
透真のパソコン。
電源ケーブルは抜かれたまま。
黒い画面。
突然。
白い文字が浮かぶ。
――ESCAPE.
一秒。
消える。
別の文字。
――FATE.
そして。
最後。
――OR CHOOSE.
画面が消えた。
翌朝。
午前八時三十八分。
大場泰然は誰よりも早く会社へ来ていた。
身長百九十五センチ。
熊のように大きな身体。
黒い短髪。
ヘーゼルの瞳。
強面。
その顔を少しでも知的に見せようと掛けている伊達メガネ。
本人は効果があると思っている。
周囲がどう思っているかは別として。
大場は透真のデスクを見る。
昨日の異常。
正直。
怖くないと言えば嘘になる。
だが。
それ以上に。
腹が立っていた。
「……久世の野郎」
低い声。
知らない人間が聞けば、
今から部下を殴りに行くような声だった。
実際は違う。
「何で一人で抱え込んでやがる」
大場は昨日、
透真が帰ったあと。
管理会社へ電話していた。
警察にも。
ビルの警備会社にも。
できることは全部確認した。
社員に何かあってからでは遅い。
特に。
久世透真。
あの男は。
自分が大丈夫なら、
何でも大丈夫だと言う。
大場はそれを知っていた。
「馬鹿が」
そのとき。
扉が開く。
「おはようございまーす」
廉沙莉。
身長百五十三センチ。
クリームブラウンのボブ。
ブラウンの瞳。
いかにもOLという服装が驚くほど似合う。
大場を見る。
「社長、早いですね」
「ああ」
「久世さんのことですか?」
大場が止まる。
「何で分かる」
「顔」
「いつもと同じだろ」
「いつもより熊です」
「熊って言うな」
沙莉が笑う。
朝からよく笑う。
しかし。
自分の席へ着いた瞬間。
仕事の顔へ変わる。
パソコン。
書類。
昨日の未処理分。
黙々と確認する。
数分後。
「社長」
「ん?」
沙莉が画面を見る。
笑っていない。
「これ」
大場が近づく。
「何だ」
「昨日、こんな社員いました?」
画面。
社員名簿。
大場。
沙莉。
透真。
そして。
もう一人。
見覚えのない名前。
写真はない。
入社日。
十年前。
退職日。
空欄。
大場が眉を寄せる。
「誰だ、こいつ」
「知らないです」
「昔の社員じゃないのか」
「この会社、設立七年ですよ」
大場が黙る。
十年前。
会社が存在するより前から。
在籍している社員。
「消せるか?」
沙莉が操作する。
「……無理ですね」
「権限は?」
「管理者です」
「俺のアカウントは」
「同じだと思います」
大場が自分のパソコンを起動する。
社員名簿。
同じ名前。
存在する。
「社長」
沙莉が言う。
「これ、警察に」
「まだだ」
大場が即答する。
沙莉を見る。
「久世が来るまで待つ」
「なんで?」
「昨日から変なことが起き始めたのは」
透真のデスクを見る。
「久世の周りだ」
沙莉は少し考える。
「久世さん、何か隠してます?」
「隠してる」
即答だった。
「知ってるんですか?」
「知らん」
「どっちですか」
「隠してることだけ知ってる」
沙莉が吹き出す。
「何それ」
「長く社長やってりゃ分かる」
大場は伊達メガネを押し上げる。
「部下が嘘ついてるかどうかくらいな」
そのとき。
エレベーターが六階へ到着した。
足音。
一人。
事務所の前で止まる。
大場と沙莉が見る。
ドアが開く。
「おはようございます」
久世透真。
いつも通り。
白いシャツ。
ネイビーのジャケット。
黒いバッグ。
何も知らない顔。
大場が腕を組む。
「久世」
「はい」
「話がある」
透真が止まる。
大場の顔。
沙莉の顔。
二人とも、
いつもと少し違う。
透真は即座に判断した。
「では、外回りに行ってきます」
踵を返す。
「逃げんな!」
大場の怒鳴り声が六階に響いた。
沙莉が吹き出した。
透真はドアノブへ手を掛けたまま、
小さく息を吐く。
平穏な一日。
どうやら。
今日も無理らしい。
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